OMOYAのセルフリノベーション作業もかなり進みました。何とか宿泊施設として活用できる状態も見えてきましたが、皆様のご支援をいただくことでよりクオリティーの高い完成を目指したいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!! 今回の活動報告ではおおよそ完成が見えてきたOMOYAのリノベ前と後の写真を比較してみたいと思います。 母屋正面、以前は大きな庭が広がっていた部分は道路となってしまい、コンクリートで覆われた殺風景な姿となっていました。 屋根裏から出てきた竹材で小さな垣根を作り、そこに山から採ってきた木々や、苔などの植物を植え小さな庭を作りました。 家の真ん中にあった畳の部屋には掘りごたつがありました。損傷も激しく暗いイメージの部屋だったので、床を張り替え白い壁をたてギャラリースペースにしました。 床の間、座敷は残された不用品が山積みとなっていましたが、比較的状態も良かったので最低限必要な修繕のみを行い元の良さを活かした空間としました。 撮影の時は収納スペースに押し込まれていた古い品々を並べました。 キッチンは30年前の改装でボードで覆われてしまっていたものを全て取り除き、OMOYAの構造が見えるような空間にしました。 照明や什器、キッチンまわりのものはオープンに向けて充実させたいと考えているところです。 テラスを作ったエリア。ここは耕作放棄で雑草が多い茂った荒地でした。シェアガーデンとして活用するには今後さらに改善が必要な部分だと感じています。 木の箱に小さな庭を作ってみました。 クラウドファンディング終了まであと少しとなりました。 多くの方から支援をいただければ、より一層充実したアーティスティックで、おもしろい場を作ることができます。私たちもオープンに向けてさらなる飛躍を目指したいと思っています!どうぞよろしくおねがいします!
先日の超大型台風21号が直撃し、屋根瓦とテラスの屋根が飛んでしまいました。。。 もともとの瓦の並びは下記図のような状態です。 碧南窯業webサイトより http://www.kawara.net/05_data/j1.shtml 風切り丸という屋根瓦の部位はまさに風の影響を一番強く受ける部位で、他の瓦屋根が飛んでしまうのを防ぐ為の機能があるようです。みごとにその「風切り丸」がまるごと吹き飛んでしまいました。 吹き飛んだ瓦が1F部分の屋根瓦に直撃し、他の瓦もたくさん割れてしまいました。 さらにキッチンのポリカ製の屋根を突き破り、ぎりぎり簾の日よけで瓦の破片が止まっていました。 尖った瓦の破片があと少しで突き破ってきそうです。運良くこのタイミングではOMOYAには不在だったので、だれも怪我なく不幸中の幸いでした。 庭になるエリアのテラスの屋根も完全に吹き飛んでしまいました。。。 クラウドファンディングも2週間ちょっとを残すのみとなりました。修理とリノベも頑張ります!!よろしくお願いします!!
前回の続きです。http://camp-fire.jp/updates/view/39216 前編の写真で真ん中に立っていた少年は成長し結婚しました。祖父母の結婚写真OMOYAの床の間で撮影したものです。 時代は高度経済成長真っ只中、ちょうど東京タワーが完成した頃、祖父は大半の田畑を売り工場経営を始めます。 工場を始める前は牛を飼い、畜産も行なっていたそう。 当時のOMOYA周辺です。 時代は流れ 父と母が出会い。 私も誕生(曽祖母に抱かれて記念写真) (当時のOMOYA周辺の様子) ご先祖さまの移住から、600年の時を経て同じ場所で私も育ちました。 OMOYAのセルフリノベと共に行なったルーツに関するリサーチでは自分が生まれ育った土地や家、受け継がれてきた大きな時間の流れを改めて振り返る良い機会となりました。 そして空き家となってしまったOMOYAにはどんな可能性があるのか!?パトロンとなってくださる方々、ここを訪れてくださる多くの皆さんと探っていけたらなと思います。
現在、宿泊以外を希望されるパトロンの方々の為に新たなリターンの追加準備中です! 一つは、リノベーション作業で出てきた古材等を活用したテーブルを皆様に使っていただければと考えています。 またイベント等で使用していただくことができる1日OMOYAの貸切プラン(宿泊不可)も検討中です。 来週半ばには更新される予定ですので、ご期待ください!よろしくお願いします!
現在リノベーション中の築100年の古民家ですが、それ以前のご先祖さん達のことを知りたくて、檀家となっているお寺を尋ねました。 6代前の平八さんという方がお寺に納めた位牌だそうです。これが残っている一番古い位牌です。 お寺の戒名の記録を紐解くと最初にその名前が登場するのは1460年頃です、住職さんの記録を書き写したメモです。1400年代初頭、約600年前にはこの地で暮らしていたといえるのではないでしょうか。 1467年〜1477年頃が応仁の乱の頃ですから、それより前からこの土地にずっと住んできたことになります。(※画像はwikiより)京都市内から移住してきて農業を始めたとも聞いています。 家には先祖代々の歴史を書き綴った家系図があるのですが、虫食い、破損も多く私には解読不可能です。これもいつかは解明したいと考えています。 創建1300年の地元の神社には春日大社の小宮を寄進していて、藤原系のお嫁さんを多くもらっているような歴史があるようです。 〜それから約400年が経過〜 そこから400年以上が経過して、写真が残っている最も古いご先祖さまの1人、オタキさんと呼ばれる4代前のこのお方、このオタキさんの息子がOMOYAを建てました。 この写真は2000年代初期のものですが、この何百年とほとんど風景は変わらなかったのではないかと思います。ご近所はみなさん田中姓です。家の周辺の土地は賭け事にのめり込んでしまったオタキさんの母の頃にたくさん借金のかたに取られてしまったそうです。 真ん中で軍服を来ているのがOMOYAを建てた曽祖父です。この写真は第二次世界大戦の徴兵時、陸軍曹長として中国に長く滞在していました。大変苦労に苦労を重ねたそうで、稲作をたくさんして土地を増やして10000㎡までに耕作面積は広がっていたそうです。 曽祖父の帰りを待つ家族達の写真です。真ん中の女性が高祖母おタネさん。弱音一つはかない大変気丈な女性であったそうですが、曽祖父が終戦後に帰って来た際はあまりに嬉しくてボロボロに泣き崩れたそうです。 〜後編に続く〜