『漢字の話 キラキラネームの秘密』を出版したい

キラキラネームとは、一言で言えば、日本人には読めない名前の事です。でも、日本人には読めない名前が、何故、これほど広がっているのでしょう?おかしいとは思いませんか?本書では、漢字の歴史を振り返りながら、その秘密について解説しています。

現在の支援総額

2,500

0%

目標金額は5,250,000円

支援者数

2

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 2022/02/18に募集を終了しました

『漢字の話 キラキラネームの秘密』を出版したい

現在の支援総額

2,500

0%達成

終了

目標金額5,250,000

支援者数2

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 2022/02/18に募集を終了しました

キラキラネームとは、一言で言えば、日本人には読めない名前の事です。でも、日本人には読めない名前が、何故、これほど広がっているのでしょう?おかしいとは思いませんか?本書では、漢字の歴史を振り返りながら、その秘密について解説しています。

エンタメ領域特化型クラファン

手数料0円から実施可能。 企画からリターン配送まで、すべてお任せのプランもあります!

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

PV累計7334人
2022/02/20 00:19

1月22日から2月18日までの、累計訪問者は7334人でした。日別の訪問者は次の通りです。1月22日 218人1月23日 260人1月24日 265人1月25日 262人1月26日 178人1月27日  98人1月28日 188人1月29日 209人1月30日 239人1月31日 222人2月1日  270人2月2日  200人2月3日  207人2月4日  195人2月5日  189人2月6日  105人2月7日  189人2月8日  240人2月9日  244人2月10日 383人2月11日 319人2月12日 305人2月13日 162人2月14日 384人2月15日 350人2月16日 389人2月17日 578人2月18日 486人計 28日間の累計訪問者数 7334人7334人と言うのは、充分、次につなげることが出来る数字であると思います。皆さん、訪問有難うございました。youtubeにでも、何か投稿しようかしら♪ 


皆さん、こんにちは。いよいよ最終回です。ここで、申し上げてきたことをもう一度述べるならば、皆さん、キラキラネームは、漢字の誤読であり、日本人には読めませんが、中国語の音を破壊する物ではないので、中国人には普通に読めます。日本人の名前なのに、日本人には振り仮名が無ければ読めず、中国人には普通に読める名前なのです。日本の漢字は、甲骨文字から続く非常に古い歴史があります。その古い文字を使って、私たちの先祖は、日本固有の文化・古い歴史を織り上げてきました。今、私たちの時代で、その文字の伝統を破壊してしまうと、その文字によって伝えられてきた文化や歴史も危ういことになります。皆さん、今、頑張って守らないと、後世に残すべきものが変質し、しまいには失われてしまうのです。さて、昨日の段階で、累計訪問者数は6850人前後でしたので、今頃は、7000人を越えている事でしょう。始まった頃は、これほど多くの人に見て頂けるとは思っていませんでした。一カ月弱で、これほどの人に見て頂けるのであれば、YOUTUBEデビューもありかなと思っています。ともあれ、今回は、満足のゆく結果と言えましょう。皆さん、どこかで『漢字の話 キラキラネームの秘密』という本を見かけたら、買ってください。打ちてし止まん!


皆さん今晩は。今夜も宜しくお願いします。〇甲骨文字の発見(二)甲骨文字は、清朝末期の光緒二十五年(1899年)に、国子監祭酒の地位にあった王懿栄(おういえい)が発見しました。彼は当時マラリヤに苦しんでおり、その薬の中の゛龍骨゛と呼ばれる骨片に何かが書かれているのを発見しました。王懿栄は、骨片に書かれている物が、籀文(ちゅうぶん)や金文よりも、更に古い時代の文字であると考え、そこで「商代卜骨」と名付けて買い集め、1900年までに、前後三回、千五百余片を収集しました。光緒二十六年(1900年)、八か国連合軍が北京に入城し、朝廷が列強に宣戦布告すると、王懿栄も衆を率いて東便門で応戦した物の、北京はあっけなく陥落。西太后や光緒帝は西安に落ち延び、王懿栄は帰宅したのち、「私は義として、いたずらに生きながらえる事はできない」、と服毒したものの死にきれず、井戸に身を投じて果てました。王懿栄が亡くなると、収蔵していた甲骨は、全て劉鉄雲に譲られました。劉鉄雲は、羅振玉(らしんぎょく)の勧めもあって、その中から資料として有用な物を拓本に取り、光緒二十九年(1903年)に『鉄雲蔵亀』を出版しました。この書に付された羅振玉の『序』には、甲骨文は「夏殷(夏は十七代439年続いたと言われる王朝)」の遺物であり、古文字の研究の助けとなり、且つ、経史の内容を証明することができる、と述べられています。この『鉄雲蔵亀』の出版は、中国のみならず、各国に甲骨文字の存在を知らしめる事になりました。当時、中国に関係していた米国人フランク・へーリング・しゃるファン(Frank Herring Chalfan 1862年~1914年)、英国人サミュエル・クーリング(Samuel Couling 1859年~1922年)、英国駐天津領事ライオネル・チャールズ・ホプキンス(Lionel Charles Hopkins 1854年~1952年)、ドイツ人リチャード・ウィルヘルム(Richard Wilhelm 1873年~1930年)等が、合わせて五千片余の甲骨を買い求めています。日本人による収集は羅振玉よりも早く、例えば、三井源右衛門は一度に三千片を得、林泰輔(はやしたいすけ)氏は1905年から収集を始め、1928年までに、日本人が収集した甲骨は、凡そ一万五千片に及びました。江上波夫著『東洋学の系譜』によれば、甲骨文字の真贋が問題視され、白眼視されている時期に、林氏は、明治四十二年(1909年)に『清国河南省湯陰県発見の亀甲獣骨に就きて』という論文を発表し、甲骨文字を精査考証し、中国古代研究史上、きわめて貴重な資料である事を論証しています。これは、我が国の学会に衝撃を与えたばかりでなく、羅振玉を刺激して『殷商貞卜文字考』を執筆刊行させる契機となりました。龍骨の出土地についても自らも収集を始めた羅振玉は、1908年に、骨董商からその出土地を聞き、林氏よりも一年遅れて、1910年に発表した『殷商貞卜文字考』の中で、甲骨の出土地が、史書に「殷墟」と記されている河南省安陽の小屯(しょうとん)であり、『史記・殷本紀』と比較して、歴史的資料価値のある物である、と証明しました。因みに、林泰輔氏は、『大漢和辞典』の諸橋轍次先生の師匠に当たります。殷は、紀元前1700年頃~前1100年頃まで存在した王朝です。「殷墟」は『史記』に出てくる地名で、殷王朝の中期以降から最後の紂王(ちゅうおう)までの約三百年間、小屯付近に都が置かれていましたが、長く伝説時代と思われていました。羅振玉は、 当時の多くの官僚がそうであったように、日本の力を借りて清を復興させようと考えていました。彼は溥儀(ふぎ)に従って満州国に行き、満州国参議・満日文化協会会長等の要職に就きました。そのため、新中国建国以降の評判は芳しくはありませんが、保守的な思想を持っており、清室に忠誠を尽くした人物でした。1896年に、上海で私塾「東文学社(東文は日本語の意)を創設して日本語の教育に務め、その後、京師大学堂農科大学(現 中国農業大学)の学長に就任しました。辛亥革命が起きると日本に亡命し、1919年に帰国。1928年に、溥儀の招聘に応じて旅順に移り住み、1940年5月に亡くなるまで、この地で過ごしました。林泰輔氏の論文に刺激を受け、1911年~1933年にかけて、甲骨文の資料を編纂・出版し、伝統的な国学の研究に、大量の新資料を提供しました。その後、甲骨文字の研究は、「東文学社」で学んでいた王国維(おうこくい)に受け継がれ、彼によって、小屯は、殷の第二十代の君王盤康(ばんこう)が定めた都であり、この地で八代十二王が政務を執っていた事が明らかになりました。亀甲獣骨の表面からは、およそ4,500種の文字が発見され、約1,700文字が解読されています。その中には、象形を始め指事・会意・形声等の文字が含まれており、文字として相当進んだ段階にあった事が分かっています。つまり、殷の盤康以前の文字の状態は明らかになってはいないものの、漢字の歴史は、更に古い時代にまで遡ることができる、と予想する事は難しい事ではないのです。〇増え続ける漢字ところで、漢字は古いということ以外に、もう一つ特筆すべき点があります。中国で漢字が生まれたように、我が国にも日本製の「峠」「辻」「鰯」等の国字があり、また、唐の則天武后は「圀(国)」「埊(地)」等の則天文字を作りました。どの時代に幾つの漢字が存在したのかと言う問題は、歴代の辞書を調べれば容易に判明します。殷末に4,500だった文字は次第に増加し、後漢の許慎(きょしん)の著した『説文解字(せつもんかいじ、100年~121年の間に成立)』では9,353字、三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)が編じた『広雅』(隋の煬帝の諱(いみな)が煬広なのでそれを避けて『博雅』とも言います)では18,151字、南朝梁の顧野王(こやおう、519年~581年没)の著した『玉編』が22,726字、北宋の陳彭年らの編で1008年に完成した『広韻』には26,194字、清の康熙帝(こうきてい)の命により、六年を費やして康熙五十五年(1716年)に完成・印行した『康煕字典』には、42,174字が収められています。そして、日本で作られた『大漢和辞典』の親字は五万字です。殷の甲骨文字4,500 字後漢『説文解字』9,353字三国時代『広雅』18,151字南朝梁『玉編』22,726字北宋『広韻』26,194字清の『康煕字典』42,174字 昭和『大漢和辞典』五万字殷墟から発掘された「甲骨文字」と、許慎の著した『説文解字』の間には、約千四百年の隔たりがあります。許慎は後漢の人物なので、『説文解字』には、秦の始皇帝の統一した文字である「小篆」と、彼の時代に残っていた秦以前の文字が使われていますが、「甲骨文字」と「小篆」には、「鶏」や「奚」など殆ど同じ文字が存在しており、また、占卜の文面から考えて、周・秦・漢と「甲骨文字」の表す言語の間には、いちじるしい断絶はないと言われています。私は、留学中に北京の「中国歴史博物館」に出かけた事があります。そこで、殷の二十二代 武丁の時代の亀甲が展示されているのを見ました。大きな腹側の亀甲に、数行にわたって文字が書かれており、出土した時からそうなのか、朱色に染められた文字までありました。それを見た時には、ヒエログリフや楔形文字は既に滅んで伝わらないのに、現在にまでこの文字の流れが伝わっているのか、と思ったのを覚えています。殷の時代に約4,500だった文字は、昭和に編纂された『大漢和辞典』では五万字に増えています。例えば「釔(イトリウム)」「鈦(チタン)」「鉀(カリウム)」等の元素記号を表す文字は、『康煕字典』には掲載されていないので、『大漢和辞典』は、元素記号については、『中華大辞典』から取っています。同書は収載の文字、およそ四万八千余字。『康煕字典』以降で最良の書と称されています。甲骨文字を起点として、現代にまで流れ続ける漢字は、時代の変化に応じながら、今も増え続けているのです。長くなりました。運が良ければ、あと一回、掲載しましょう。今夜はこの辺で。皆さんにとって、好い一日でありますように。



皆さん今晩は。今夜は、漢字が「表音文字」であるという証明です。(六)転注転注については、古来定説がありません。転とは車輪の回転することであり、注とは水が器から器に注がれる事です。そこで、例えば、「駿」は、もともと「馬の良材」つまり「優れた馬」のことで、優れた馬は足が速いので「はやし」と訓じ、また優れた馬は大きいので「おおきい」と訓ずるような、文字の意味が本義から転じて別な意味が生じる事、と言う説。他にも、蓮荷(れんか、蓮も荷もはすの意)の荷を、負荷の荷(になう)に転用し、山がらすの意であった「雅」を、風雅の「雅」に転用する。これらは「音」の関係での転用を説明した物ですが、意味上の関係から解き明かす説もあります。例えば、「樂(楽)」,は、上部の「白」は鼓の形に象り、その両側は騎兵が馬上でならす攻めつづみに象り、下の「木」は、鐘磬(しょうけい、中国古代の打楽器)をつるす台の柱を表した象形文字です。この字の本義は楽器で、音楽の意味を表すので音は「がく」。そこから転じて「たのしむ」意となる場合の音は「らく」。つまり、一文字で二つの語を表す同字異訓が転注である、という物です。※小篆の「樂」或いは、青木正兒氏は『支那文學概説』の中で、「水」から水に関する文字が派生するような、「木」から木に関する文字が派生するような、文字の派生の法則であると考える、と述べています。但し、『説文解字』の著者である許慎(きょしん)の説明がはっきりしないので、古来、定説がありません。さて、清の学者 朱駿声の『説文通訓定声』中の「説文六書爻列」によれば、『説文解字』に収められた9,353文字中、文字の使用方法である「仮借」と「転注」を除いた、指事・象形・会意・形声の文字数は、それぞれ次の様になります、指事文字は125文字象形文字は364文字会意文字は1,167文字形声文字は7,697文字漢字はよく表意文字であると言われますが、その根拠となる象形・指事・会意文字の、『説文』中の文字数は1,656文字。それ以外は全て形声文字です。9,353文字中、八割以上が形声文字であるからには、漢字は「表意文字」であり、また、「表音文字」であると言えます。漢字の音は、丁寧に積み重ねられた研究によって定められています。更に、漢字が表音文字であるからには、キラキラネームのように、漢字に恣意的に音を決める事は不可能なのです。〇おまけところで、象形文字の「日」の文字の横棒が「烏」である事は既に述べましたが、では、「目」が象形文字であるのなら、「口」の中の「二」とは何なのでしょう。※『説文解字』の小篆と古文の「目」の原文。人眼也 象形 重童子也「人の眼なり、象形、重童子なり」古文目「古文の目」重童子(ちょうどうし)とは、童子(瞳子)の重なった様。口の中の二を、重なった瞳と解釈しているのですが、これではよく分かりません。古文の目玉親父ような文字は、『説文解字注』には、外側が顔の輪郭、内側は眉と目に象っている、と説明されています。或いは、ここから現在の形になったのかもしれません。それにしても、現在使われている「目」という文字は、秦の時代にできた小篆から、形が変わっていないのです。今夜はこの辺で。あと一日、お付き合いいただければ幸いです。


新しいアイデアや挑戦を、アプリで見つけるcampfireにアプリが登場しました!
App Storeからダウンロード Google Playで手に入れよう
スマートフォンでQRコードを読み取って、アプリをダウンロード!