手作り「あく巻き」は次のようにして製造されます。 ①「あくまき」を包む竹皮は近隣の竹林から採集して天日干しして保存します。 ②「あく巻き」を炊き上げるための薪は火力の強い天然の樫などを使います。 ③灰汁(あく)は鹿児島県大隅半島の良質なものを取り寄せて使用します ④もち米は宮崎県新富町で栽培されたもち米を24時間浸し、竹の皮に包んで2時間半かけて炊き上げます。 ④こうして二つの釜で「あく巻き」は50個前後製造されます。

現在の支援総額
436,000円
目標金額は300,000円
支援者数
49人
募集終了まで残り
終了
このプロジェクトは、2017/05/25に募集を開始し、 49人の支援により 436,000円の資金を集め、 2017/07/25に募集を終了しました

現在の支援総額
436,000円
145%達成
目標金額300,000円
支援者数49人
このプロジェクトは、2017/05/25に募集を開始し、 49人の支援により 436,000円の資金を集め、 2017/07/25に募集を終了しました
手作り「あく巻き」は次のようにして製造されます。 ①「あくまき」を包む竹皮は近隣の竹林から採集して天日干しして保存します。 ②「あく巻き」を炊き上げるための薪は火力の強い天然の樫などを使います。 ③灰汁(あく)は鹿児島県大隅半島の良質なものを取り寄せて使用します ④もち米は宮崎県新富町で栽培されたもち米を24時間浸し、竹の皮に包んで2時間半かけて炊き上げます。 ④こうして二つの釜で「あく巻き」は50個前後製造されます。
平成29年8月末に発行予定の第5集の表紙は、58年前、昭和35年の大淀小学校の写真です。当時は南側の校舎はまだ木造だったようで、運動場では父母たちの競技が行われている様子からすると、秋の運動会の写真だろうと思われます。 この第5集では元宮崎県文化財保護審議会会長だった甲斐亮典先生が執筆された「宮崎民族学会」の機関誌「みやざき民俗」第68号から「川の名」考についてを転載させて頂きました。 それによりますと、戦国大名・伊東義祐が16世紀半ばに書いたと伝えられる「飫肥紀行」に ”神代よりその名は今も橘や 小戸の渡りの舟の行く末” という歌が残されていて、この小戸の渡りが転じて「おおよどがわ」に転化したのではないかという説と、水量豊かに大きく淀んで流れる川と言う自然の姿から「大淀川の名称」が生じたものではないかと書かれています。 写真は現在の大淀川です(国土交通省九州地方整備局 宮崎河川国道事務所提供) また、第5集ではこれまで「マチオモイ帖」の印刷をお願いしている北一株式会社のご厚意で表紙の大淀小学校の写真を含め懐かしい写真5枚を掲載することになりました。 写真①は昭和30年代の三角茶屋うどんの外観です。第4集で掲載した「夕日に魅せられた川端康成と日向路」の中で紹介した川端康成が天ぷらうどんを食べた頃は三角茶屋うどんはこんな外観だったのです。 写真②は南宮崎駅前の様子で、多くの飲食店が立ち並んでいる様子が良く分ります。第4集で紹介した「みきや食堂」もこの一角にありました。 写真③は元有明旅館(現在はビジネスホテル有明)の通りで、当時は有明通りと呼ばれていたようです。道幅は現在より随分と狭く、突き当りに南宮崎駅が見えています。 写真④は昭和33年の大淀川で、大淀川河口に現在でも残っている「千本杭」が見えています。赤江港では丸島の南側(大淀側)に上方などからの千石船を係留させていたので、その岸壁近くの水深が浅くならないように、砂の流れを防ぐ(調整する)目的でこれらの千本杭が打ち込まれたということです。最初の千本杭は江戸時代の終わりに杉丸太などが打ち込まれたと言われていますが、現代の千本杭はコンクリート製になっていて主に大淀川左岸堤防沿いに設置されています。写真の千本杭は丸島の南側(大淀側)に残存している杉丸太の千本杭だと思われます。 その他、第5集には昭和20年代の終わりに宮崎市内を走っていたトレーラーバスの写真も宮崎交通広告宣伝部より提供して頂き、「トレーラーバスとカバヤキャラメル」の中で掲載しています。
第4集は昭和40年頃の橘橋南詰の石坂屋旅館から中村東1丁目にかけて建ち並ぶ商店街が表紙となっています。 この第4集では、マチオモイ帖製作委員会のメンバーである遠山智子さんに生まれ育った中村町2丁目界隈の想い出を綴ってもらいました。 だるま屋肉店ではコロッケ販売が始まり、10本100円のウインナーソーセージも発売されたそうです。久保田魚屋では刺身一人前100円だったことなど当時の商店街の賑わいが伝わってきます。 通りの向かい側には宮崎交通社長だった岩切章太郎さん宅のバラ園があり、春になるとそのバラ園が市民に開放されたそうです。写真は昭和40年頃の中村西2丁目界隈の商店街。大きな樹木のある建物は福島医院です。 天神町エッセーと題して曽我國治さんは天神町1丁目の製麺屋(湯浅うどん製麺所) 、てんぷら屋(島崎かまぼこ店)、飴玉屋(七福堂)、3丁目には太田観音さん、太田保育所、その向かいは岐部竹屋、その並びには柿塚石材店、丸山くろんぼ屋、4丁目には木村材木、その近くには時任駄菓子屋、上村青果店などがあったことなどを地図入りで紹介して頂きました。 現在の中村西3丁目で歌謡教室を開いている古場邦子さんは、お父さんが鐘紡の主任だったこともあり、カネボウで働く女工さんたちの写真を提供して頂きました。 第3集で宮園さんがピッチングを教えてもらったという元阪神タイガースの選手だった入江淳さんは昭和33年大淀高校が甲子園出場を果たし、その夏の優勝校・山口県の柳井高校と戦った時の写真等を提供して頂きました。 昭和24年に当時の太田2丁目で生まれた佐藤能史さんは夏から秋にかけての楽しみは近くの大淀川での川遊びだったと言います。大山釣具店でゴカイを買ってウナギ、チヌ、フナなどの魚釣りに興じていた思い出を投稿して頂きました。 写真は昭和41年夏材木町から日葡本線の鉄橋(列車が通過中)を望む様子です。
第3集は、昭和40年頃の橘橋南詰の遠山商店(乾物屋)から中村西1丁目にかけて立ち並ぶ商店街が表紙となっています。 第3集では「野球仲間の想いで」と題して宮園昌彦さんが小学校時代から野球に打ち込んできた想いでが寄せられています。小学校時代は「東(あずま)カープ」というチームを作り、かつて阪神タイガースに在籍されていた入江淳さんからピッチングを教えてもらったそうです。 写真は大淀中学校時代、宮林戦(宮崎から小林までの中学校野球の対抗戦)で2連覇を果たした時の記念写真です。優勝旗を持っているのが宮園さん、最前列の中央が小村野球部監督さんです。 白石(旧姓長友)さんは天満宮の夏祭りにあわせ、当時桃山にいた叔母さんに踊りを習い、7月の終わり(たぶん昭和30年8歳の頃)に夏祭りの舞台で踊ったそうで、それから60年余、踊りが好きな白石さんは現在はジャンルを社交ダンスに変えて日々汗を流し、しなやかで健康的な毎日を過ごしています。挿絵は中川雄一会長作画です。 また第3集では、渡邉綱纜さんが宮崎交通企画宣伝課長時代にNHK朝の連続テレビ小説「たまゆら」の取材旅行に来県した川端康成を鵜戸神宮や三角茶屋うどんに案内した時の様子を渡邊綱纜著「夕日に魅せられた川端康成と日向路」から引用させて頂きました。 南宮崎駅前でお母さんが「みきや食堂」を開いていた相馬(旧姓三木)敬子さんが夏休みには南宮崎駅のホームでラジオ体操をしていた当時の写真を投稿してくれました。ちなみにお父さんは大淀中学校教諭だった三木広敬先生です。
第2集は、昭和40年頃の南宮崎駅舎が表紙となっています。 南宮崎駅は、大正2年に宮崎軽便鉄道が開業した時は「赤江駅」、その後大正4年に「大淀駅」、昭和17年に現在の「南宮崎駅」と名称を変えてきました。 私たちが学んだ大淀小学校・大淀中学校では新学期やお別れ遠足はこの南宮崎駅から軽便鉄道に乗って「こどものくに」へ行くのが定例でした。 この南宮崎駅前の様子については近くで「高橋食堂」を開業していた高橋和昭さんが、駅前で待機している宮交バスの写真と共に、この付近には沢山の食堂や土産品店等があったことを詳細に纏めて頂きました。 そのほか第2集では「祭りいろいろ」と題して、「天神様の夏祭り」での「お神輿担ぎ」の体験談や善栖寺の「水かけ地蔵祭」”じぞうさまちょうせー”の掛け声、「神武さま」の獅子舞の想い出等をマチオモイ帖製作委員会中川雄一会長が挿絵をまじえて綴っています。 昭和28年生まれの小八重さんは「子ども達の遊び」として「8マラ」や「長馬があったことを挙げられています。この挿絵も中川雄一会長の作画です。 白石(旧姓長友)さんは、50年前の京塚町の様子を見取り図を添えて紹介しています。その中では、近くのため池でトンボ釣り(ギンヤンマ)を楽しんだ想い出等を綴って投稿して頂きました。挿絵は同じく中川雄一会長です。 第2集の裏表紙には当時のマチオモイ帖製作委員10名の顔写真が掲載されています。 プロジェクトの応援、よろしくお願いします。 https://faavo.jp/miyazaki/project/2064#pj-single-nav