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パクチー銀行のリアル店舗をつくる:鋸山の入口、鋸南町保田駅前を盛り上げたい!

内房線保田駅目の前の金融機関跡地に、パクチーの種を融資する「パクチー銀行」のリアル店舗をつくります。普段はカフェ併設の物販店として鋸山の登山客を迎えつつ、2018年に世田谷区経堂のリアル店舗を閉店して世界各地で無店舗展開している「パクチーハウス」の準備拠点兼会員制店舗として稼働させます。

現在の支援総額

1,135,739

29%

目標金額は3,890,000円

支援者数

70

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/09/30に募集を開始し、 70人の支援により 1,135,739円の資金を集め、 2021/11/20に募集を終了しました

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パクチー銀行のリアル店舗をつくる:鋸山の入口、鋸南町保田駅前を盛り上げたい!

現在の支援総額

1,135,739

29%達成

終了

目標金額3,890,000

支援者数70

このプロジェクトは、2021/09/30に募集を開始し、 70人の支援により 1,135,739円の資金を集め、 2021/11/20に募集を終了しました

内房線保田駅目の前の金融機関跡地に、パクチーの種を融資する「パクチー銀行」のリアル店舗をつくります。普段はカフェ併設の物販店として鋸山の登山客を迎えつつ、2018年に世田谷区経堂のリアル店舗を閉店して世界各地で無店舗展開している「パクチーハウス」の準備拠点兼会員制店舗として稼働させます。

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パクチー の付いた活動報告

プレプレオープン
2021/12/06 10:57
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土日、パクチー銀行を開けてみました。いつからやろうかと思いましたが、準備をちゃんとこなしてから万全の体制でスタートするタイプでもないので、前日「よし!」と決めてプレプレオープンを始めました。釣銭もゴミ箱もないままのスタート。当日、朝9時に開けて、10分後に開店を告知。それを見て、何人かの鋸南の友人が駆けつけてくれました。最初は、一杯のコーヒーを淹れるだけでドキドキしました。飲食業を10年以上やったし、その後もいろいろなところで料理をつくっているけれど、コーヒーを有料で提供するのは初めてだったので。コーヒー嫌いがコーヒーが不味くなる理由を少し理解したのが今年の4月。その後、それなりに研究を重ねたけど、手元が狂ったら味も変わることも知ったので、それなりの緊張がありました。コーヒーには収穫・製造・運搬・焙煎・抽出などの過程に、たくさんの「不味くなる要素」があります。世界のコーヒーの99%以上は、それで残念な結果となってカップに入ります。生産から焙煎までがはっきり分かっていて極めてよい状態で目の前にあっても、最後に余計なことをして残念なものを提供する可能性がないわけではないので・・・。パクチー銀行のすべての豆は鋸山を縦走して運搬されていますし、スパイシーさを出すためにパクチーコーヒーという出し方もしています。僕の生き方として余計なことをするのが大好きで、「余計なことしてんじゃねぇよ」と生真面目な人には言われそうな行為を積み重ねてもいるし。その結果できるものが僕の作品なのですが、それを世に出す前はいつも緊張感で満ち溢れています。場を作ったことで、人と出会い・再会できることが嬉しかったです。また、たまたま居合わせたことで、その人の人生が動く瞬間を見ることも楽しいです。2日目は、初日に「開店の告知」を見て都内からわざわざ来てくれた友人がまた朝イチで飲んでくれて、その後昼まで誰も来ませんでした。自分の店に誰も来ないと、世の中に人の流れがないような錯覚を起こしたり(懐かしい感覚)。その後、お墓まいりで帰省したという人が2組、その後、鋸山帰りで立ち寄る人が何組も。コーヒーを連続で淹れることに、動揺しなくなってきました。「パクチー銀行」という文字を見て、不思議な感覚で吸い込まれてくるのが面白い。まだ工事の道具も置いてあるので、「やってない」と思い込んで入らない人もいれば、とりあえず話を聞かなければと飛び込んでくる人もいます。特殊な体験をして世界が広がる、そんなコミュニティが確実にできるという予感が実感に変わった2日間でした。


結果報告
2021/11/26 12:40
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パクチー銀行立ち上げのためにご協力いただいた皆様、ありがとうございました。おかげさまで、70名から1,135,739円の応援をいただきました。旧知の友人だけでなく、パクチーハウス東京時代のお客さんや鋸南町と安房地域の方々など、たくさんの出会いと再会があり、大変嬉しく思っています。パクチー銀行本店にて、お会いできるのを楽しみにしています。鋸南エアルポルトはテレワークやコワーケーションの拠点として、中長期的に「働く」「遊ぶ」人の拠点として、パクチー銀行は、鋸南町に住むみなさま、観光で訪れる方々がひと時を楽しめる場として稼働させたいと考えています。そして、この2つの拠点を行き交う人が、人通りの少なくなった商店街の新たな可能性を生むことを願っています。保田を中心に、鋸山を挟んで鋸南と金谷が、面白い人たちが集まる場所になります。まもなく店舗がバージョン1.0としてオープンしますが、単なるスタートにすぎません。ここを行き交う人たちの力が必要です。引き続き、ご協力よろしくお願いします。Tシャツとお得な商品券、一日頭取体験は、2021年末までお申し込みを受け付けています。パクチー・オーナー制度は、89口に達するまで、随時受け付けております。詳しくは、以下のページをご覧ください(まだこっそりとしか公開していない、パクチー銀行ATMのトップ画面もこちらからご覧いただけます)。https://sites.google.com/view/paxibank/friends2021年11月26日(いいフローの日)パクチー銀行頭取 佐谷恭


宝くじ当選
2021/11/19 11:26
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先日、国分寺から町田へ移動する際、2時間半ほど余裕があったので、勝手シャルソン移動。実行中のクラウドファンディングのチラシを50枚ほど持っていたので、通りがかりの家々に住む人を想像しながら、気が向くとポスティングをした。ポスティングは通常、確率論の話だ。反応率が0.5%なら、1万枚撒けば50人からアクションがある、というような。クラファンのポスティングはあまり事例がないので、データも存在しないかもしれない。仮に効果測定してみたとして、宅配等と比べたらいい結果は得られないだろう。でも僕は、「パクチー銀行」というネタを、僕がインターネットを介して伝え得ない人たちに伝わることを期待して、これを実行している。それにより、クラファンの支援者が増えることは期待していない。ほぼないだろう。でも、「金融機関跡地にパクチー銀行をつくる」というネタになにかを感じる人がいるだろうし、たとえ僕と受け取った人にコミュニケーションが生まれなくても、チラシがその人の考えや人生に何らかの変化をもたらすことは間違いないと思う。ポスティングは、それを想像してニヤつくだけの遊びだ。国分寺から町田までの20km超に、たったの50枚のチラシである。ポストでそれを見つけた人は、ラッキーだ。しかし、ほとんどの人は自分の幸運に気づかず、即座に丸めて捨てるかもしれない。それを手に取り、読むに至る確率は大変に低い。しかし奇跡は起こった。そのチラシを、受け取った人が現れたのだ。Facebookでタグ付けされて、僕はそのことを知った。友人の清原さんが、手に取った。誰かが持ってきてくれたのか、本当に全国ポスティング中なのか誰か知っている人いますか?自分でもにわかには信じがたいが、とにかく、チラシは彼に届いた。気分で道を選び、「いい感じ」がするところにのみ、投函する。清原さんが、「宝くじに当たるぐらいの大当選」とコメントをくれた。彼がオーナーを勤めるカフェの場所を知らなかったのはもちろん、特定の誰かに届けようと狙ったわけでもない。「パクチー銀行」は開くまではもちろん、開いてからも、「よく分からない」場所でありたい。思考停止して、これは「カフェである、以上!」と思い込むこともできるけど、僕は「どうなるか分からないこと、ただし、僕自身はめっちゃ楽しめること」を積み重ねていく。そこで起こる「事故」は、まるで奇跡のような体験だが、実はそれを起こすのは日々の小さな営みだと思うから。


旅と平和
2021/11/15 12:12
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「パクチー」と「旅と平和」の関係について。僕の会社の名前は、株式会社旅と平和といいます。クラファンには会社名は書いていませんが、「パクチー」とか「佐谷恭」で検索すると出てくるかもしれません。今日は、改めてその由来について書いてみようと思います。設立は2007年8月9日の、パクチーの日。「旅と平和」という名前を聞いて「雑誌ですか?」と言われたことが結構ありますが、それはたぶん「山と渓谷」のことだと思います。「怪しそう」「宗教団体か」と言う方もいますが、怪しそうと思うのは主観ですので止められないですが、宗教ではありません。「旅と平和」は、僕が旅を通じて追求しようと思ったテーマです。2002年初夏に、正倉院から中国と中央アジアを通ってイラン・イスファハンでの友人の結婚式に出席するための旅をしました。その時に、キルギスで自分のいたすぐ近くで外交官射殺事件があり、自分がしていたこと(カラオケの最中でした)とのギャップに驚き、恐れを感じました。旅人が世界のために何ができるかということを、その後、旅の道中で出会った人と語り合いました。そして、僕がテーマにしようと思ったのが「旅と平和」です。このことは、平和学を学んだ英ブラッドフォード大学院の入学願書とともに出した小論文に書いていますので、お目汚しですが、下の方に貼り付けておきます(たぶん初公開ですw)。2003年8月末〜2004年7月初旬までイギリスに滞在。修士論文を同年8月末に完成させました。タイトルは「Peace through Tourism」(旅と平和)。翌月27日の「World Tourism Day」に妻と結婚式をユーラシア大陸最西端の地・ロカ岬(ポルトガル)で挙げました。2005年春から初夏にかけて日本パクチー狂会を立ち上げることになり、パクチーのスペルが難しすぎるので(phakchi)もっとシンプルにしたいと2週間ほど考えました。当時流行りかけていた「mixi」をパクってみたら「paxi」というスペルができ、旅と平和(“pax”=ラテン語で平和、“ i ”=旅人)に結び付けられることにしました。この当時は、パクチー料理専門店を作るなど露ほども考えず、「旅と平和」が会社名になることを想像すらしませんでした。当たり前ですが。たまたま友人とやりとりしていたら、日本パクチー狂会のサイトをオープンした直後ぐらいに、明治学院大学で講義したことを思い出しました。取材に来てくれたその友人はそのときに書いてくれた記事を読み直して、「旅と平和」という後に会社名になる文字を見つけて驚いていましたが、もちろん計画的ではありません。自分のテーマを決め、それに合うスペルが見つかったので造語をつくっただけの話です。その後、テーマを追求するうちに、それを事業にするという結果となりました。株式会社旅と平和、創業の目的(2007年8月9日頃執筆) 株式会社旅と平和 は、旅という経験の積み重ねが国を超えた人びとの結びつきや相互理解を深め、世の中を楽しく、人びとを元気にすると考えます。また、その延長として、旅が世界平和を維持するための大いなる原動力となるという立場を支持しています。 「世界愛(人類愛)」には「祖国愛」を持たずして到達できず、「祖国愛」は「郷土愛」を持たずして得ることはできません。また、「郷土愛」は「家族愛」があって初めて成り立ちます。私たちは、旅を「単なる外国への旅行」と捉えるのではなく、「人が自発的に、他人に会いに行くこと」であると定義します。 社名に「平和」という言葉を冠していますが、その崇高な目的のために地域の活性化や子どもの教育こそが、まず必要だと考えています。平和を維持し広めていく仲間を増やしていくためには、他者の存在とその必要性を認識できる旅という行為を広めることや、家族や地域などでのコミュニティー意識を多くの人が持つようになることが、重要になります。 株式会社旅と平和は、旅や家族・地域単位での交流を促すさまざまな仕掛けを提供し、人とのつながりを見直す体験をすること、自分とは異なる世界観を持った人びとの存在を知ることを通じて、人をオープンで元気な存在にしていきます。そして、自分以外の人のために生きる人たちを応援します。その後、起こした飲食事業(パクチーハウス東京・鳥獣giga・地球を救うカレーライス「bija@paxihouse」・PAXi Coworking・TACO PAXなど)、コワーキング事業(PAX Coworking・鋸南エアルポルト・PAX abcなど)、シャルソンの普及は、すべてこの考え方を根底にしています。「パクチーを薬味から主役へ!」は、日本パクチー狂会のスローガンであり、パクチーハウス東京をつくるに際して「すべての料理にパクチーを入れる」ことを決めました。パクチーをメインにすることに対して、世の中から疑義を呈され、友人たちがやけに心配してくれたおかげで、「中途半端なことはしない」と、徹底することができました。「パクチーなんかで店が成り立つわけがない」かもしれないと本気で考えていたのは、忠告してくれた専門家ではなく、他ならぬ僕自身です。妻と0歳の息子を前に、自分のテーマをブレずに追求するには何をすれば良いのかを唯一の行動指針としました。テーマは追求し続け、その表現手段の「パクチー」は変わりうると思っていました。ただ、パクチーのスペルである「paxi」は変わり得ない。テーマですから。そして、嬉しい誤算は、「徹底している」ことが予想以上に面白がられたことであり、その結果としてメディア露出が異常に多くなったことです。取材の千本ノックを受けたことで、店の知名度は上がり、なかなか書いてもらえない本当のコンセプトである「旅と平和」もじわじわ人に伝わり、自分の考えをまとめる機会がたくさんあったので講演などで人が楽しんでくれる話ができるようになりました。パクチーがブームになるとは思いもしなかった!(笑) でも、パクチーですら世の中を少し動かすことができると実体験で感じたことは僕の人生にとって重要なことです。金融機関跡地にパクチー銀行をつくるという冗談みたいなことを実行するのは、体験の積み重ねで生まれた小さな勇気があるからです。最後に、論文を書いた時のアイデアを事業化したという点ですが、パクチーハウス東京の内装工事屋さんを探しているときに、アメリカで書いた修士論文のテーマ・タイトルを会社名にした人に会いました。それが、グリッドフレームの田中社長です。僕と田中さんの共通点として、変数が多いことが挙げられます。熱量は分かるけど、文章は長く、複雑である。パクチー銀行のリアル店舗では、そういう2人がタッグを組みました。「よく分からないけど、何となく面白そう」というのはまだまだ続きそうです。悪しからず!(爆笑)Statement of PurposeTo learn the theory of peace studies and to acquire a broad knowledge about peace building after conflicts are my two main objectives to study at the Department of Peace Studies, Bradford University. After graduation, I intend to work at an international development organization such as UNHCR, UNDP or other related inter-governmental or non-governmental organization in order to have more experience in this area. And my long-term career goal is to contribute to peace building as a Japanese diplomat and to make my country a leader in the international society in promoting peace in the world.Since I was a small boy, my parents often have been inviting foreign people at home as guests. So I have had much experience in communicating with people of different cultures and lifestyles. I gradually got interested in the cultural diversity that exists in the world. Our guests told me about the situation they had in their country. I got to know disparity in wealth and development, and conflicts caused by or resulted in the differences. I got more interested in those topics and more active to increase my experience related to this area after I left home and entered university.When I was a student in Kyoto University, my major was Cultural Psychology. I learned and researched in the perceptual bias and behavioral consequences of cultural differences. And I was one of the founding members of a discussion group on international relations, where we studied about Peace-keeping Operations in Cambodia, Yugoslavia and other places. This is the beginning of my interest in peace building.Furthermore, I have travelled around 40 countries and areas by myself, experiencing contacts with various cultures, and talking with the native people living in those places.I was also a participant in the Ship for World Youth Programme sponsored by the Japanese Government. It involved two months of travel on board a ship together with 275 participants from different countries, where we also had seminars, lectures and discussions on various issues of global importance, besides learning about cultures of different countries. Even after five years from the completion of this programme, I continue to interact with other participants from all over the world through Internet and reunions.After graduation from the university, I worked for a computer company for two and a half years, belonging mainly to the Personnel Division of the Telecommunication Systems Group. I chose this job because the group was producing and selling telecommunication equipment overseas including many developing countries, and researching and reporting the conditions of the countries concerned were my main responsibility. I made contacts with people in these countries and collected information in order to establish liaison offices and subsidiaries, and to help employees working there. It was really an excellent experience for me because I had to advise and help the employees with the changing international situation.Later I worked for a start-up company dealing with recycling systems as a sales manager for one and a half years. I helped establish the organization and led several projects and oversaw trading with our customers from East Asian countries.The cross-cultural experiences stated made it possible for me to have so many friends all over the world. Internet and e-mails enable me to communicate with them from home. Almost everyday I talk to somebody and share my thoughts and experiences.I also travel a lot. For example, some months ago, I was in Bishkek while travelling through the Silk Road. It happened that a Chinese diplomat was shot to death very near the place I was staying. I started discussing this incident and other internal conflicts happening in the area with people from Central Asia and travellers from Europe. Our discussion continued for a few hours and it was about how conflicts can be avoided and the area can become safer. I raised the example of the Peace-keeping Operation in Cambodia and expressed the opinion that intervention by third parties can help resolve the conflicts so as to reconstruct their life politically and economically.I think Japan can be a leading country in this area because we went through the experience of economic reconstruction after defeat in the Second World War and we have decided to renounce war in the Constitution of Japan. Our economical prosperity enables us to help the countries involved financially, and by applying the concept of our constitution to each peace building process, we can help them to demilitarize and thus create peace. And in order to take leadership effectively, Japan needs more people with a broad vision and ability to carry out such tasks. I would like to be such a person who can help my country in playing this leadership role in peace building in the world. For this purpose I would like to gain more knowledge and skills, and that is the reason for my desire to study about peace building.The Department of Peace Studies at Bradford University seems an ideal place for me to achieve my career objective. I want to study in this department the history of Peace Studies and the latest topics of international relations especially in peace building. I would also like to interact with people from all over the world who are trying to understand the causes of the conflicts and to promote peace.Your program is the best to enable me to connect my experiences with my objectives, whereby I can help make my country a leading country in the area of peace building and reconstruction after conflicts.I have had discussions with a variety of people from so many countries and I have so many friends all over the world with whom I can discuss and share my thoughts. This is a great treasure for me and it will enable me to participate deeply in your seminars. And on the basis of my many experiences I believe I can make meaningful contributions and bring up different ideas of my own.I have a strong determination and will make every effort to achieve my goal. I request you to consider my application favorably and give me the opportunity to study at your school.With best regards,Kyo Satani


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パクチー種の融資パクチーの種を誰にでも審査なしで融資します。返済の義務はありません。パクチーを育てて、うまく育ったら食べてください。食べきれなければ、そのうち花が咲いて種ができるので、次の世代に繋いでください。それでも種が余ったら、家族や友人に種を渡しましょう。要は、パクチーの種を差し上げます。自分で楽しみ、楽しみを誰かにおすそ分けしてください。SNS等で情報発信をしていただくのも大歓迎です。カフェパクチー銀行は、周辺に住む方、鋸山登山などで鋸南町を訪れる方が交流するカフェでもあります。スペシャルティコーヒーとクラフトビールをお楽しみください。西経89度の国々(メキシコ・ベリーズ・グアテマラ・ホンジュラス・エルサルバドル)のコーヒーを、東経89度の国々(ロシア・モンゴル・中国・ブータン・インド・バングラデシュ)の飲み方で提供します。コーヒー豆の調達は、僕が鋸南町ともう一つの拠点としている世田谷にある中南米コーヒー豆専門店の「カフェテナンゴ」から。店主の栢沼さんは高校の同級生の幼馴染(つまり、知り合ったのは数年前だけど同じ学区の出身者)であり、輸入する豆のほとんどの生産者とアミーゴ(直接会ったことがある)ということです。つまり、信頼できる、出どころのはっきりしたものだけを扱うということです。ちなみに、全ての豆は鋸山を縦走して運搬します。クラフトビールは鋸南および周辺で作られたもの、世田谷の僕の自宅付近で作られたもの、僕の親友たちが作っているものを主に提供する予定です。SOTOCHIKUショールーム鋸南その他にあるSOTOCHIKU素材を使って内外装を行い、また、SOTOCHIKU素材を転用した商品を販売します。SOTOCHIKU(外築)とは、風雨に晒された古い建築資材のこと。廃屋その他で、一見捨てるしかないと思われる素材に価値を吹き込みます。パクチー・オーナー制度パクチー銀行新本店にて、パクチー・オーナー制度を開始します。敷地内に専用プランターを配置します。オーナーは1契約につき1台を所有し、お好きなときに収穫が可能です(年4回程度採れます)。播種する種は、パクチー銀行が融資しますし、プランターで採れた種を他のオーナーや全国のパクチー好きに届けることもできます。また、パクチー・オーナーはコミュニティ農園の共同管理者となり、また、パクチーハウス鋸南をいつでも開催できる権利を持ちます。インスタレーション(パブリックアート)SOTOCHIKUを提唱する株式会社グリッドフレームとのコラボで、パクチー銀行の内外装は常に変化していきます。季節ごとに鋸山を登るために保田駅を降りたら、いつも違う外観が見られるかも。パクチーの種を配る活動を一種のアートとして行い始めてもうすぐ15年。パクチー銀行はリアル店舗を持つことで、コンセプトから誰もが見て楽しめるパブリックアートに移行します。SOTOCHIKU & 89 unLtd.パクチー銀行の店舗の名称は「SOTOCHIKU & 89 unLtd.」です。Google mapsなどではこの名が表示されます。パクチー銀行を目指してもらうというより、保田駅を降りたらパクチー銀行に出逢うという仕様です。地図: https://goo.gl/maps/3XFaMNKUTfFRvC9w8その他、鋸山縦走センターやイベントスペースとしての機能や、エアルポルトと2箇所でキッチンカーを並べてお祭りするとか、衝動買いしたキッチンカーを使ってもう1つ店舗が作れるとか色々ありすぎるんですが、またよく分からなくなりそうなので、今日は割愛しますwクラウドファンディングでできるだけ分かりやすく書いたつもりですが、5589文字もあり、応援してくれた人でも読み切っていないという衝撃の事実があったので、パクチー銀行の機能のみをまとめてみました。