11月4日のイベントから早2週間。
岡山からの大学生の調査研究の付き添い、立命館大学の先生の来館、母校での講話(ただただ反省(r-_-;))、子どもの村中学校の子ども達の来館(シベリア抑留をテーマにした劇創りのために学びに)。と、自分の無能さを突き付けられ、「資料室を受け継いでよかったのだろうか…」と、マイナス思考に陥ることも。
正直、「学ぶ時間がほしい!」「考える時間がほしい!」と思う日々です。
そうやって迎えた11月17日(金)。
韓国からのお客様、許さんをお迎えするようになっていました。
2020年。元北九州平和資料館館長の小野さんのお手伝いで、小倉陸軍造兵廠跡地を案内しました。
「来年、仲間を連れてきますね。」
と、許さんと別れたのですが、世界中がコロナで大変なことになり、ご無沙汰していました。
今回は、造兵廠の地下道跡(試射室跡)を見学する算段が付き、この日、案内することができました。
実は、韓国仁川(インチョン)にも陸軍造兵廠があるというのです。
今もそのまま建物が残っているのですが、「壊して公園にしよう」という動きが出ているそうです。許さんたちは、歴史を伝えるものとして、何とか残せないかと考えているということでした。
許さんたちは、戦争遺跡の調査と同時に、日本が朝鮮を植民地にしていた時代に日本で働いていた朝鮮人炭砿労働者のことも調査しています。今回の来日は、後者の調査を中心としていました。
そこで、その日は、北九州平和のまちミュージアムを見学後、小倉炭鉱で亡くなった方々を慰霊する慰霊碑に行きました。広寿山福聚寺にあります。
小倉炭鉱があったこと、私は、資料館に関わるまで、全く知りませんでした。
戦前、小倉炭鉱でも朝鮮人の方がたくさん働いていたそうです。
昭和15年、落盤事故と海水侵入で40名の方が亡くなったといわれています。犠牲者の多くが朝鮮人の方(26名という証言もあり)だったそうです。(いただいた資料より)
北九州の発展が、このような方々の犠牲や努力、苦難の歴史のもとにあること。
朝鮮人の方々が、危険な場所で働かされていたということ。
私たちは知らなくてはならないと、改めて思いました。
実は、平和ミュージアムに行った時に、案内役をされていた在日韓国人の方が
「『はっぱ』に感想を書いたよ。」(感想を書くコーナー)
とおっしゃるので、見ると、ハングル語で書かれています。
私には読めないので、何と書かれたのかを尋ねると、
「ここには朝鮮人はいないのですね。」
と書いたと教えてくださいました。
とても悲しくなりました。・・・
私は、北九州市が平和資料館を作ることが決まった時に開かれた、市民への説明会のことを思い出しました。
その時、私は、勇気を出して発言しました。
「韓国や中国、いろんな国の方が北九州市には来られます。もし、戦争中に北九州市で働いていた人、あるいは、働いていた方のご子息がこの資料館に行った時に、自分の存在を消されたようで、自分だったら、悲しくなります。嫌な気持ちになると思います。」
やはり・・・
そんな思いをさせてしまったことをホントに申し訳なく思います。
そういう私も、TICO PLACEに、炭鉱で働かされていた方のことを展示しようと考えていたものの、まだ、達成できていません。
「もっと勉強して、実現させないと!!」
強く思いました。
次の日(土曜日)は、午前中は八幡大空襲を語り継ぐ会が開いている「八文字カフェ」に、いっしょに参加させていただき、午後は、宮若市にある貝島炭砿の跡を巡るフィールドワークに同行させていただきました。
この二日間で学んだことがたくさんあります。
皆さんにも私が知ったこと、経験したことをお伝えしたいと思い、箇条書きにしてみました。
よかったら、読んでください。
<八文字カフェにて>
●八幡空襲の体験者…子どもの頃、朝鮮人の友達と仲よく遊んでいた。
現在の八幡中央高校の近くにあった防空壕に避難した時に、「アイゴー、アイゴー」という、子どもの泣き声を聞いた。
●韓国の学校では、日本に植民地にされる前後の歴史をどのように教えているか尋ねると、受験に出題されることがないので、あまり教えられないとのこと。
その代わり、家庭などその他の場所で、植民地時代の苦労を聴いて育つ。
●参加者の中に、「これから、憲法9条を持つ国としての日本を語れなくなるのではないか。」と危惧されている方の声があったので、徴兵制度がある韓国の様子を尋ねた。
「国を守るために、徴兵は義務だと思っているから、入隊して訓練を受けるのは当然だと思っている。疑問は感じない。」
中には、『人を殺す技術』を教えることに疑問を感じる政党もある。
仮に、徴兵を拒否すると裁判にかけられ、懲役を科せられる。そして、懲役を受けた後、入隊しなくてはならない。
●94歳の海軍少年志願兵だった方「日本の戦争当時は、徴兵がイヤな人の中は、銃の引き金を握る右手の人差し指を負傷させて、徴兵検査に合格しないようにした者が居た。」
●韓国には、『語り部』の集会はない。辛い思い出を語りたくないから。また、生存者がいなくなっている。戦争であったことを残すために、証言者への聴き取りを残したり、「物」を残したりすることを考えている。
<宮若市のフィールドワークにて>
●宮若市(旧:宮田町)の仏厳寺は、日本で亡くなった朝鮮人の炭鉱労働者の無縁仏を大切に安置していた。
●宮若市役所前に建つ「謝恩碑」。当時働かされていた朝鮮人が感謝の気持ちでお金を出し合って建てたといわれるものだが、実は「欺瞞の碑」。「炭鉱で働かされた人が、『働かせてもらってありがとうございます。」と、言わされ、作らされたと見るべきもの。」と、地域の歴史研究家の話。
●貝島炭鉱第七坑では、石炭の露天掘りがされていた。
露天掘りは、校内での採掘に比べて、天候が直接労働に関係する。暑い日は直射日光を浴びながら、寒い日は寒風の中で掘らなければならなかった。また、校内での採掘には「はっぱ」をかける時間があるが露天掘りではそれが無いので、休む暇がなかった。
第七坑で働いていた者の7割が朝鮮人。3割が日本人だったと言われる。3割の日本人は、罪人だったらしい。そのくらい、厳しい労働を強いられた場所。
最後に朝鮮人の方の墓地に行きました。
林の中にある三角形の石は、恐らく亡くなった乳飲み子を葬った場所でしょう。ということでした。
みなさんと手を合わせました。
いろいろと回って、お疲れだろうに、TICO PLACEに寄ってくださいました。感謝、感謝。
このTICO PLACEから歩いて5分ほどの所に、日炭高松の竪坑の坑口があった所があります。
若松区には、戦争が終わって、故郷に帰る途中で遭難して亡くなった朝鮮人の方が眠る場所(小田山墓地)もあります。
ちゃんと歴史の『事実』を展示できるように頑張ろうと思います。