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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

誰でも本が作れる。誰でも本が発行できる。誰でも出版社が作れる。この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が、高尾五郎作の「ゲルニカの旗」、「最後の授業」、「吉崎美里と絶交する手紙」、「南の海の島」の四編の中編小説を360ページに編んで、クラウドファンディングに投じる渾身の第一作。

現在の支援総額

287,600

110%

目標金額は260,000円

支援者数

20

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/07/23に募集を開始し、 20人の支援により 287,600円の資金を集め、 2020/09/07に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

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現在の支援総額

287,600

110%達成

終了

目標金額260,000

支援者数20

このプロジェクトは、2020/07/23に募集を開始し、 20人の支援により 287,600円の資金を集め、 2020/09/07に募集を終了しました

誰でも本が作れる。誰でも本が発行できる。誰でも出版社が作れる。この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が、高尾五郎作の「ゲルニカの旗」、「最後の授業」、「吉崎美里と絶交する手紙」、「南の海の島」の四編の中編小説を360ページに編んで、クラウドファンディングに投じる渾身の第一作。

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武満徹が亡くなったのが1996年だから、もう25年の月日が流れ去ってしまった。しかし彼の残した音楽は不滅で、ベルリン・フィルやボストン・フィルといった世界の名門フィルがしばしば彼の作品を演奏している。「系図──若い人達のための音楽詩」(Family Tree –Musical Verse for Young People)という作品がある。ニューヨーク・フィルが創立150周年を記念して武満に委嘱した作品である。いかにこの作品に取り組んだかを武満は次のように記している。「題名がしめすように、この曲の主題は家族というものです。ズービン・メータさんから「子供のための音楽を書くことに興味はないか」と問われ、その時は考えもしなかったことでしたが、この騒騒々しさだけが支配的で、ほとんど人工の音に浸っている日常生活を送っている、特に若い人たちのために、なにか、穏やかで、肌理のこまかな、単純な音楽が書いてみたくなったのです。そのときすぐに頭に浮かんだのが家族というテーマでした」 そして武満は谷川俊太郎の長編詩をテキストにする。その長編詩は少女が家族を描くという視点になっていて、「むかしむかし」から始まって、「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」と展開され、最後に十五歳になった少女が世界にのりだしていく景色を描く「とおく」という構成になっている。その詩がどのようなものか、最後に語られる「とおく」という一章を転載してみる。とおくわたしはよつちゃんよりもとおくへきたとおもうただしくんよりもとおくにきたとおもうごろーくんよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもうもしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりもごろーはいつかすいようびにいえをでていってにちようびのよるおそくかえってきたやせこけてどろだらけでいつまでぴちゃぴちゃみずをのんでいたごろーがどこへいっていたかだれにもわからないこのままずうっとあるいていくとどこにでるのだろうしらないうちにわたしはおばあちゃんなるのかしらきょうのことをわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしらここよりももっととおいところでそのときひとりでいいからすきなひとがいるといいなそのひとはもうしんでもいいからどうしてもわすれられないおもいでがあるといいなどこからうみのにおいがしてくるでもわたしはきっとうみよりもとおくへいけるニューヨーク・フィルの委嘱作だから、この日本語を英語にしなければならない。谷川俊太郎が刻み込んだ詩は次のような英語になっている。A Distance PlaceI think I have come farther than Yotchan,father than Tadashi.I think even farther Giro, my dog, and father than mamAnd possibly farther than both my dad and great grandpaGoro left home one Wednesdayand came home late the next Sunday night.He was thin and all covered with mudand kept on lapping up water for long time.No one know where he was.If I keep on walking like this where will I end up?Will I wake up and find myself an old woman?Will I have forgotten all about todayand be sipping teain some place even farther off than here?If so, I hope there’d at least be one person with me I could loveIt doesn’t matter even if he’s dead.I only wish I would have an unforgettable memory of him.The smell of the sea comes in from somewhere.but I’m sure I can go farther than the sea.そして、ぼくが手にしているCDは小沢征爾盤である。手兵の「サイトウ・キネン・オーケスラ」を奏するのだが、この語り手になったのが征良だった。ぼくは一瞬にして恋に落ちた。彼女の朗誦に、彼女の美しい英語に。それはなにもかも武満が仕掛けた魔術のなせるわざだった。武満が紡いだ旋律はこよなく美しい。そのCDにはもう一曲、「My Way of Life──私の生活作法」という曲が吹き込まれている。「この曲は、詩人の田村隆一の短いエッセイに想を得て作曲された。作曲家を志した頃、私は、重症の結核で、たえず死というものに脅かされていた。そして現在は、健康であっても、死は以前よりもずっと間近にあり、それはおそれるよりは、むしろ、親しいものとして感じられるような年齢になった。私は、現在、ごく素直に自分のうたを親しい友たちの前でうたうような気持ちで、この作曲を終えた」この曲もまた言葉が宇宙と交響するように歌われる。魂のそこに響いてくる名曲である。Baritone(バリトン)I was once asked to write about “my way of life”The expression puzzled me. I supposed a cat has its way of life, and a dog must have its one. So I composed the following poem.Chorus(合唱)I like a tree because it is mute.I like a tree because it doesn’t walk or run around.I like a tree because it doesn’t yell about love or justice.Is this true?Is it really so?Baritone(バリトン)To a discerning eye.A tree is whispering –in its calm, soothing voice.A tree is walking –toward the sky.A tree is running as swiftly as lightning—into the earth.True, a tree doesn’t yell, yetA tree isLove itself, Otherwise, why would birds come flyingTo perch on its branches?It’s justice itself.Otherwise, why would its roots suck up subterrancan waterTo return it into the air?Chorus(合唱)Green saplingGnarled old treeNo two trees are the same.No two trees are wake.In the selfsame starlight.TreeI love you deeply.‥‥‥‥‥‥‥田村隆一の刻み込んだ日本語はこうである。私の生活作法生活作法ということを聞いてぼくはびっくりした。猫には猫の生活があり、犬には犬の生活作法があるだろう。そこでぼくはこんな詩を書いてみた。木は黙っているから好きだ木は歩いたり走したりしないか好きだ木は愛とか正義とかわめかないからすきだほんとうにそうかほんとうにそうなのか見る人が見たら木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で木は歩いているのだ 空にむかって木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ木はたしかにわめかないが木は愛そのものだ それがなかったら小鳥がとんできて枝にとまるはずがない正義そのものだそれでなかったら地下水を根から吸いあげて空にかえすはずがない若木老樹ひとつとして同じ木がないひとつとして同じ星の光のなかで目ざめている木はない木ぼくはきみのことが大好きだ‥‥‥‥


われらの街に立つ叡智の樹われらの人生の師、97歳になった周藤佐夫郎さんの生命力あふれる絵画と、高尾五郎さんの対決絵画展が、7月25日、中延商店街・スキップロード「ふれあい広場」で開催された。小さな絵画展だったが、しかし私には限りない勇気と力が与えられた。それは周藤佐夫郎さんの生きる姿勢だ。七年前に最愛の妻を失い、いまは一人で暮らしである。買い物も、洗濯も、食事作りも、独力で行い、そして絵を描いている。私が驚嘆するのは、小さな絵画展といえども、大きなエネルギーを要するが、周藤さんは少しも手を抜くことなく立ち向かっていった。そんな周藤さんの生きる姿勢に、吉田秀和さんの像を重ねないわけにはいかない。安っぽい文化が蔓延するなか、周藤さんはわれらの住む街叡智の樹となって聳え立っているのだ。奇跡の番組 土曜日の夜、闇も深くなり、生活の喧騒も遠く去っていくとき、NHKのFMにチャンネルをあわせると、まるで森の奥に聳え立っている一本の木立から放たれるように、「名曲の楽しみ、吉田秀和」という声が流れてくる。なにもかも数値といったもので決まっていく時代にあって、これは奇跡というものに属することだった。吉田秀和さんは一九一三年の生まれだから、今年九十四歳である。九十四歳の人がラジオの定時番組を持っているなど、今日ではありえない奇跡に属する出来事であろう。土曜の夜である。しかも九時という時間帯(再放送が火曜日の午前十時から)に組まれている。FM放送といえどもゴールデンアワーのなかのゴールデンアワーである。民間放送ならば絶対に成り立たない、いや、公共放送だって常軌を踏みはずした番組編成である。 名曲の楽しみといっても、だれもが知っている耳になじんだクラシック音楽が流れてくるわけではない。いまこの番組で取り上げられているのは、リヒャルト・シュトラウスである。シュトラウスが世に残した作品のほとんどが、彼の失敗作といったものまで含めて何週にもわたって放送されていく。よほどのクラシック愛好者でなければ、ちょっと近づけない番組である。 しかしこの番組は、ただのクラシック音楽の番組ではないのだ。この番組がオン・エアされるとき、この英語の表現のごとく、吉田さんの言葉と音楽が、この日本の空に広がりわたっていく。それはあたかも森の木立が光合成によって、いっせいに清新な酸素を大気に放出するさまに似ている。汚れた大気をふり払う生命とよみがえりの声である。日本の退廃をせき止める声であり、疲労と衰弱で疲弊していく大地の中に流し込む声と音楽の雨である。日本人の大多数は、こんな番組が存在していることさえ知らない。                      森の奥に立つ叡智の樹 かつてどの村にも叡智をもった老人がいて、その老人はその村を覆うばかりの葉をつけた一本の巨木にたとえられた。子供や若者はその巨木を見上げながら育ち、大人たちはいつもその巨木に問いかけながら生きてきた。歴史の木である。文化を伝承する木であり、魂を新しい世代に引き渡す木である。その巨木に村は見守られていたのだ。しかし今日ではこのような木は壊滅してしまった。いまや知恵と歴史と魂をたたえた巨木は、町はもちろん、どんな村を訪ねても立っていない。 歴史を知りたかったらインターネットで検索すればいいのだ。あふれるばかりの情報がコンピータースクリーンに映し出されていく。文化を伝承するとか、魂を引き継ぐなどといったことは余計なことである。古い文化などいまの時代には使いものにならない。旧時代の魂など受け継いでどうするのだ。村の中心に聳え立つその木は、開発や発展を阻害する老害とよぶべきものであり、新しい世代が登場するには邪魔な木であり、こんなものは一刻もはやく切り倒すべきだというわけだ。 老人とは棺桶に片足を突っ込んだ人であり、やがてこの地上から灰と煙となって消え去る人である。どんなに大きな仕事をなした人も、どれだけ深い知識をもった人でも、老人とはもはやそれだけの存在であるから、あとは棺桶に両足を突っ込む日にむかって、社会の片隅で、周囲に迷惑をかけず、ひっそりと生きよという時代なのだ。時代は激しく進化していく。それは流行とか時流などといったものではなく、社会のシステムや本質がその根底から一変していく進化である。このような激しい進化の時代に、老人はただ消え去るのみであり、それがこの進化の時代における老人の役割である。 FM放送「名曲の楽しみ」とは、こういう時代に反旗を翻す番組ということになる。いや、そう書くよりも、冒頭で書いたように、その木立につけた葉をふるわせて、この地上を覆う汚染された大気を浄化せんと懸命に光合成をしている番組だと。この番組は音楽を語る番組であり、クラシック音楽が流される番組である。しかし私たちは吉田さんの毎週語られる言葉の背後に、あるいは吉田さんが選曲した音楽の背後に、光合成をなした新生の酸素が大気に漂ってくるのを感じるのだ。時代は澱み、幼稚になり、退化していく。だからこそ生命のかぎりをつくして、この汚れた大気を浄化せんと光合成しなければならないという気配を。


クラウドファンディングには多種多様なジャンルがあって、そのなかの一角に「本や雑誌や絵本」の部門があるのだが、どうもこの部門はぱっとしない。大望を抱き、趣向をこらしてさまざまな本や雑誌や絵本などがクラウドファンディングされるのだが、その企画に賛同してリターンされる数といったら多くて四、五十人どまりで、百人を超えるとちょっとした奇跡になる。まったく本が売れない時代なのだ。わずか四、五十人の読者を獲得するために、その本をクラウドファンディングに投じることにいったいどんな意味があるのだろうか。クラウドファンディングという大舞台に躍り出て、わずか四、五十冊しかリターンされないなんて、敗北以外のなにものでもない。そんなみじめな戦いに乗り出すことにどんな意味があるのか。いや、そうではない。そういう思案は間違っている。いま新しく生まれた、あるいは生まれようとしている本が、未知なる四、五十人の手に渡されるのだ。それは驚くべきことではないか。この「note」にたびたび書き込んでいるが、本の力は数ではない。たった四冊しか売れなかった本が世界を変革していくことだってあるのだ。さあ、次はあなたの本だ。長年格闘してきたあなたの労作を、一冊の本にして読書社会に投じよう。誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる。誰でも出版社が作れる。あなたもこの小さな革命の担い手になって、新しい地平を切り拓いていきましょう。