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ナンダ・コート初登頂80周年記念事業

1936年に撮影された世界初の35mmフィルムによる幻のドキュメンタリー映画『ヒマラヤの聖峰ナンダ・コット征服』の修復保存と、昨年11月に発見された登頂時の国産テントなど装備品の保存。初登頂の際、立教大学の学生達が山頂に埋めた立大校旗、毎日新聞社社旗、日章旗を探すナンダ・コート再登頂プロジェクト

現在の支援総額

3,130,000

20%

目標金額は15,000,000円

支援者数

35

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2017/02/24に募集を開始し、 35人の支援により 3,130,000円の資金を集め、 2017/05/13に募集を終了しました

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ナンダ・コート初登頂80周年記念事業

現在の支援総額

3,130,000

20%達成

終了

目標金額15,000,000

支援者数35

このプロジェクトは、2017/02/24に募集を開始し、 35人の支援により 3,130,000円の資金を集め、 2017/05/13に募集を終了しました

1936年に撮影された世界初の35mmフィルムによる幻のドキュメンタリー映画『ヒマラヤの聖峰ナンダ・コット征服』の修復保存と、昨年11月に発見された登頂時の国産テントなど装備品の保存。初登頂の際、立教大学の学生達が山頂に埋めた立大校旗、毎日新聞社社旗、日章旗を探すナンダ・コート再登頂プロジェクト

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大蔵喜福さんの新しい挑戦! 大蔵さんから昨年聞いていたナンダ・コートの話は身震いました。 インターネットも飛行機も無い、しかも太平洋戦争直前の全体主義の中で若者達が日本で初めてヒマラヤ登頂しました。 今は平和で情報も何かも揃っている恵まれている中で燻っている学生さんがいたら見てもらいたいです。 もしあの時代に自分も生まれいたら同じようにできたのか。。考えれば考えるほど凄まじい記録です。 僕もご支援に参加させて頂きました。 大蔵さん、ありがとうございます! 栗城 史多


 高知県の郷土史家、広谷喜十郎は、ヒマラヤにそびえるナンダ・コート(6867m)に特段の想いを抱いている。広谷は今年85歳を数える。土佐藩士の中には、明治維新ののちに北海道に入植し開拓に尽くした藩士が少なくない。広谷はそうした藩士に強く興味をそそられ研究している。  2007年春、高知県立坂本龍馬記念館で開かれた「反骨の農民画家、坂本直行展」。広谷の足は展示されていた「門田ピッケル」の前でくぎ付けにされた。  広谷は「その日」を鮮明に記憶している。  ナンダ・コートの初登頂に成功した立教大学山岳部は門田ピッケルを使用していた。門田ピッケルの創始者は、四国土佐河内(高知県佐川町)で200年続いた甲冑師である。こうした事実は承知していた。しかし、門田のピッケルを目の当たりにするのは初めてだったのだ。  広谷たちの調査研究によると、農民画家の坂本直行と門田ピッケルの系譜は次のようになる。 直行(1906~1982年)は幕末の志士、坂本龍馬の子孫で、北海道大学山岳部の創設に大きく寄与した。門田ピッケル創始者の門田直馬は直行の父、弥太郎と北海道入植以来の旧知の間柄だった。 門田家は明治維新の廃刀令によって廃業に追い込まれ、細々と刃物を作り生計を立てていた。直馬は25歳(1902年、明治35年)の時に北海道の空知に入植し、開拓に必要な鍬、鎌などを作っていた。農機具製造が軌道に乗ると札幌に拠点を移した。 その門田直馬の次男、茂の元に「同じモノを作ってほしい」とドイツ製のアイゼンを持ち込んだのは、坂本直行の学友で北大山岳部の後輩だった。次いでスイス製のピッケルを持ち込む。茂はそれを見本に第一号のピッケルを製作する。1930(昭和5)年のことだった。 坂本は門田の作ったピッケルを生涯愛用し、著作「山と絵と百姓と」の中で「借り物のピッケル、たとえそれがシェンクにしたところで門田に及ぶわけがない」と綴っている。   門田たちのピッケルは1936年、立教大学山岳部のナンダ・コート初登頂によって世界的に知られことになり、一大ブランドへ一挙に上り詰めていく。 ナンダ・コート初登頂は当時、世界山岳史上で無名に近い日本を一躍有名にした。そればかりでなく、日本製ピッケルで登った事実は、日本の製造技術の優位性を世界に示す格好の機会になったのだ。 三代に渡った門田ピッケルは1986年、後継者である門田正の突然の病気によって60年近く続いたピッケル製作にピリオド打って廃業した。 広谷は、初めて門田ピッケルを目にした感激をこう結んだ。 「門田家は土佐藩で決して知られた甲冑師ではなかった。ところが北海道に移住し、農機具で開拓に貢献し、ピッケル作りに出会って世界に認められた。ナンダ・コートは土佐人門田を有名にしたのです」   (※写真は立教大学山岳部・堀田弥一隊長の装備。門田ピッケルがある=渡辺正和撮影、富山県立山博物館の資料より)


立教大学山岳部部長で同大教授の辻荘一(1895~1987年)の文書が公益財団法人日印協会(東京都中央区)に残されていた。 日印協会は1903(明治36)年、大熊重信、渋沢栄一らによって組織され日本、インド両国民の文化、経済交流を促進する目的で設立された。 辻は「日印協会会報 第六十号」(1936年=昭和11年12月発行)に「ナンダコット聖峯探検に就いて」と題して寄稿している。 辻は当時、堀田弥一をはじめ部員を毎週自宅に招き、ドイツ人登山家バウアーの原書を読み進めて登山技術を一緒に研究していた。辻自身、神戸一中の生徒のころ、日本アルプスの存在を世に知らしめたウェストンと上高地で会ったほどの登山家だった。辻の息子は、毎日新聞北京支局長をしていた。その毎日新聞社(当時、東京日日新聞、大阪毎日新聞)は後に立大山岳部をサポートすることになるのだから不思議な縁である。 辻の寄稿文を読むと、「この事業に日印協会の協賛を求め、その一般的援助を受けるのは協会の趣旨にも添う事でもあり、またその機関紙の上において登山者としての我々の考へを披露して印度に興味を持つ会員の注意を喚起するのは大いに意義があると思う」と書いている。 辻は、資金の援助を得る目的で日印協会を訪問。会員企業からの支援を受ける見返りなどとして寄稿したのだろう。 堀田弥一も後輩の貴族院議員の子息に働きかけ、この子息を介して大阪毎日新聞社、東京日日新聞社に後援依頼を取り付けている。山岳部一丸になって資金を集め、遠征費を念出し、夢の実現に奔走した。 隊員達の遠征費積算の元は、1929年に出版されたバウアー著書「ヒマラヤ探査行」で、この本には食料、装備などのほか経費まで記録されていた。その経費は約4万マルクで、堀田達は1マルク50銭と換算し、当時の円で2~3万円を集めれば、ナンダ・コートに登れると踏んでいた。 辻、立大山岳部員は、その金額を経費の目安にした。同時に新聞紙上でも募金を呼びかける。堀田達の報告書などを見ると、遠征資金は約3万円を集めたと記録されている。 1930年代の1万円は、現在の貨幣価値にして約640万円。大卒の月給は平均125円とされた昭和10年代である。現在の貨幣価値にして約1920万円もの大金を集めたことになる。 日印協会は第二次大戦中にインド独立運動に協力したとして連合軍によって活動を禁止された時期がある。その苦難を乗り越え活動を続ける日印協会で、立大山岳部の足跡に出会えたのは幸運だった。 寄稿文の末尾には「追記」を掲載している。原稿締め切りのあとに、ナンダ・コート初登頂の吉報を受け、急きょ補足したのだ。その一節。 「私達はこの計画を発表して以来、諸方面の絶大なる援助に対してここに報ゆることが出来たのを何よりの喜びと思うものである」 http://sangaku-e.com/nandacourt/


 支援金を募る活動を開始した今月(3月)、本80周年記念事業実行委の一人、大蔵喜福の元に一通のメールが届いた。  メールに添付された集合写真には竹節作太が写っていた。  メールの主は新潟県佐渡市に在住する藤井与嗣明さん、68歳。藤井さんは現在、佐渡山岳会の歴史を調べている。  藤井さんは、集合写真のほか昭和13年(1938)6月8日付の東京日日新聞新潟版の記事も添えている。  「ナンダコット征服者 本社竹節氏を招いて 佐渡山岳会が講演会」  記事三段分の大見出しに引き込まれて記事を読み進めると「世界山岳史に驚異的偉業を残した立教山岳部」とあり、竹節は、撮影したドキュメンタリー映画「ヒマラヤの聖峰 ナンダコット征服」の上映と、講演会のため佐渡山岳会に招かれ、島内で4日間、4ケ所で講演すると紹介されている。竹節は直前まで北支戦線(中国)に派遣され取材をしていたともある。  藤井さんの調べによると、東京高等師範学校(東京教育大、現筑波大)の付属中学校桐蔭会山岳部が昭和6年4月1日、佐渡島のほぼ中央に位置する金北山(1171m)に登頂。下山中、猛吹雪に遭遇し、生徒2人と成人の案内人の計3人が命を落としている。佐渡山岳会はこの遭難事故をきっかけにして結成された。  結成当初は、有志的な集まりだった。しかし、昭和12年(1937)ころには会員も増え全島的な組織に拡大して行った。  全島組織に成っていく佐渡山岳会と同じころ、立教大学山岳部も遠きヒマラヤを目指し、研鑽を重ね青春の輝きを放っていた。 ナンダ・コート初登頂の翌、昭和12年には、北京郊外で盧溝橋事件(7月)も勃発し、泥沼の日中戦争へとのめり込んでいく。  藤井さんは佐渡山岳会史を調べる動機を次のように語る。  「戦争に向かう時代にあっても(佐渡山岳会)会員達は山を通して在りし日の青春を謳歌していました。先輩の皆様の記録を残していきたいのです」  今年2017年、アジアの多くの国々の人達にとって日中戦争80年の節目の年でもある。  今回、ナンダ・コート再登頂を目指す隊長を務める大蔵喜福は「平和の象徴として80年前と同じルートを登りたい」と計画している。


 ナンダ・コート、6867m。1936年10月5日午後2時55分(日本時間午後5時55分)。  立大山岳部の堀田弥一隊長、山縣一雄、湯浅巌、浜野正男、特派員の竹節作太、そしてシェルパのアンツェリンの6人全員が山頂に立った。  山頂に立った5人の勇姿がドキュメンタリー映画「ヒマラヤの聖峰 ナンダ・コット」(28分)に収まっている。  撮影カメラ「アイモ」を回した竹節は、1972(昭和47)年に出版した自著「遠近の山」で登頂シーンの撮影を次のように回顧している。 「リュックから急いでアイモを取り出し、フィルムの詰め替えにかかった。黒布で作った袋の中へ素手を入れて、手探りで詰め替えるのだから、指先がジーンと凍えて、上手くいかない。気が焦る。やっと詰め替えて、皆に肩を組んでもらって盲滅法に写した。絹手袋一枚だけの指先はもう感覚がなくなった」 アイモはドイツ製撮影機で、フィルムをゼンマイで巻き上げて撮影する。フィルムを1回装填して撮影できる時間は3分程度。カメラマンは度重なるフィルム交換を求められた。 アイモの重さは11㎏を超え、フィルムは五千尺を持参したという。五千尺と言えば、1515mの長さである。カメラとフィルムを運搬するだけで相当の労力を要した。 竹節はアイモのほかに12枚撮りの写真機「ウエルターペレルF4.5」を携行し、スチール写真も撮っている。    2017年2月28日午前11時。日本BS放送株式会社ビル5階。多くの報道陣が詰めかける中、同社の4月から始まる番組の記者発表が行われた。  同社は開局10周年を迎える。登壇した二木啓孝編成局長が記念番組のライナップを紹介して行く。隊員5人の姿が写るセピア色にあせた一枚の写真をスクリーンに映し出した。 「ナンダ・コート山頂に埋めた日章旗、立大校旗、毎日新聞社旗を探す再登頂をドキュメンタリー番組として放送します」    再び「遠近の山」に記された登頂シーン。  「隊長たちはピトン(ハーケン)に日章旗、立教大学旗を縛り付けて頂上の雪穴に埋めようとしている。私も大急ぎで毎日新聞社旗を一緒に縛り付けてもらった。するとアンツェリンもポケットから赤い布片を取り出してピトンに縛り付けた」   セピア色にあせた写真は80年の時を超え、隊員たちがシェルパを仲間として受け入れ、アンツェリンも隊員たちを友人として受け入れ、固い絆で結ばれた物語を伝えている。 http://sangaku-e.com/nandacourt/