ーARICの学生ボランティアに、普段の活動への思いを聞きました。
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「差別」と聞いて、皆さんが真っ先に思い浮かべるのは、「ヘイトスピーチ」――近頃TVやニュースで話題になっている、過激な人たちが街宣車や横断幕を使い、新宿などで大声を出して近隣国や在日朝鮮・韓国人を罵倒する光景かもしれません。大学では、こうした極右活動は、私たち学生のような一般市民まで差別へと導く、「差別扇動」であるから恐い、というふうに習いました。
私はそうだったのですが、この文章を読んでくださっている皆さんの中で、ヘイトスピーチ問題について、大学で講義を聴いたり、書籍やSNSで専門家の説明を読んだりしても、違和感や疑問が残っていませんか。「(問題の)本質ってほんとうにそこなのだろうか」と。ARICでボランティアとして活動する中でこそ、このわだかまりは解消されていきました。「ヘイト」が恐いのは、それが日本社会で、私たちと普段から一緒に暮らしている特定の人びとや集団を標的にした「差別」だからです。つまりヘイトスピーチ、あるいは差別とは、何もあの過激なヘイト集団だけに関係するものでは無いのです。
正直、私は「差別扇動」は必ずしも極右団体から私たちへの一方通行ではなく、むしろ双方向なのでは無いかと考えます。誤解を恐れずに言えば、差別行為や差別者に「NO」を言わず、それらを見て見ぬ振りをする私たち「ふつうの人びと」の「寛容」な態度こそ、差別をしやすい環境を作る「差別扇動」になってしまっているのでは無いかと思っています。
外国にルーツを持つ私自身も、同級生に名前のことで、馬鹿にされたことがあります。記憶をたどる限り、その際、先生含め、誰もそれを阻止しようとする人はいませんでした。これが、今日の極右団体による人種差別を目的としたヘイト活動のきっかけになってしまっているような気が、私にはします。
また、大学生であれば多くが、経験や見聞きしたことがあるでしょう――女の子ばかりが「お酌」を求められる。それをしない(意図的であっても無くても)ことは女子の名において致命的――「女子力」の決定的な欠如、というふうに見なされる。この時に自分でも周囲の誰でも、「女性差別だからやめようよ」と、女性差別的な習慣や文化に「NO」を突き付けたことが、果たしてどれほどあるでしょうか。これこそが、今まさに起こり始めている、女性専用車両を「男性差別」だと揶揄する男性たちが無理やり乗り込んでくる、ヘイトクライムをヘイトスピーチで擁護しようという本当に恐ろしい行為を可能にしてはいないでしょうか。
このように、現在までこの日本においては、差別の被害者が相談しなければ、誰も助けてくれない、酷い場合には、相談をしても助けてくれない、という反差別に消極的な状況がずっと続いてきてしまいました。これには、「勇気」もありますが、単純に「反差別の仕方がわからない」という課題があると私たちは考えました。そこで、パンフレットを媒体として、学生に差別への抵抗方法を伝える・伝えてもらうことで、学生のパワーで日本の差別に「寛容すぎる」現状を打破したいと考え、今回ARICは学生参加型の反差別プロジェクトを始動させます。(具体的な方法は、パンフレットをご参照ください)
差別は「嫌だ」と思い、止めさせようとするのに、性別も、年齢も、学歴も全く関係はありません(抵抗するための知識とか知恵はある程度必要ですが)。それは、人間として当たり前の反応であり、行為だからです。例えば、大学の先生がクラス内などで差別を行ったとき、学生であるまえに一人の人間として「NO」を叩きつけ、止めさせることが出来ます。
「社会人として、立派な大人になりなさい」というのは、大学生が周りに多く言われることの一つだと思います。これはどういうことかとARICのメンバーにも手伝ってもらい、自分なりに考えてみました。まとまった考えとしては、「自分が居る社会を、責任を持ってすべての人びとにとって、よりよくしていくこと」です。しっかりと「社会人」としての義務を果たす意味でも、また、次なる世代のためにもやはり、私は差別を無くしていきたいです。
一緒に差別を撲滅しませんか?そうして二度と、私のように自らにとって大切な名前を理由に差別され、悲しい想いをすることの無い、より健全で暮らしやすい日本社会を目指していきませんか?今がその時です!
H.R.
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