活動報告とは言えませんが、「長野城と島津義久と豊臣秀吉との歴史上の繋がりについて」について、郷土誌を資料として調べてみました。永野城は現在のさつま町永野、古くは長野村と称された戦国時代(16世紀)に現在の新岩元集落の近辺に構築された山城(現在は跡形もありません)であったものと思われています。
当時の長野城は現在の伊佐市(旧大口)、菱刈、祁答院(薩摩川内市)、蒲生(姶良市)と密接なつながりがありましたが、島津義久、歳久などの大将により永禄12年(1569年)5月25日に決戦を迎え、その後に和睦が成立して城が明け渡されたとされています。
そのころの南方神社(当時は諏訪神社)は現在より西方の位置に建立されており、長野城の近くに立地されていたようです。
その後、九州討伐の準備を整えた豊臣秀吉は天正15年(1587年)3月に小倉城から軍を二手に分けて鹿児島の地を攻めた後に島津氏と和合(むしろ征伐あるいは抑制)し、現在のさつま町鶴田から伊佐市の曽木へと帰路を進めています。
このときの島津歳久の態度を気にいらなかった秀吉に許しを乞うこともなく、歳久は自害の運命を見舞うことになります。
長野城を攻めた島津家、守り耐えられなかった渋谷氏、攻め立てた秀吉とのつながりはどのようなものであったのか、歴史をめぐっては諸説ございますが、まだまだ調べる余地のある出来事であろうかと、そのように思いました。