薩摩町郷土誌(平成10年5月31日発行)を改めて紐解きますと、南方神社(旧諏訪神社)の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)の次に、事代主命(ことしろのみこと)が併記されています。(記載の順序は、建御名方命(大国主命の子(事代主命 の弟)) 、事代主命(大国主命の子(建御名方命の兄 )です。 )
事代主命は恵比寿(えびす)様、大国主命は大黒(だいこく)様としても庶民から慕われていますが、建御名方命 について、このように慣れ親しまれた呼び方を聞いたことは寡聞にしてありません。また、さつま町永野の南方神社では、祭神の記載順序がなぜ兄、弟の順序ではないのかを不思議に思いました。
以下は恐れ多くも筆者(この神社の総代のひとり、書記会計係の高橋健二)の勝手な想像と申しますか、妄想に近い想像による解釈を記載させていただきます。
大国主命は国づくりの大業を遂げられた神様ですが、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さったことに、この慈愛ある御心への感謝のこころから大黒(だいこく)様と慕われるようになったものと思われます。
大国主命は本来、慈愛に満ちた国造りを行いたかったのに、乱暴な大国主命の兄の八十神(やそがみ)たちから仕掛けられた戦いに身を投じ、それによってこの国を広げたこともあり、天照大御神(あまてらすのおおみかみ)から、「これからは慈愛に満ちた国づくりを行うから国をお譲りなさい。」と諭されて、願ってもないことと思われたのではないのでしょうか。そして、天照大御神から、「これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り(つかさどり)、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。」とのお言葉の通り、今に生きる私たちの目に見えないところで遠い昔から見守ってくださっているのではないでしょうか。(参考:出雲大社ホームページより(https://izumooyashiro.or.jp/about/ookami))
兄の事代主命は、父の大国主命から国譲りについて判断を委ねられた際に、もうその瞬間に大国主命の意を全て理解して、あっさりと承諾したのかも知れません。一方で、弟の建御名方命はいったんは天照大御神の使者からの申し出(命令)に対して、武力で抵抗を試みています。最後には打ち負かされて国譲りに承諾をしていますが、兄の事代主命とは対照的な対応であると思われます。
大国主命は或いはこの兄弟のそれぞれの性格だけではなく、どのような判断を下すのかまでを全てご承知のうえで、自らの判断を下されることなく、子たちに国譲りの判断を委ねられたのではないでしょうか。
さつま町永野の南方神社で祭神の記載の順序が建御名方命 (弟)、事代主命(兄)となっていることについて、あくまでも想像ですが記載させていただきます。もともと、薩摩の国では野武士(普段は百姓の身分でありながら、戦(いくさ)が起こると武士として身を投じる)の文化と申しますか、古くからの伝統でそのように考えるのが当たり前のこととする慣習がございます。(近代においては、西南の役(せいなんのえき)で西郷吉之助(さいごうさぁ(本名は西郷吉之助、西郷隆盛は父の名前)が、自らの意思では無いにでも関わらず、明治維新の前の時代の元の武士たち(野武士を含む)が生活に困窮していたことを不憫(ふびん)に思われて、「したくもない戦ですが、最後は寄り添って参ぜましょう。」という慈しみの心から参戦したものではないかと、そのように解釈をしております。)
地域的な背景によるものと思われますが、そのような慣習がございまして、この南方神社においても或いは、武力に長けた神様を最初に祭神として崇め奉る(あがめたてまつる)ことになったのかも知れません。
最後にもうひとつ、この投稿の冒頭で「建御名方命について、慣れ親しまれた呼び方を聞いたことは寡聞にしてありません。 」と記載しました。これも勝手な解釈となりますが、この日本国においては、古代より争いごとを好まない生き方を習わしとしてきたのではないでしょうか。大国主命(慈しみの溢れる神、そっと寄り添って目に見えないところから見守って下さる神)の子として兄弟でありながら、建御名方命は恐らくは武に長じた神様であられたことと想像いたしますが、国民の習わしには必ずしも馴染まないため、親しまれた呼び方をされないのではないかと、このように想像をいたしました。
長文で申し訳ございません。イラストの写真は、Art Mochida Daisuke(八百万の神の絵師 持田大輔)様のホームページ(https://peraichi.com/landing_pages/view/mochidadaisuke)より引用させていただきました。