この七つ目の伝承。
いかにも昔だからというものです。
そして、語り部はおっしゃいました。
「こんな酷い話はないで。古橋にとってはもっとも反省すべき歴史や」
この七つ目の伝承は、古橋にずっと続いていた掟です。
戦後、この掟は排除され、今ではもう行われていません。その恐ろしい掟というのが……
「他所の村からは婿養子を取らない」
今ならば、人権問題になります。
この掟は、古橋が全力で守ろうとした石田三成公の居場所を、一人徳川方に告げて捕縛させたのが、よりにもよって一番石田三成公が親密にして頼っていた与治郎太夫の娘婿だったからです。
この娘婿は、古橋の出身ではなく、他所の集落から婿養子として入っていた人です。
ですから、恐らく、この人は古橋の人間ほど石田三成公に対する情は薄かったのかもしれません。
かといって、たまたまその人が古橋の人間ではなかったという理由で、ざっと330年間も古橋以外の村から婿養子を入れてこなかったのは、いかにも昔、神仏や森羅万象の世界観で生きてきた、村という集団で助け合って生きてきた時代の成せることだと言えど、他所の村の人間に対する偏見と差別と言われても仕方がない行為です。
これはかなり厳しく、村人の目が怖くて破ることができなかった掟だったのだろうと思います。
この禁則がなくなるきっかけになったのは、第二次世界大戦の引き上げ兵士が古橋出身の女性と結婚し、その後、古橋へ移り住んで来られたことでした。
古橋は、住むことは許したものの、区民として籍を入れることはせず、要するに古橋の村人として絶対に認めませんでした。
ですが、私の母が嫁いで来た時にはまだその方は区民でないままいらして、実際にお名前も伺いましたが、村の人の中に
「もういいがな。何年前の話や。もういい加減こういうことは止めよ」
と、おっしゃったことがきっかけで、晴れてその方は古橋区民と認められたのだと聞きました。
「恥ずべき歴史や」と語り部がおっしゃったこの禁則。
70年前に解除となりましたが、戦国の世からずっと守り続けてきた古橋の人々の思いは、余程強かったのでしょう。
数多ある出来事を文章に残さず、それぞれの家で語り継いでこられたのも、何かを物として残せばたちまち徳川の世に灰にされてしまったからだろうと推測されます。
石田三成公の母上様のお墓が、三珠院の奥に名前が見えないように後ろ向きに建てられていたのも、何とか隠そうとした気持ちを物語っているように思えます。