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「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

現在の支援総額

3,037,500

75%

目標金額は4,000,000円

支援者数

204

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

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現在の支援総額

3,037,500

75%達成

終了

目標金額4,000,000

支援者数204

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

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来週月曜日、11月4日(月・代休)。
TICO PLACEの第4回目のイベント『旭堂南照さんの講談会』を開催します。(あと少しゆとりがあります。よかったらご予約ください。⇒https://docs.google.com/forms/d/1yrQpKNcCYgOF5SY357EdLdw941ZPecp-uasN-4tyf_0/edit

題目は『ミチコ先生とマーマレードと対馬丸』です。

対馬丸』をご存知ですか?『学童疎開船 対馬丸』という言葉を耳にされる方も多いのではないかと思います。

沖縄戦に巻き込まれないようにと、長崎県に避難していた『対馬丸』が魚雷攻撃を受け、撃沈。約1500人の方が亡くなりました。そのうちの半数以上が小学生だったという悲しい出来事です。

「戦争になると、子どもも何も関係ない。誰が乗っているかとか、分からないんだから…。だから戦争はいけない!」と、つい最近まで私は、単純にそう思っていました。

でも、この過去の事実から学ぶべきは、もっと他にあることを『今』の沖縄・南西諸島(九州全体を含め)の軍事化を学ぶ中で知りました。


日本郵船博物館のHPに以下の説明が載っています。

「対馬丸」(6,724トン)1916(大正5)年に当社が開設したニューヨーク航路の第1船となった貨物船で、第2次世界大戦中陸軍に徴用されていました。戦争末期、敵の沖縄上陸が必至とみた日本軍の要請で、政府は老人、女性、子ども10万人を本土などへ疎開させることを決定。1944(昭和19)年8月21日「対馬丸」は、国民学校の生徒・教師・付添人ら1,661人を乗せて那覇港を出港しました。しかし2日目の夜、南西諸島悪石島の北西12キロメートル付近を航行中に、米国の潜水艦「ボーフィン」号の魚雷攻撃を受けて沈没。乗船していた学童767人、乗組員24人を含む1,484人が犠牲となり、救助されたのは学童59人を含むわずか177人。歴史上きわめて悲惨な出来事でした。
~日本郵船歴史博物館HPより~

対馬丸は、当時、陸軍に徴用されていたんです。
つまり、日本軍の船だったということです。
おまけに、砲を三問装備した武装商船でした。見た目に、軍用船と判断できる状態だったんです。

このことを含めて私が学んだことは、「武装したものは狙われる」ということです。

「軍用船」としての対馬丸のことを考えたのは、先月、宮古島と石垣島に視察に行った時のことでした。
宮古島で「島を戦場にさせない!」と、子育てと仕事をしながら運動されている「お母さん」と、
石垣島で、戦争を体験した「おばあ」と、
軍事化が進められる『今』の島を案内していただき、いろいろと話をした時でした。

宮古駐屯地前で石垣島にて

『今』、南西諸島(先島諸島)の島々では、有事の時の避難計画が作られています。

市民への説明が行われたり、避難訓練が行われたりしている島があるのです。


政府は台湾有事などの際に沖縄県・先島諸島の住民が九州・山口の8県に避難するためのモデル計画をまとめた。国民保護政策を所管する内閣官房の事態対処・危機管理担当(事態室)が3日、九州地方知事会に計画の概要を示した。沖縄本島の南西に位置する先島諸島の5市町村には11万人が暮らす。最西端の与那国島と台湾はおよそ110キロメートルしか離れていない。今回のモデル計画は大規模な避難計画を策定するための具体例として示した。モデル計画によると、宮古島と石垣島の間に位置する多良間村の住民1000人ほどを24時間以内に熊本県八代市に空路と陸路で輸送する。現地の宿泊施設に1カ月滞在することを想定する。村民はバスなどで多良間空港に移動し、空路で宮古空港(宮古島市)を経由して鹿児島空港(鹿児島県霧島市)に移動する。同空港から1時間半かけて八代市内に設ける「避難先連絡所」に貸し切りバスで移動する。連絡所はホテルなどの滞在先に移動する拠点となる。村役場の機能を持たせるほか通信環境も整備する。ホテルや旅館での受け入れを基本とする。足りない場合は公営住宅なども活用する。政府は先島諸島に避難指示を出す際、避難先に指定した地域への訪問自粛を求める方針で宿泊先は全室が空室であることを前提とする。政府は有事には先島諸島の5市町村の住民11万人と観光客1万人の計12万人が避難する必要があるとはじく。九州・山口8県の収容可能人数を調べたところ36万人となった。今後、各県はモデル計画を基に受け入れ計画を調整する。5市町村の住民らの受け入れ先は石垣市が山口県、福岡県、大分県、竹富町が長崎県、与那国町が佐賀県、宮古島市が福岡県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、多良間村が熊本県となる。(2024.6.3 日本経済新聞)

知っていましたか?

「避難計画が出されるくらい危険な状態なの?!」と、不安に思う方もおられるかもしれませんが、こういう時こそ、よく考えなければならないと思います。

これまでの歴史から。世界中の状況から。置かれている自分や家族、大切な人の状況から。自分自身の生き方から。・・・
いろんな視点から、『今』、どうすべきなのかを考えなければならないと思うのです。


対馬丸事件」から学ぶこと~軍事関係施設は狙われる~から考えると、ミサイル配備を進めていることが、戦争を引き寄せている行為だと思えてなりません。

また、「沖縄戦」は、軍隊は住民を守らない・守れないことを教えてくれています。


私が出会った島の方々は、力を込めておっしゃいました。

「生まれ育った土地を離れて、そう簡単に暮らすことはできません。それもリュック一個で、避難するなんて・・・。
農業をしている人は自分の土地を捨て、どうやって暮らすんですか?
酪農を営んでいる人は、牛たちをどうしたらいいんですか?
漁業をしている方たちは・・・。」

「歳をとられた方が、
『もうそんなに長くは生きられないんだから、私は避難しないよ。』
と言ったら、
『そんな人は助けることはできません。まず、インフラが止まる。それに、自衛隊は住民を守る余裕はありませんから。』
と。日本の国全体からしたら『多少の犠牲は仕方がない』。その『多少』の中に私たちは入っているよね。


私は、「自分だったら…」と考えながら、その方の話を聴きました。

「戦争できる努力をする前に、戦争にならないようにする努力を、私たちはしてほしいんです!!」

ホントにその通りだと、これまで以上に強く思いました。

一部の犠牲を払って平和を保つというのは、本物の平和ではない!!

ましてや、自分の払ったお金で戦争するための準備が為されるなんて、
自分も戦争に加担したことになる!そんなことは絶対にイヤだ!!

私の中の人間としてのプライドが騒ぎ始めます。

実際問題、上の記事にあるように、福岡県も避難を受け入れています。

収容可能人数36万人!?

どこからの試算なのか知りませんが、仮に受け入れ場所があったとしても、人が生活するには、食べること着ること、そして、働くこと・・・そんなに簡単な事ではありません。具体的に想像すると、その計画にゾッとします。

戦争中、宮古島には、住民の半分以上の兵隊が上陸してきました。
その兵隊たちのために、自分たちが働いて作った農作物をすべて供出させられた住民たちは、食べる物がなく、処理の仕方を間違えたら命を落とすほどの毒を持つソテツも食べなければならなかったといわれています。
似たようなことがまた、計画されていることに憤りを感じます。
あまりにも『カンタンに』考えていると私には思えてならないのです。

想像力の欠如。
『他人事』の考え方。

「自分だったら…」と考える国民を増やさなければ!

と、少々焦りながら毎日自分のできる事をしています。



『対馬丸事件』のことを調べていたら、疎開を追体験する子ども達の様子を取材したニュース動画を見つけました。

https://youtu.be/oBha8Ryvxtc

https://youtu.be/NUrIzkaJzmU

沖縄から宮崎県に疎開した学童たちがいたこと、
やーさん(ひもじい)ひーさん(寒い)しからーさん(寂しい)
辛い思いを乗り越え、生きたこと、
戦後も宮崎に残り、沖縄の伝統文化を大事に生きたこと、・・・

知らないことをたくさん知りました。


二度と同じ思いをさせてはならない!!

未来を生きる子どもたちのためにも、『今』一人一人の大人が真剣に考え、行動する時だと思います。

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