Yといいます。京大の3回生で寮に住んで3年目です。
私は狂奏祭を運営している寮外連携局に立ち上げ当時から関わっているメンバーの1人で、最近はでかいものを建てたり、バルコニーを解体したり、いろいろ議論したり、物を運んだり、買い物をしたりいろいろやっています。特に得意なことはありませんが、自分なりにできることをやったり、自分だけでは出来ないことをみんなと一緒に何かをしています。
私からは、自治と音楽とお金の話から、狂奏祭についての考えを書きたいと思います。
・音楽のはなし
イベントの目的として、私たちは熊野寮の広報・自治思想の拡大・学生文化の結集と創出の3つを掲げています。これらの目的を達成するために、どうして音楽フェスなのか。
いろいろ理由はありますが、私は音楽の持つ性質が重要だと思っています。
音楽をはじめとした表現活動では、表現する側とそれを受け取る側がありますが、音楽では演奏する側のみならず、聞く側の主体性が発揮しやすいと私は勝手に考えています。受け取る側は演奏を聞いて、表現を解釈して身体を揺らしたり踊ったりできる、その受け取る側の表現の自由度が特に高いのが音楽です。みんなと盛り上がりつつも個々人の個性が活きる、寮自治のようだとも思います。
参加者の主体性を引き出すことで、このイベントを「みんなのもの」に出来ると思っています。
・自治について
このイベントは熊野寮という学生自治寮で行われ、イベントの運営はその学生自治会が担っています。この「自治」とはひとことで言えば、自分たちのことは自分たちで決めることです。
わかりやすいですね。至極当たり前のことだと思います。
熊野寮に引き付けて自治を話すと、自分たち = 住民である学生たちが日々集まり、自分たちの生活のことや寮がどうあるべきかなどを議論していろいろ決めています。
もしかすると自分たちのことを自分たちで決めることは、自分たちのことしか考えておらず、自分勝手というイメージがあるかもしれません。
でもそうではありません。「自分たち」のことを考えるとき、今住んでいる私たちのことだけでなく、将来寮に住む可能性のある人のことも考えます。寮が教育の機会均等のための社会の財産として存在しているという自覚の上で、社会に対して自信をもって説明できる運営が必要なのです。
このようなことを常に考え、議論して運営しているのが自治寮です。
自治による運営では、誰かに押し付けられたルールや規範から自由になることができます。熊野寮では寮生が議論し、団結し、行動することで、自分たちを縛るルールや規範から解放され、自信を持って、自由に何かを実現することができます。
やりたいことを提起して、集まって話して、一人ではできないことも、みんなの力で形にしていくことができます。
そしてそれは空間を豊かにして、今度は誰かの創造力を掻き立てます。自治は人と場所を豊かにしていきます。そしてその過程で、自分たちの可能性に触れることができます。
この狂奏祭ができるのも自治寮であるからこそだと思っています。去年来てくれた人ならわかると思いますが、あれほどめちゃくちゃで生の熱を持ったものは、自治によって維持された空間でしか成し得ないと私は思っています。
こんな自治寮はしかし、全国津々浦々で廃寮の流れの中にあります。大学から一方的に入寮募集停止を通告されたり、寮食堂の労働者の人員を一方的に削減されたり、設備の補修要求を無視されたり、訴訟をおこされたり。言いがかりのような家宅捜索がされたり。
大学の決定に唯々諾々と従っていては、熊野寮は既になくなっているでしょう。寮を残すための自治では、大学、警察、常識や社会通念といった権威的なものへの抵抗が必要になります。
なので私は自治を【権力に抗って】自分たちのことは自分たちで決めること、と一歩踏み込んで捉えています。
このイベントは許可を取ってやっているんですか、とよく聞かれますが、そのような許可は必要ありません。この寮を運営する寮生たちが、議論して決めたことです。
寮内の活動においては、権力からの禁止という概念を前提にした許可という概念はありません。
そういう日々の自治の実践のひとつとして、この狂奏祭があります。
・なぜ無料なのか
端的に言うとお金を目的としていないからです。
イベントの目的として、私たちは熊野寮の広報・自治思想の拡大・学生文化の結集と創出の3つを掲げています。この目的を達成するためでも、イベントを運営するとなればある程度お金はかかりますが、そこはカンパなどで集めるつもりですしこのクラファンもその一つです(支援して頂いた方、ありがとうございます)。入場料をとって参加のハードルを多少なりとも上げることは、私たちの掲げる目的から遠ざかってしまいます。私たちは金銭的な事情を問わず出来るだけ多くの人に、(安価に住める学生寮という性質上、お金があまりない学生には特に)寮の存在、魅力、意義を知ってほしいのです。
もう一つ理由があり、私が特にこだわっているのが、来場者をお客様にしないためという理由です。「お客様根性粉砕」というスローガンを私はよく提唱しています。粉砕という言葉は聞き慣れないかもしれませんが、熊野寮ではよく使われていて、厳密には完膚なきまでに叩き潰すという派手な意味を持っていますが、ここでは単に反対するだけでなく、よりよいものを示して解体するくらいの意味です(まだ派手かもしれません)。
寮内でもコンパ(炊き出しをしてみんなで食べ語り、飲み語り、語る会)などのイベントがあり、そこには運営する人たちがいるのですが、同じ寮生として準備片付けなどをみんなでやることが、寮のことを自分事として捉える自治の重要な部分だと思います。
何が言いたいかというと、来場者や出演者が、イベントを楽しむだけにとどまらず、一緒にイベントを作る存在になってほしいということです。
お金を払うと、やはり意識としてお客様になりやすいと思っています。あとは、お金を払う側と受け取る側で明確に分かれてしまい、その垣根を越えにくくなってしまいます。
少し話はそれますが、いま国立大学では学費の値上げが話題になっています。国立大に通う学生として、私も無関心ではいられないのですが、それに関連する話で、学費を払うこと(=お金を支払うこと)によって、学生は大学教育をサービスとして受け取る意識が芽生え、大学の運営に本来参加できるはずなのに、参加する意識を持てなくなっている・奪われているという問題が議論されています。
お金を払うことで生じてしまう意識を認識して、それを入場料を無料にすることで取っ払っているのが狂奏祭です。
寮生だけでは出来ないことがあり、分からないことが多くあります。寮生以外の力や、まだ話したことのない人の存在は、寮を守り発展させんとする私たちにとって大きな可能性を持っています。その可能性を信じるからこそ、まだ見ぬ主体の入り口を広くしておきたいのです。
・最後に
先ほど一緒にイベントを作りたいと書きましたが、正直、私は本イベントを通じて熊野寮や狂奏祭に関わってもらうことに必ずしもこだわっていません。
イベントに来て、私たちの発信する自治の考え方をイベントで知り、自由な空間の魅力や人間の可能性、学生の力を体感してほしい。そしてその先に、関わってくれた人の考えや行動を少しでも変えて、不自由でつまらない、問題ばかりの社会を変えたい。2つくらい前の活動報告のno山future夫さんのいう「ある種の危険な企み」はまさに、前回の狂奏祭が社会を変える可能性を感じさせるものであったことを表しているのだと私は思います。
表明するのも変かもしれませんが、私たちは今年は去年より、もっと危険に企みます。熊野寮のような空間や狂奏祭のような時間が、特別でなくなるような社会を目指して。