建御名方神(たけみなかたのかみ) について、ネットや文献で得られる情報を調べてみました。
日本大百科事典によりますと、「諏訪上社(すわかみしゃ)の祭神(大祝(おおはふり)は神(みわ)氏)。名義は水潟(みなかた)、また宗像(むなかた)というが未詳。『古事記』の神話(国譲り条)で、父の大国主命(おおくにぬしのみこと)の武力を代表する神として武甕槌神(たけみかづちのかみ)に手掴(てつか)み競(くら)べを挑むが、敗れて信濃(しなの)の諏訪湖に逃げ、そこで父や兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)の命に背かぬこと、また国外に出ないことを誓う。 」
日本国語辞典によりますと、「「古事記」に見える神。大国主命の子。天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。諏訪神社の祭神。 」
また、世界大百科事典では、「日本神話にみえる神の名。諏訪大社の祭神。ミナカタは〈水潟〉の意味で諏訪湖の水の神。《日本書紀》には691年(持統5)に使者を送って〈須波(すわ)神〉を祭ったと記す。《古事記》の国譲り神話によると、〈千引(ちびき)の岩〉を軽々と手玉に取りながら、高天原(たかまがはら)から遣わされた建御雷神(武甕槌(たけみかづち)神)と力競べを行うが、〈若葦〉を取るようにへし折られて投げられてしまい、信濃の〈州羽(すわ)の海〉まで逃げて国譲りを誓ったという。 」
いずれにしても、父である大国主命が天照大神の使者として高天原から遣わされた建御雷神から国譲りを迫られた状況において、兄の事代主神があっさり国譲りに同意したにも関わらず、自身はいったん抵抗の姿勢を取り、しかしながら建御雷神には力もかなわず屈してしまい、自分はこの諏訪の地に留まり、以後はいっさい父の大国主命や兄の事代主神には逆らいませぬと申し出たこと。武力では敵わない自ずの力の限界を悟って建御雷神に従った建御名方尊は、現代に生きる私たちにはとって或いは身近で頼れる神様なのかも知れません。