横田南嶺老師に伺いたかったのは禅の伝統の型について
この本の対談は、わたしの知りたいことをいろんな先生方に聞きまくりました。だから私の考えをお伝えするというより、聞きたいことを聞いていった本です。
横田老師にお聞きしたかったのは、禅の伝統です。何を伝えるために、こんな手順を踏んだ格式があるのだろうか、そこを教えてほしかったんです。
日本文化には型というものが非常にあって、その型というものを実践していくことで心を伝えていくんだ、心を伝えていくことはできないんだということを、鎌田東二先生がおっしゃっていたんです。日本文化は心を直接伝えようとはしない。型を伝えていく。その型を実践していく中で、一人ひとりが心をつかんでいくというのが、日本文化の在り方なんだというんですね。
では、臨済宗の様々な型、あるいは禅問答とか公案とかは何を伝えようとしているのか。それを聞きたくてお伺いしました。
横田老師は、「我々のやっていることは古くてね、先生からみておかしいとか足りないところはないですか」と控室で開口一番におっしゃいました。わたしは、「そんなことはないです。とにかく、臨済宗の中で実践されてきているものが、何を目指しているのか、何を実現しようとしているのか、そこをぜひお伺いしたい」とお話して対談は始まりました。
それで分かったのは、禅宗の中では、観察瞑想というのはほとんど意識されてこなかったということです。瞑想にはサマタ(集中瞑想)とヴィパッサナー(観察瞑想)があるわけですが、集中瞑想をとにかくやってきた。無になるんだ、無になるんだと、呼吸を細く長くして、というふうにやってきたと教えていただきました。
私が、「でも、お寺の中での作務は観察がなければできないようになっていませんか?」とお聞きしたら、「確かにその通りだ」と。「私の師匠なんかは、障子の桟の上にわざと蚊の死骸をおいておくんだ。それを若い修行僧たちが掃除の時に見つけなかったらものすごく怒るんだ。なんて意地悪な人なんだと思った」と、半分冗談で仰っていました。
つまり、そうやって気づくということを鍛えている。でもそれは前面には出ていない。前面はあくまで集中瞑想。
お話を聞いていて面白かったのは、臨済宗でも型というのをビデオに撮影して、映像で伝えようとしているんだけど、ある時一人が急いでいて走ったら、それからは臨済宗では走ることが一般的になってしまったと。非常に率直に本音でお話しいただいて、ありがたいなと思いました。
そして何より、円覚寺が大変すばらしくて、言葉にならないものを伝えているなと思いました。大変楽しい対談でした。(熊野宏昭先生のお話抜粋)
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クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。
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