『漢字の話 キラキラネームの秘密』を出版したい

キラキラネームとは、一言で言えば、日本人には読めない名前の事です。でも、日本人には読めない名前が、何故、これほど広がっているのでしょう?おかしいとは思いませんか?本書では、漢字の歴史を振り返りながら、その秘密について解説しています。

現在の支援総額

2,500

0%

目標金額は5,250,000円

支援者数

2

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 2022/02/18に募集を終了しました

『漢字の話 キラキラネームの秘密』を出版したい

現在の支援総額

2,500

0%達成

終了

目標金額5,250,000

支援者数2

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 2022/02/18に募集を終了しました

キラキラネームとは、一言で言えば、日本人には読めない名前の事です。でも、日本人には読めない名前が、何故、これほど広がっているのでしょう?おかしいとは思いませんか?本書では、漢字の歴史を振り返りながら、その秘密について解説しています。

エンタメ領域特化型クラファン

手数料0円から実施可能。 企画からリターン配送まで、すべてお任せのプランもあります!

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

学生の矜持
2022/02/10 06:12

皆さん、今晩は。さて、私は、だいたいにおいて、現代中国の真実と言うか、負の面を取り上げていますが、決して中国人を軽く見ているわけではなく、寧ろ、彼等は非常に優秀で、勝手な思い込みなどしてはならない存在である、と思っています。これからお話しするのは、中国の大学生の話です。大学は全寮制で、彼等は授業が終わっても、図書館や食堂や教室に残って、普通に一日10時間以上勉強をしていました。努力をするのは、自分の為、家の為、国の為です(但し、これは寝そべり主義が流行する前の話です)。〇学生の矜持私は九十年代の初めに、三年ほど中国に留学していました。地方の名門校で、『二十五史』校点事業で有名な、顧頡剛(こけつごう)も在籍した事のある大学です。在学中、日本語科の授業を見学する機会に恵まれました。ちょうど、二〇〇〇年に開催される五輪を北京に誘致しようと、中国全土で運動していた頃の事です。天皇皇后両陛下が北京を訪問され、中国全土が親日的な雰囲気に包まれていたこともあり、学生から、日本語で五輪誘致の弁論会を開くので聞きに来ませんか、と誘われたのです。会場は、百人は入れそうな、小さめの講堂でした。ドアを開けるとほぼ満席で、壇上では日本語科の教授が開会の辞を述べていました。私は邪魔にならぬよう腰をかがめて後ろの方に行き、通路側の空いている席を見つけて、おとなしく座っていました。日本からの留学生が、まだめずらしかった頃の事です。誘ってくれた学生を探したものの見つからなかったので、誰とも話をせずに、発表に集中していましたが、誰かの発表が終わる度に、私の所に、面識のない学生が挨拶にきました。彼等は、自分の名の日本語音を綺麗に発音して、例えば、「初めまして、私は劉(仮名)と申します。」と挨拶をしました。「どうして日本人と分かったんです。」と聞くと、笑いながら、「中国人は、腰をかがめて入ってきたりしません。」、と。外国語の学習を始めると、必ず自己紹介を学びます。日本人が中国語の学習を始める時にも、中国人が日本語の学習を始める時にも、自分の姓名の漢字を、相手の国の音に直して発音をする所から学びます。その行為には、これから学習する国に対する礼儀があります。結局、この時、中国は五輪の誘致に失敗しました。中央電視台から「シドニー」の名が流れると、中国人の学生寮は落胆の声に包まれました。発表の翌日、日本語科の学生達は私の顔を見るなり、「米国の圧力です。」、と不満を口にしました。憤慨のあまり泣き出した学生もいたそうです。落選の理由には、北京の環境問題や人権問題などもあったと思いますが、私は、彼等の顔を見ながら、日本の学生は同じ状況で、これほど悲嘆にくれるだろうか、と思いました。全人口の0.3%程度しか進学しないと言われた頃の話です。彼等は日本に憧れを懐きながらも、愛国心に溢れていました。日本は裕福だけれども、日本は日本、中国はこれから発展する、と。自己紹介の時の美しい日本語は、重点大学(日本の旧国立一期校にあたります)の学生としての矜持の表れであろうと思いました。その後、中国は五輪の招致に成功し、2008年8月8日から17日間、北京で競技大会が開かれ、北京五輪以降、中国は急速に発展します。それを支えたのは、あの学生達の愛国心であったろう、と思うのです。今夜はこのへんで失礼します。明日が皆様にとって、好い一日でありますように。  


皆さん、今晩は。この活動報告も、とうとう十日を切りました。何か、終わりにするのが惜しくなっています。さて、今夜のお話は、米疾病対策センター(CDC)が、世界各地の感染状況に基づき、日本やキューバなど7カ国を渡航警戒のリストで「レベル4」に引き上げましたが、これは、実は、米国自身も「レベル4」で、しかも、日本以外に135か国も同レベルで、更に、昨年の4月にも、CDCは日本を含めた130か国に「レベル4」を出しています。まあ、これだけ流行していますから、当然と言えば当然かもしれませんね。先ずは、以下の記事をご覧ください。「2月7日に、米疾病対策センター(CDC)が、世界各地の感染状況に基づき、毎週更新している渡航警戒レベルのリストで、日本やキューバなど7カ国を「レベル4」に引き上げました。CDCは、直近28日間の感染者が10万人あたり500人を超えた国・地域をレベル4として、渡航を避けるよう勧告しています。レベル4の国・地域は先月初めの時点で80カ国前後でしたが、最新リストでは135カ国近くに上り、ほかの全カテゴリーを合わせた数を上回っています。」(「CNN.co.jp」『日本やキューバの感染警戒レベルを最大「4」に 米CDC』2022.02.08)※米国自体はリストに掲載されていませんが、レベル別に色分けされたCDCの世界地図では、31日の時点で4に入っています。また、米国は、昨年4月にも、渡航中止勧告を世界の8割に出しており、我が国は、6月初旬に「レベル4」から「レベル3」に引き下げられています。それはさておき、日本は、中国のように徹底的に管理すべきでしょうか?それとも欧米のように共存を考えるべきでしょうか?〇中国が『ゼロウイルス作戦』を続けなければならない理由について以下は、Youtubeに2022年1月27に投稿された、「BBC News 中文」の報道です。現在、世界の多くの国々が、如何にウイルスと共存すべきか研究しているときに、中国は依然としてあらゆる疾病を一掃しようと試みています。中国は何故、「ゼロウイルス」政策を堅持しなければならないのでしょう?また、この政策はどのくらい続ける事ができるでしょう?BBCの記者Ros Atkinsが、その原因を解説しています。『新型ウイルスまとめ記事:何故 中国は依然として「ゼロウイルス」政策を堅持しているのか?(新冠疫情懶人包:為何中國仍在堅持「清零」政策?)』Ros Atkins「欧州では、毎週、数百万のコロナ感染者が生まれています。中国は非常に少数です。中国は依然として「ゼロウイルス」政策を堅持しています。」賀青華(中国衛生健康委員会)「我が国の蔓延状況については、総体的におだやかです。一部の地域で地域性のクラスターが発生しているものの、総体的には短期間で効果的に制圧する事ができます。」Ros Atkins「具体的に実践されている効果的な制御方法とは、この様な物です。」Robin Brant(BBC駐中国記者)「彼等は、三例の無症状の感染者を発見すると、たった三例で、この人口百万を超える都市を、短時間で封鎖するんです。」Ros Atkins「ゼロウイルスの意味する所は、都市封鎖であり、大規模な検査であり、旅行シーズンの前に公共の交通システムに対して消毒殺菌を行う事であり、濃厚接触者を集中隔離する事です。ペットショップのハムスターからウイルスが検出されると、香港ではハムスターの殺処分が行われました。中国は新型ウイルスの駆逐を望んでいます。そして、その目的は、だいたいにおいて成し遂げられています。米国と英国で、数百万、或いは、数千万なのに対して、中国は僅か十数万の症例です。公式発表での死亡人数でも、同様の違いが見て取れます。中国は数千例、米国は100万人に近づく勢いです。実際、中国は既に数か月も新型コロナの死亡者を出していません。「ゼロウイルス」政策の支持者は、これは政策の有効性を証明しているのだ、と述べています。彼等は更に中国経済に言及して、公式データは、昨年のGDPの成長は8%を超えたことを示しており、これは多くの予想をはるかに超えている、と述べています。もっとも、注意点もあります。」大井真理子(BBC亜洲商業記者)「現在の、中国の厳格な「ゼロウイルス」政策の意味するものですが、一部の大都市がオミクロン変異ウイルスによって、先月から再び封鎖状態に入っています。しかし、私達はそれらがどれ程の影響をもたらすのかを、未だ 知りません。」Ros Atkins「目下、中国は「ゼロウイルス」政策は有効だと考えています。しかし、彼等は「ゼロウイルス」政策について、どれくらい持ちこたえられるのか、決定を下さなければなりません。彼等は恐らく決定を下さざるを得なくなるでしょう。」Professor Jane Duckett(University of Glasgow)「私は、相当の確率で、オミクロンの変化によって、中国各地に感染者が出現し、彼等はこの変異種の感染を阻止する事が困難である事を知る事になる、と考えています。」Ros Atkins「ウイルスの変異が、「ゼロウイルス」政策に挑戦をするのです。私達は既に、オーストラリアで、デルタ株の襲来によって、「ゼロウイルス」政策が終わったのを目にしています。スコット・モリソン首相は、今からオーストラリアはウイルスとの共存に入る、と宣言しました。更に、ニュージーランドも、ジャシンダ・アーダーン首相が、昨年10月に、次のように発表しました。」Jacinda Ardern「ゼロウイルスは非常に重要です、何故なら当時私達にはワクチンがありませんでしたから。現在、私達にはワクチンがあります。ですので我々は策略を変え始める事ができます。」Ros Atkins「ワクチン接種は、少なくとも理論上は、ゼロウイルス政策から離脱する手段です。中国のワクチンは、公式統計によれば、既に12億人が接種しており、これは、およそ総人口の90%です。但し、二つの最も有名な中国のワクチンには一つ問題があります。」Nicholas Thomas(香港城市大学)「オミクロンが襲来していますが、中国は依然として「ゼロウイルス」政策に頼っています。シノファームにせよシノバックにせよ、オミクロン株、或いは、デルタ株に対する、高い有効性を提供することは出来ないからです。我々は依然として心配しているのです。」Ros Atkins「ええ、中国のワクチンの有効性が、モデルナ、或いは、ファイザーに及ばない事は証明されています。トロント大学の王恵玲の分析です。」Professor Lynette Ong(University of Toronto)「中国政府が統制の緩和を非常に心配するもう一つの原因は、彼等は、目下、ワクチンの輸入には消極的なのです。なぜなら、彼等は世界に、中国のワクチンがそれほど有効ではない事を、宣伝しようとは思わないからです。」Ros Atkins「ワクチンのこれらの制限より更に重要なのは、中国の症例数が少ないのは、人口全体の自然免疫力がやや低いことを意味している事です。これらの原因によって、更に他の原因で、中国の疾病予防制御センターは、最近、一篇の文章を表し、次の様な結論を出しました。」China's Center for Disease Control and PreventionStudy published November 2021「もし、中国が西方諸国の様な防疫政策を採用すると、中国の医療体系に、壊滅的な衝撃をもたらし、国内に巨大な災難をもたらすことになる。」Ros Atkins「いつ「ゼロウイルス」政策を停止するのかについては、更に別の二つの要素があります。先ず、二月に北京で行われる冬季五輪です。中国は疾病による如何なる干渉も望んではいません。このため、外国の観衆も現場での観戦を禁止され、一般に対するチケットの売り出しも停止しました。これらの措置は民衆には歓迎されているようです。」一般人「北京は中国の首都ですから、ここでのエピデミックの予防と管理は、当然、他よりも厳格にすべきです。チケットの販売中止も、予防と管理のためでしょう。ですから、私は支持します。」Ros Atkins「もう一つ肝心な事は、10月に中共全国代表大会が開催されることです。大会は五年に一度開かれます。会議では、中国共産党の将来の方向性を決めます。2018年には、習近平主席が国家主席の任期の規制を撤廃しました。今年の秋、彼は三度目の任期を獲得する予定です。政治的に敏感な時期なのです。習主席は新型コロナの症例が上昇し、状況が複雑になることを望んではいません。更に、彼は、エピデミック後の世界について語っています。」習近平主席「経済社会の発展を促し、希望の光が人類を照らすよう、全力でエピデミックの翳りを取り除く。」Ros Atkins「如何にエピデミックによってもたらされた翳りを取り除くのか、そこが問題です。ウイルスの侵入とそれに伴う各種の不確定性について、我々がこの問題について考える時には、WHOの英国に対する評価を覚えておくべきです。David Nabarro(世界保健機関 Covid-19の特別特使)「私には終わりが見えています。トンネルの出口が見えます。しかし、私はまた、2022年に世界は更に険しい道のりを歩むと予想しています。」Ros Atkins「WHOはトンネルの先に光が見えたことを発表し、習近平主席は、希望の光の話をしました。しかし、中国と西側は二つの全く異なる道を歩んでいます。西側では、既に非常に多くの命が失われましたが、しかし、現在、着実に、このウイルスに支配されない生活に向かって歩んでいます。しかし、封鎖と旅行制限を厳格に実施している中国は、そうではありません。あらゆる政治的な宣伝と公衆衛生上の原因を検討しています。中国は、短期的に方向性を変える可能性は低いでしょう。」(「BBC News 中文」『新型ウイルスまとめ記事:何故中国は依然として「ゼロウイルス」政策を堅持しているのか?(新冠疫情懶人包:為何中國仍在堅持「清零」政策?)』Youtubeに2022年1月27に投稿)こういう時期には、やはり免疫が大切ですね。では、今夜はこのへんで。本日が皆様にとって、好い一日でありますように。


皆さん、こんにちは。今回は、唐に渡り才名を馳せた日本人についてのお話です。『旧唐書(くとうじょ)日本国伝』には、長安三年(703年)に唐に遣わされた、大臣の朝臣真人(『新唐書』によれば「朝臣真人粟田」)についての記述があります。日本では、701年に『大宝律令』が完成していますが、粟田真人(あわたのまひと)は、その作成に参加した学者であり、唐の官品制にも通じていました。『唐書』に記載されているのは、その二年後の様子です。『旧唐書』には、朝臣真人は、唐の戸部尚書(こぶしょうしょ、戸部は戸口や租税を司る役所、尚書はその長官)のように、冠をかぶり、紫袍を身にまとい、腰には絹の帶を結んでいました。真人は経書と史書に通じており、文章がうまく、立ち居振る舞いは立派でした。則天(則天武后)が麟徳殿で彼のために宴を開き、司膳卿の位を授け、放ちて本国に帰した、と記されています。「真人は好んで経史を読み、属文(しょくぶん、文章をつづる)を解し、容止温雅。則天之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に還す。」、と。猪口篤志先生は『日本漢文学史』の中で、「唐人はその容止閑雅なるを見て、東海君子国の使者に背かずと称賛した。」と述べています。また、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)も同時代の人物です。開元(かいげん)元年(713年)、玄宗が即位しました。玄宗皇帝は、晩年、楊貴妃におぼれて国政を顧みなくなりましたが、初期には賢臣を用いて「開元の治」と言われる唐の最盛期を作り上げた名君でした。仲麻呂が入唐(にっとう)するのは、玄宗皇帝即位の四年後の事です。阿倍仲麻呂は、701年頃に生まれました。これは、詩仙と呼ばれた李白とほぼ同い年です。716年に十六歳で、吉備真備(きびのまきび)と共に唐に渡りました。玄宗皇帝に仕え、名を朝衡(ちょうこう、『新唐書』によれば朝衡、『元本分類補注 李太白詩』によれば晁行)と改めました。753年、帰国のために蘇州から出航しましたが、船は暴風雨に遭い、安南(ベトナム)に漂着しました。仲麻呂は王維・李白(701年~762年)等文人とも交流がありましたので、同い年で、共に宮廷に仕えたのでしょう、難破の知らせを受け、悲嘆にくれる李白の絶句が残っています。晁卿行を哭す 李白       哭晁卿行 李白日本の晁卿 帝都を辞し     日本晁卿辞帝都征帆一片 蓬壷を繞(めぐ)る  征帆一片繞蓬壷明月帰らず 碧海に沈み     明月不帰沈碧海白雲愁色 蒼梧に満つ      白雲愁色満蒼梧日本の晁行は帝都に別れを告げ旅の船が一艘 神仙の住む蓬莱山をめぐる明月の如き晁行は帰らず 蒼い海に沈み(舜帝が亡くなった時のように、蒼梧は舜帝が亡くなった地 )白雲は愁いをおびて蒼梧の山に立ち込めた百人一首にも取られている「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」は、『今昔物語集 巻第二十四』では、仲麻呂が帰国するというので、明州(中国浙江省寧派のあたり)の浜辺に人々が見送りに集まった時、夜になり、月が明るく輝くのを見て詠んだ事になっています。遣唐使は、出発の前に、三笠山に旅の平安を祈願する習わしがあったというので、それをふまえたのかもしれません。阿倍仲麻呂は、767年に長安に帰りつき、唐の朝廷にも認められ、日本からの遣唐使の世話にも努め、五十年を異国で過ごし、称徳天皇の神護景雲四年(770年)、七十歳で客死しました。さて、都の長安から多くの留学生によって、直接日本にもたらされた物が「漢音」です。この場合の「漢」とは、漢字・漢文と同様に中国を指しています。「呉」と「漢」の意味からも、二つの関係は窺えますが、我が国で「呉音」と「漢音」の関係が明らかにされるのは、桓武天皇の御世の事です。猪口先生の『日本漢文学史』には、次のように書かれています。「桓武天皇の即位(七八一)より源頼朝が幕府を開くまで(一一九二)のほぼ四百年を平安時代という。桓武天皇はまだ登極せられない以前は山部親王と申し上げたが、深く儒教を好み、これに精通され、一時大学頭とならせられたことがある。即位せられるに及んで、鋭意政治を釐革(りかく、改革の意)し…、延暦十一年(七九二)七月には葬儀の奢靡(しゃび)を禁ぜられるなど、前代の弊を改めさせられた。そして、この年の十一月、諸学士に詔して漢音を学習せしめられた。山崎美成の『好古録』によれば、『日本紀略』に、延暦十一年、閏十一月辛丑、敕スラク、明經ノ徒ハ、呉音ヲ習フベカラズ。發聲誦讀、既ニ訛謬ヲ致セリ。漢音ヲ熟習セヨ。とある。唐との交流が頻繁なため、長安・洛陽方面の音が標準語と見られるに至り、当時乱れていた発音を正されたものと思われる。そして翌十二年四月二十八日、制して、今ヨリ以降、年分度者、漢音ヲ習フニ非ザレバ、得度セシムル勿レ(『類聚国史』)といわれた。元来、奈良朝のはじめまで、漢文は音読して後に通釈講義した…ただ桓武天皇の時に至って、仏典は呉音、漢籍は漢音を以てよむという制度が確立せられたのである。」本来、延暦(えんりゃく)十一、十二年に関する記述は、六国史の一つである『日本後紀』に書かれていなければならないのですが、残念なことに、同書には平安遷都前後の記録が欠けています。そこで、その欠を補っている『日本紀略』(新訂増補『国史大系』第十巻)に従って、二つの詔令を補足すると次のようになります。先ず「延暦十一年、閏十一月辛丑、敕スラク、明經ノ徒ハ、呉音ヲ習フベカラズ。發聲誦讀、既ニ訛謬ヲ致セリ。漢音ヲ熟習セヨ。」と言うのは、延暦十一年は、十一月が二度あって、勅命が発せられたのは、二度目である閏十一月。「辛丑(かのとうし)」は二十日なので「閏十一月二十日」の事。明経(みょうぎょう)の徒とは、大学寮で漢文の経書を学ぶ学生の意で、誦讀(しょうどく)とは節を付けて読む事。音読して後に通釈していました。延暦十一年には既に、呉音は誤りが多かったのでしょう。「漢音ヲ熟習セヨ」の部分は、『国史大系』本では「宜シク漢音ヲ熟習スベシ」とあって、大学寮で経書を学ぶ者は、漢音を心を込めて学ぶべきである、という意味になります。続く延暦十二年(793年)には仏典を読むときにも「漢音」で学習するよう命令が下っています。『国史大系』本には「四月丙子、制」と書かれており、「丙子(ひのえね)」は二十八日なので「四月二十八日」の事。 今ヨリ以降、年分度者、漢音ヲ習フニ非ザレバ、得度セシムル勿レ 得度(とくど)とは出家をする事。年分度者(ねんぶんどしゃ)とは、毎年の得度者になるための合格枠で、当時、僧侶になるためには政府の許可が必要で、戒律を学び、認定試験を受け、合格しなければなりませんでした。その試験に、漢音を学んだ者でなければ合格させない、というのです。延暦十一、十二年に、儒教の教書だけではなく、仏典も「漢音」を正規の字音と定める命令が発せられました。しかし、仏教は奈良時代以前から広まっており、経典を読むときには相変わらず「呉音」が使われました。そのため「漢音」は、完全には「呉音」に取って代わることができないまま、現在に至っています。桓武天皇が、唐の長安を模して、都を平安に定める前年の事です。さて、この様な背景なので、基本的には「漢音」も「呉音」も、古い時代の中国語の音が日本に入って来た物なのですが、『漢和辞典』の漢字の音は、耳で聞いた物を、いい加減に辞書に採用しているわけではありません。しかし、その話はまたの機会に。今夜はこのへんで失礼します。本日が皆様にとって、好い一日でありますように。


皆さん、今晩は。今夜は、漢字の音について、お話したいと思います。〇呉音そもそも、漢字には音と訓があり、音には、呉音・漢音・唐音と慣用音があります。今から千八百年前の西暦220年、中国では曹操の子曹丕(そうひ)が、漢の献帝を廃し、後漢を滅ぼし、洛陽に都して国号を魏と定めました。我が国でも人気の、三国時代の始まりです。翌年には、蜀の劉備が成都で即位し、229年には、呉王孫権が帝と称して、建業(今の南京)に都を定めました。234年、蜀の諸葛孔明が五丈原で病没しますが、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と印綬・銅鏡を受けるのは、その四年後の事です。「呉音」というのは地名に由来します。呉の孫権の時代から隋の統一に至るまで、六王朝が建業(南京=呉)に都したので、この時代を六朝時代と言います。六つとは、三国時代の呉・東晋、及び、南北朝時代の南朝の宋・斉・梁・陳です。呉が滅亡すると、317年、西晋の丞相司馬睿(しばえい)が建業で晋王となり、翌年皇帝(東晋元帝)の位に就きました。それ以降、この地域は文化的に大いに開け、南朝に入ると、文化・芸術において、中心的役割を果たすようになりました。420年、劉裕(りゅうゆう)が東晋の恭帝を廃して帝位につき、建康(=建業=呉)に都して、国号を宋(近代の宋と区別して劉宋とも言います)と定めました。この頃、大和朝廷は王が即位するたびに、周辺諸国に君臨する証として自ら「安東大将軍倭国王」と称し、宋に使いを遣わしていました。要するに、この頃、大和朝廷と呉の国があった地域(現在の江蘇・浙江)との間に交流があり、そこから日本に入ってきた音なので、「呉音」と言われるようになったのです。「呉音」の多くは朝鮮半島を経由して入って来たので、朝鮮語の音も含まれていると言われています。また、「呉音」だけが存在した時代には、それは中国語と認識されていました。〇漢音その後、中国大陸では、589年、隋の文帝が陳を滅ぼして再び統一王朝が生まれました。隋は都を長安(現在の西安)に定めました。大和朝廷は、隋と国交を開こうと考えたようです。王多利思比狐(たりしひこ)が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや」との国書を持たせ、小野妹子を遣隋使として送り出したのが607年(『隋書・倭国伝』)の事です。この書を見た煬帝(ようだい)は、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿かれ(野蛮人の国書に、無礼な物がある、二度と上奏するな)」、と述べたものの、翌年、裴清(はいせい)を遣わし、裴清は倭国に到着して、大歓迎を受けました。それ以降、日本からの遣隋使・遣唐使といった当時の留学生は、都の長安に行き、現地の言葉や文化を学ぶようになりました。長安(陝西省)は、漢の恵帝(在位、前194~188年)の三年から六年にかけて築城された都で、唐の司馬貞の『史記索隠(さくいん)』によれば、四方六十三里(漢代の一里は約415m)、東西と南北にそれぞれ十二里ありました。政治と文化の中心地で、本場の中国語が話されていました。漢以降、長安に都した国は、前趙・前秦・後秦・西魏・北周・隋・唐等で、漢及び唐の時代に隆盛を極めました。唐代に、我が国は国名を「日本」と改めました。『旧唐書(くとうじょ) 日本国伝』には「其の国日辺に在るを以ての故に日本を以て名と為す。或ひと曰く、倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」、と。「日辺」とは、日のほとり、太陽のあるところ。『新唐書 日本国伝』にも、「倭名を悪(にく)み、更めて日本と号す。使者自ら言う、国は日出る所に近し、以て名と為すと…。」、と。日本では、養老四年(720年)5月、編纂が行われていた『日本書紀』が完成しています。同書によれば、我が国は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を始祖とする日の神の末裔が、地上に降臨して建てた国です。『旧唐書』は後晋の劉昫(りゅうく、887年~946年)が勅命を奉じて著した唐の正史で、『新唐書』は宋の欧陽修(おうようしゅう、1007年~1072年)等が勅命を受け、劉昫の『唐書』の誤りを正し、不足部分を増補したものです。『日本書紀』からは約二百年ほど後の時代の書物ですが、唐の王朝が、我が国を「日本」と認めた事が記されています。「日出ずる処の天子」「日没する処の天子」というのは対等ではありません。「日本」という国名も、その延長上にあります。この改名を、大唐帝国によくも認めさせた物だと思います。また、同書には、唐に渡り才名を馳せた日本人の記述もあります。 そのお話は、次回に。本日が皆様にとって、好い一日でありますように。


皆さん、こんばんは。毎日、綱渡り状態ですが、遂に三千人突破しました。皆さんの訪問に、勇気を頂いています。この調子で、最終日まで頑張りたいと思います。最終日まで宜しくお願いします。次回からは、日本の漢字の歴史について、紹介したいと思います。


新しいアイデアや挑戦を、アプリで見つけるcampfireにアプリが登場しました!
App Storeからダウンロード Google Playで手に入れよう
スマートフォンでQRコードを読み取って、アプリをダウンロード!