第五章 目覚め
朝、聞き馴染みの無い鳥の囀りで目をさます。なんの夢を見ていたのかは思い出せない。しかし、あまりいい夢ではなかった気がする。そして、目覚めと同時に、自分が今タンザニアへキリマンジャロ登山に来ていることを思い出した。普段は悪い夢を見ると、目覚めた時に、ああ夢か、と安堵するが今日は違った。私自身の意思で来たものの、初めての一人海外、さらにアフリカ、さらに未知への挑戦。昨日の現金引き出せない問題も相まって、少し余裕がなくなっていた。
目が覚めて、しばらく経つとウェイターのブレイッソムが朝食を持ってきてくれた。クレープと食パンとソーセージとよくわからないスープ、フルーツだ。スープは本当によくわからない味であった。昨日のキューカンバースープの方が100倍美味しかった。クレープと食パンとソーセージにケチャップをつけ、交互に食べた。ブレイッソムが食後に、お湯と紅茶、ミルク、コーヒーを持ってきてくれた。私はどれも飲む気が起きず、日本から持ってきたセブンイレブンのインスタント味噌汁を飲んだ。最高であった。
今日はマチャメキャンプ(3000m)から、シラ・キャンプ(3980m)へ向かう。朝7時にガイドのジャコブと共に出発した。昨日はキリマンジャロ国立公園のジャングルをひたすらあ歩いたが、今日は昨日とは打って変わり、ヒース帯と呼ばれる低木林を歩くことになった。ちょうど植生の境目にキャンプ場が位置していたようだ。
第六章 キリマンジャロとポーター
この日はポーターのことを考えた。というのも私はこの登山を通して「生きる意味」を考えようと、日本から「生きる意味」というタイトルの本を3冊持ってきていた。1冊目は心理学者であるアルフレッド・アドラーの本。2冊目は政治家である姜尚中氏の本。3冊目は文化人類学者である上田紀行氏の本。私は彼の「愛する意味」を読んだことがあり、面白かったので本書も読んでみたいと思っていた。なぜ「生きる意味」を考えようとおもったのかというと、決して病んでいるわけではない。人間の生活は、変化を無くす方向に進んでいる。例えば、自分の部屋を考えてみてほしい。地面は平ら、エアコンにより温度は一定、さらに壁に囲まれているため雨風も吹かない。あらゆる自然環境の影響を受けないように、設計されているはずである。そんな”生きやすい”環境で、「生きる意味」を考えるより、酸素濃度が少なく、自然の脅威を直に感じるこの”生きづらい”環境で「生きる意味」を考えた方が、より本質的な答えに辿り着けるのではないかと考えたからだ。「生きる意味」を考える過程で「幸せとは何か」を考え、キリマンジャロ登山で荷物持ちをしている彼らは幸せなのか、とポーターのことを考えるに至ったというわけだ。
ご存知だと思うが、彼らはキリマンジャロ登山の荷物持ちである。彼らは20kg以上にもなる荷物を頭の上にのせ、アタック直前の標高4600mのバラフキャンプまで、荷物を運んでくれる。すれ違うポーターを見ていると、年代は20代から50代ぐらいと幅広かった。ポーターは男性が多かったが、女性もいた。男女比は9:1といったところか。人によってはとてもきつそうに荷物を運んでいる人もいた。そんな彼らは幸せなのか。主観的な幸福の形は多様であり個人差があると考える。故に個々人が幸せかどうかを考えてはきりが無い。よって事実に基づき、客観的に彼らが幸せなのかを考えていこうと思う。この幸せに対するアプローチの仕方は正しいかわからない。
ネット上では、彼らの労働環境に悲観的な記事が多く見られる。その記事の多くは、彼らの給料、肉体労働、一部のポーターの死亡例などを引き合いに出し、彼らの労働環境がいかに過酷で杜撰なものかを記している。確かに事実として、彼らの給料はタンザニアの平均的な給料と比較して低い。また、残念なことに、一部のポーターが命を落としていることもまた事実である。だが、私が議論しているのは幸せか否かである。
タンザニア政府はキリマンジャロ登山の入山にガイド、ポーターの同行を義務付けた。これはシンプルであるが、この制度によってもたらされる恩恵は大きいと考えられる。このシンプルな制度により、キリマンジャロ登山のハードルは格段に下がり、誰もが挑戦できるようになった。それにより、登山客は増加。また、それに伴い雇用も大幅に増加したと考えられる。このシンプルな制度設計をしただけで、キリマンジャロの登山観光産業は格段に活性化したといえよう。そしてポーターはその恩恵を受けている人々である。また、私についてきてくれたスタッフは5名。彼らはとても仲が良く、キャンプ地にてボードゲームをしたり、登山中も雑談しながら登ったり、夜中も彼らの笑い声が聞こえてきたりした。もちろん、ボードゲームを仲間同士で楽しそうにしているから、彼らは幸せであると言っているのではない。厳しい現実があるのは確かである。ただ私には、仲間で笑い合い、登山客である私を励まし、時にジョークを言う彼らの様子を見ていると、とても不幸には見えないのである。
第七章 アサンテサナ
登山中、コックのバラカが話しかけてきた。彼は僕にスワヒリ語を教えてくれた。たくさんのスワヒリ語を一気に教えてくれたので、ほとんど覚えられなかった。
覚えたスワヒリ語↓
ポレポレ「ゆっくり」
ジャンボ「よう!/こんにちは!」
ハクナマタタ「大丈夫/問題ない」
ブワナ「友よ」
アサンテサナ「ありがとう」
トゥウェンディ「出発!」
5時間ほど歩くと今日の目的地であるシラ・キャンプに到着した。時間は午前12:00。夜まで暇だ。すぐ寝たい気もするが、高所順応のために起きていなければならない。なぜか本も読む気になれなかった。テントの外からは、歓迎ソングである『ジャンボ・ブワナ Jambo Bwana』が聞こえてきた。他ツアーのガイドやポーターが登山客に向けて歌っているのだろう。とても盛り上がっているのがわかった。そんな陽気な歌とは逆に、ここにきて初めて強い不安に襲われた。思えばタンザニアに到着してから、考える暇なくすぐに登山が始まり、今日を迎えていた。考える余裕ができ、初めて今自分が置かれている状況を理解し、実感したからであろう。自分の心に余裕がなくなっているのがわかった。そんな時、彼女からのメッセージを見た。彼女は、僕を空港まで見送りに来てくれた時、旅守りと、登山期間である8日分のメッセージカードをくれた。初めは登山守りにしようと思ったそうだが、自分が願うのは登山の成功ではなく、無事な状態での帰国であると考え、旅守りにしたらしい。メッセージカードは1日1枚見るようにと言われていた。その日のメッセージカードを見ると、安心したのか涙が溢れた。僕はこの手のことで泣かないと思っていた。彼女のおかげで、前向きになれた。帰国したら「ありがとう」と伝えよう。泣いたせいで、鼻が腫れてしまい、呼吸しにくくなってしまった。標高4000mでは少し苦しかった。
第八章 静かな夜
この日は20:00に寝た。23:00頃寒さで目が覚めた。温度は氷点下を下回っていた。体力に余裕があるうちにしたかったことを思い出した。星空撮影である。寒さで寝袋から出たくなかったが、これ以上標高が上がり高山病にでもなれば、きっと撮影する余裕がなくなってしまう。そう思い、重い腰を上げる。カメラを持ってテントの外に出ると、今までに見たことがない満点の星空が広がっていた。三脚を持ち外へ。人は誰もいない。昼間とは打って変わり、静かな外。少し怖かった。星空はほとんど撮影したことはなかったが、案外うまく撮影できた。雲一つなかったからか、奇跡的に電波が通り、写真を家族と彼女に送った。
血中酸素濃度 94% 身体異常なし。