プロジェクトを始めた経緯をお伝えします
はじめまして。プロジェクト代表の野中優那です。 私は今年の2月、ミャンマーでクーデターが起きた日、ヤンゴンで、家族と一緒に住んでいまし た。当時、ヤンゴン日本人学校の中学3年生でした。
ミャンマーでは、12月にコロナの感染者が急激に増え、厳しいロックダウンが続いていました。けれど、1月には感染者が減り、2月から、気軽に買い物に出かけられるようになるのではないか、 もしかしたら学校が再開して、対面で卒業式もできるのではないか?そんな期待で、ワクワクしていました。 その頃、「近いうちにクーデターが起きるかもしれない」という噂がありましたが、現地の人々は「まさか起きないよ」と楽観視していました。
その日のことを、私は、忘れることができません。夜中に、珍しく大きな爆発のような音が聞こえました。そして朝6時頃に、クーデターが起きたことを知りました。通信がストップし、電話もインターネットも使えなくなる、という情報が出て、我が家は大騒ぎになりました。その日は、兄の大学受験の出願日だったんです。
たった1日ですべてが変わっていく・・・そんな信じられないことが実際に起きるということ。平和も、民主主義も、あたりまえではないということを知りました。
結局、卒業式もオンラインでした。私は中学3年生の1年間、一度も学校で授業を受けることはありませんでした。受験も、ミャンマーからオンラインで受験をしました。校長先生と担任の先生が私の住む場所まで来てくださり、直接、卒業証書を受け取ることができたことは幸いでした。卒業生は7人でした。
そして日本に帰国し、私は高校に入学しました。帰国子女が多く在籍する学校なのですが、 ミャンマー帰国と自己紹介すると、クラスメイトから「今内戦してる国でしょ」「危険な国からもどっ てこれて、よかったね」と言葉をかけられたんです。とにかく違和感を感じました。
美しいミャンマーを伝えたい
ミャンマーは、たしかに途上国かもしれません。医療も脆弱で、野犬もたくさんいるし、停電は頻繁に起きます。
けれど、優しい人々が暮らす、平和で美しい国だと、私は知っています。美しい日本語を話す若者がたくさんいて、私の大好きな国でした。 こんな形で、ミャンマーから離れることになるなんて、ただ悲しかったんです。
クーデターが起きた当初、人々は歌を歌ったり、音楽を奏でたり、ダンスをしたり、そういった平和的な方法で、パフォーマンスのデモをしていました。しかし、武器を持たない若者たちに、 軍は武力で制裁を始めました。その過程を、わたしは現地にいて、肌で感じていました。でも自分には何もできませんでした。もし自分が怪我をしたり、死んだりしたら、国際問題に発展してしまいます。ですから、とにかく邪魔をしないように、家の中でじっとしているしかありませんでした。
でも、それを知っている日本人の中高生は、数えるほどしかいません。自分は何かをしなくてはいけない、と日本に帰ってきてから、常に考えていました。
私たちにできる支援は何か
最初は、食糧支援や募金活動など、ミャンマーの人々が生きるための支援をしようと思っていました。でも、そういった活動は、私のような、お金も力もない高校生に、長く続かないのではないかと思いました。何か他にできることがあるんじゃないか、私たち若者だからこそ、そして現地で暮らした私だからこそ、できることがあるのではないかと考えました。
ヤンゴンかるたは、まだ平和なときに、兄と弟と一緒に、ヤンゴンの街をブラブラ歩き撮影した写真を使って作りました。ガイドブックにはのっていない、素敵な場所がヤンゴンにはたくさんあります。ヤンゴンで日本の車両が使われていることや、人々が日常的に民族衣装を着ていることなど、日本に帰国したら紹介したいと思って撮影していた写真です。
その平和で美しい情景を見て、改めて、この日常は奪われたんだと思いました。コロナ、クーデ ターの影響によって、子どもたちが学校にいけなくなり、学びが奪われていることにも危機感を感じました。
世界は変えられないかもしれないけど、私自身は変われる
私たち、若い者にできることはなんなのか。その答えを、私は2月1日からずっと、考え続けています。 私は、それは、ミャンマーについて学び、それを多くの人に知らせて、5年後、10年後の未来につなげていくことだと思い、行動することにしました。
でも行動すればするほど、わからないことが増えます。そしてこれまで本当にたくさんの方に出会い、多くを教えて頂き、助けて頂いて、少しずつプロジェクトが進んできました。
私はまだわからないことばかりです。ですから、ぜひいろいろなことを教えてください。よろしくお願いします。
(野中優那)