魂のパンをつくる人々
品川の商店街の一角にまもなく「草の葉ギャラリー」が誕生するが、私はこのnoteに幾度となく芸術の力を主題にしたエッセイを草している。今また新しいエッセイを植え込み、さらにすでに植え込んだ「なぜ芸術が私たちの住む村や町に必要なのか」をリプレーして、私の思想がこの大地にしみこむまで何度でも再生させていくことにする。圧倒的な世界に立ち向かっていくには、あきらめず、挫折しない魂が必要なのだ。
林業試験場の森を散策することが私の日課になっているが、その日の気分で、目黒通りまで足を伸ばし、木村さんの店に入って、ぼんやりと通りを眺めながらコーヒーを飲んだりする。その店に立ち寄るようになったのは、壁面に十四、五点の小ぶりの絵が架けられ、その作品の作者を紹介するような遠慮がちなボードも貼られ、ちょっとした小さな個展の場になっていて、二三週間ごとに変わるその作品を観るためでもあった。ときどきはっとするばかりの絵に出会ったりするのだ。それは木村さんの絵画を鑑賞する目がなかなか高いということなのだろう。
木村さんはブロードウェイの舞台に立ったダンサーだった。ブロードウェイの舞台に立ったといっても、その他大勢のダンサーで、結局は三流のダンサーだったと謙遜するが、二十三歳のときニューヨークに渡り、四十代に入る直前まで現役のダンサーであったというから、これはもう本物中の本物のダンサーだった。四十代の半ばで日本に戻ってきて、その小さなレストランをもち、その店の壁面を画家たちに提供するようになった。だからその店はどこかニューヨークの匂いがあり、その壁面に飾られる絵も、ニューヨークで鍛えた目によって選択された絵なのだ。
木村さんが日本に戻ってきたとき、ちょっとした遺産もはいったこともあって、画廊をつくろうと思った。その画廊とは、銀座に点在するようなすでに名を成した画家たちの絵画を売買するような画廊ではなく、無名の画家たちを援護し、彼らの作品を世に送り出すための画廊であった。なんでもニューヨークにはそんな画廊がたくさんあって、そこから若い無名の作家たちは世界にデビューしていく。だからその画廊にはいつも新生の熱気にあふれ、エキサイティングで、そしてそこがまた無名の画家たちの精神的な支柱になっていた。彼女自身があの生き馬の目を抜くばかりのニューヨークで、ダンサーであり続けてきたのは、芸術家を援護しようとするそんな環境で生きていたからで、日本にも無名の芸術家たちを支えるような、そんな場所をつくりたいと思った。
彼女がそのような思いにさせたのは、もう一つの理由があった。木村さんには兄がいたが、彼が三十歳のなったとき自殺してしまった。画家として世に立とうと苦闘した絵がたくさん残されている。彼は画家だったのだ。残された絵を厳しい目で見るとき、その絵は独自の世界をつくりだした独創の芸術になっていて、それらの絵をその画廊から世に投じて、歴史のなかにとどめておきたいという強い思いもまた秘めていた。そこで日本に戻ってくると、そんな画廊をつくろうと試みたが、どうも日本にはまだそのような画廊ができるような土壌になっていない。そこでレスラトンを開き、その店の壁面によって、まずその土壌づくりをしょうということになった。そんなわけだから、その小さな店の壁はただの壁ではなく、彼女の人生を縫いこめ、さらには画廊づくりという希望へとつなげる壁面だった。
いまではその選択に困るばかりに、多くの画家たちが作品をもってやってくる。この壁面に展示された絵が、雑誌の編集者や広告クリエーターたちの目にとまり、イラストの仕事を依頼されたり、また新聞やテレビなどに取り上げられたりして、無名の画家たちにとっては、ちょっとした作品発表の砦になりつつある。だからだんだん彼女の目指す画廊づくりが一歩一歩近づいていますねとたずねると、彼女はとんでもないと、ちょっと怒るようにまくしたてた。
「無名の画家たちを元気にさせるのはね、なんといってもその絵が売れるということなの。自分の描いた絵が売れるということが、無名の画家たちにエネルギーを注ぎこむのよ、だからね、あたしがこの壁に絵を飾っているのは、展示するということじゃないの。そりゃもちろんそのことに意味があるわよ、でも本当に芸術家たちを励ますのは、この絵に買い手がつくことなの、あたしのめざす買い手というのはごく普通の人たちなのよ、お花屋さんで、生活の空間をうるおすためにみんなお花を買うじゃない、そんな感覚で、ごく普通の人たちが、無名の画家たちの絵を買っていくという社会になってもらいたいの。そういう社会にならなければ、あたしのつくりたい画廊なんてできないのよ。
あたしね、一点一点に値段をつけてみたことがあるのよ、八という数字は末広がりでいいから八ってね、八十万円じゃないわよ、そんなにゼロをつけたら普通の人には手をだせない、もちろん八千円じゃないわよ、八千円だなんて、そんな人を馬鹿にしたような値段なんてつけられないわよ、十八万円よ、一点十八万円なの、いつも十点ほど架けるから全部売れたら百八十万円だわね、五点売れたって九十万円になる、でも一点でもいいのよ、一点だけでいいの、画家たちにとって、自分の絵が売れた、十八万円で売れたという喜び、それは画家たちを興奮させるわよ、興奮以上のものを与えるでしようよ、無名の画家さんたちが、画家として生き抜くことのエネルギーのようなものをね。
たったの十八万よ、十八万がどうして高いの、だれかがよ、このレストランで食事をするごく普通の人がよ、その絵を十八万で買ったということはね、あたしたちと同時代を生きる芸術家を、その十八万で生みだしたということなのよ、これってすごいことじゃない、あたしたちとともに生きる芸術家がここに生まれたのよ、芸術家を生み出す土壌をつくりだすってそういうことなの、グッチやシャネルのバックを、七十万八十万って大金を投じて、ごく普通の人たちがわんさか買っていく時代じゃないの、十八万なんてちっとも高くはないわよ、ごく普通の人たちが買える額でしょう、でも売れないの、一年に売れる点数といったらほんかのわずか、私がやってみたい画廊なんて、とてもこんな社会ではつくれないと思うばかりよ。
あたしね、つくづくと思うのよ、日本人の絵に対する感覚っていうか見方が幼稚で貧しいって、あちこちに美術館があって、そこで年中いろんな美術展がひらかれていて、たくさんの人間がその絵を見にでかけるけど、それらの絵ってみんな有名な人たちの絵でしょう、一点何億という値がつくような絵ばかりじゃないのよ、それが日本人にとっては絵なのよ、そういうものが絵なのだと錯覚しているのよ、それがすごく幼稚で貧しいって思うの、あたしたちのまわりに画家はたくさんいるのよ、あたしたちといっしょに生きていて、この世は絶望だらけだけど、だからこそ光をもとめてすごい絵を描いている画家たちがほんとうにあたしたちのまわりにたくさんいるのよ。
でも日本人はぜったいに彼らを認めようとしない、彼らってね、日本人にとって腐ったやつらなのよ、ちっともまともなまじめな仕事をしないで、落書きみたいな絵ばかり描いて、毎日腐ったような生活している。日本人はね、この人たちを画家なんて呼ばないの。腐ったやつらなのよ。冗談じゃないわよ。彼らこそ本当の絵を描いている画家じゃないのよ。絵を描くことによって人間になろうとした。そのことに人生をかけている。そう決意してそのことから逃げ出さずに絵を描いている。彼らを画家って呼ばないで、いったいどいつらを画家って呼ぶわけよ。日本人が彼らを認めないのは、彼らが無名であり、その絵が売れないっていうただのそれだけのことでしょう。そんなこと絵とはなんの関係もないことなのよ。
日本人はゴッホが大好きだわよね。ゴッホの展覧会があると、どっと人であふれる。みんな感動するわけよ。これこそ本物中の本物の絵だ。ゴッホは偉大な画家だって。日本人の絵に対する感覚というか、鑑賞力っていうものが幼稚で貧しいっていうのはそのことなのよ。彼の絵が展覧会に飾られるようになったから、ゴッホは画家になったわけじゃないでしょう。ゴッホの生活はいつもどん底で、しょっちゅう弟にカネ送ってくれって手紙をだしてたぐうたら人間だったわけよ。それでも絵を描き続けた。だからゴッホは画家になったわけよ。貧乏のどん底生活のなかで、ゴッホは本物の画家になったわけよ。
日本人はこのことがわかっていないの。そりゃあそんなこと頭ではわかっているわよ。でも結局はわかっていないの。日本人にとって画家っていう人種は、その絵が何百万何千万という値段で売れて、文化勲章をもらうような人が画家なのよ。あたしにいわせたらそういう人種はもう画家とよばないのよ。本物の画家はね、あたしたちの周囲にいるのよ。ゴッホは、あたしたちの隣りで生きているの。あたしたちはそのことをしっかりと知る必要があるのよ。知るということは頭で知るということじゃないのよ。彼らを知るということは、彼らの絵を買ってあげるということよ。彼らが苦闘しながら描いている絵を、ごく普通の人たちが買っていくようになっていくとき、この日本にも芸術が生まれていく土壌ができるはずなのよ。
あたしが四十代に入る直前まで現役のダンサーであり続けたのは、ニューヨークで生きていたからよ。もし日本で生きてたら、そんなことぜったいにありえなかったわよね。とっくの昔につぶれてた。ニューヨークだから、そんなことができたの。ニューヨークで生きていたから、あたしはダンサーとしての自分を貫くことができたの。あたし、よく兄のことを思うけど、もし兄がニューヨークで生きていたら、あんなふうに自滅をしていくことはなかったかもしれないって。ニューヨークで暮らしていたとしても同じ結末を迎えたかもしれないけど、でもきっとニューヨークでならば、なにか自分のなした仕事を全部否定するような末路ではなかったはずなのよ」