先日、ある先生と「主体的に学びに向かう力」の評価の話になった。
授業研究において「評価(どのように評価するか)」が話題になることは多い。そして、今日、学校での評価は公式には「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「主体的に学びに向かう力」で評価される。
確かに「知識・技能」や「理解度」の評価は、子どもが自身の理解度を捉える参考になるだろうとも思う。一方で、「主体的に学びに向かう態度」は評価する必要があるのだろうかと最近思う。ただし、今回書いたものはあくまでも現時点でも暫定的な思いであるので、その点は踏まえて読んでほしい。
そもそも教師から見える生徒の学びへ向かう姿は極めて限定的である。その中から「主体的に学びに向かう態度」が見られた/見られなかったで、A~Cの成績がつけられるのは不当であるように思える。また、仮に生徒の授業内外の様子や自宅学習帳、授業中のノートやワークシートなど可能な限り広範なものを対象に評価することで実態と近づけたとしても(それでも実態からは遠いだろうが)、それを自分がなされるとすると極めて窮屈である。
そもそも評価は何のためになされるのか?それは評価されるものの成長のためであろう。中には評価を通して教師が生徒をよく見るようにするという側面もあるという人もいるかもしれないが、現場の教員であれば上の観点からの評価などその子の実存からは当然離れたものであり、学校教育上の(それも極めて限定的な側面の)評価であることは周知のものだろう。そのため、「主体的に学びに向かう力」の評価などなくても、その子の頑張りや優しさ、利他性などは教師なりに捉えている。となると、評価の目的は評価を通して、子供の行動を強化したり、弱化したりする、または、評価を提示し子供自身に反省を促し、改善を図ることが目的にあるだろう。
しかし、「主体的に学びに向かう態度」は、その評価を提示することが子供の「主体的に学びに向かう態度」の成長発達に効果的なのだろうか。むしろ評価が明確化されることで無意味なアピールを促したり、本来は内発的に取り組んでいたはずのものがいつの間にか外発的動機付けになってしまったりする(アンダーマイニング現象)危険性があるのではないだろうか。
そもそも評価により方向づけられた「主体的に学びに向かう力」は、本当に目指している「主体的に学びに向かう力」なのだろうか。評価されなくなったらやらなくなるものになったりはしないだろうか(もちろん、今のところはそんな様子は見られない。しかし、それは厳密には「主体的に学びに向かう力」を評価していない(できない)ため、ゆるく評価がつけられており、子供もそこまで「主体的に学びに向かう力」の評価を気にしていないためではないだろうか)。
学校教育で扱うものはなんでもかんでも評価すべきというのはあまり適当に感じない。評価されない方が適当であるものを認めることも重要であると感じた。そして、「主体的に学びに向かう力」は評価しない方が適当である項目の一つなのだろうとも感じた。
重要だからと言って評価が必須というわけではなさそうというのが現時点での筆者の考えである。