こんにちはつむらです
クラファンも残り1週間切りました。
申し訳ないのですがこの機会を逃すと買えるものもありますが、手に入らないものもあります!
なぜなら各々その時の気持ちを大事に生きているからです!
今回メッセージをいただいた黒田さんの返礼品は竪穴式住居です。
正直ネタ感あると思いますが、 実は私の縄文フレンドは庭に竪穴式住居があります。
わざわざ竪穴式住居を建てられる人を探してまで建てたそうなんです。
ね、需要ってわからないですね
黒田さんは実際に一から磨製石器を作り、それで木を切り出し竪穴式住居を建てています。
最近身内で村長(ムラオサ)と話題の黒田さんです。
それではどうぞ
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必要なのは、原始感覚。
黒田と申します。原始感覚美術祭には、2010年から参加しています。
山梨の梅之木遺跡というところで、石斧で森から木を伐って、縄文時代の技術と材料を使って、竪穴式住居を作っています。
毎日、竪穴住居の中で焚火を見ながらさまざまなことを思い浮かべて自分の中の縄文人に問いかけています。
縄文時代から今へと移り変わる中で、
人は暗闇の不安、飢えや病などの生存の苦しみ、野獣、災害の恐怖から少しずつ離れると共に、新しい苦悩を増やしていきました。
仕事の事、お金の事、将来の事、人間関係、政治、戦争など。
他人と理解しあえない絶望、社会と折り合いがつかない不安。
自然の中で動物として当たり前にある恐れが少なくなったのに、それに勝る闇が背後に迫っているような気がしています。
釈迦やキリストがいた時代から人々は苦しみからの解放を目指しているのに、医療も科学も社会も進歩して楽に生きていけるようになっているはずなのに、人はますます苦悩して生きているように感じます。
なぜ今ここにいるのでしょうか?
どこに行こうとしているのでしょうか?
小さい頃からずっと抱いている疑問です。
僕は、原始感覚美術祭に関わるようになり、縄文の生活を体験することにより少しずつわかってきたことがあります。
それは生命の本来の目的、生きることそのものに戻る事。
それを僕は目指したい。
生きるために生きる。
子供の頃を思い出すと、粘土遊び、ままごと、どんぐり拾い、石拾い、道草、かっこいいものを拾って並べる事など大好きでした。
これらは実は縄文人の生活の練習だったのです。今も縄文人の生活を再現していると、まったく同じことをしています。
人間はおそらく自然のままに生きれば、縄文人に戻れるのかもしれません。
今の知識や概念に覆われてしまった、もっと奥底の自分は、一体何者なのでしょうか。
石を遠くまで拾いに行き、石斧を自分で作る。
真っ当に木と力比べをし、木を伐る。
森を管理し、薪を集める。
火起こしをし、上手に焚火する。
その火で調理し、暖をとり、命と熱の循環に想いを馳せる。
自分で作った道具で生活を豊かにする。
木や石や土、草やきのこ、木の実、魚、獣、川や山、谷などの名を知り、特性を体感する。
体が欲しいものを食べる。
水瓶を持って坂道を歩く。
会いたい人に会うために人間の速度で歩く。
山や森や川へ感謝しながら対等に向かい合う。
祭で踊る。
祈りとともに生きる。
それらは本当に心から楽しいのです。
もちろん現代の知識も技術も大切なのですが、なにか忘れてしまったものがあると思います。上書き保存をしているのですが、消去してしまったものがあるようです。
恐怖とともに、それを乗り越える強さ、知恵、生きるという意思。
狩りをして生き物を殺して、自分が生きる。
生死が繰り返される自然の中でその縁を感謝する心。
自然からカリ(狩り、借り、仮り)、自然にカエス(返す、帰す、変える。)
すべてのものは永遠に所有できない。
自分は身体に宿っているのです。
人は不完全なもので、一人では生きていけません。
自分の傲慢さ、至らなさ、無自覚なことを知る。
人や自然と繋がりながら、集落を作り、ようやく生かさるのだと思います。
あらゆる声に神は宿っている気がします。
人はまだまだ過程なのだと思います。
人が人らしく生きる。
それに必要なのは、原始感覚を取り戻すことなのだと思います。