今日もコナレの記事を紹介します!今回の記事は、3年生国語科の単元『こんな係がクラスにほしい』を取り上げます。児童がクラス全体のために新しい係を考案する中で、良好で生産的な話し合いができるようになることを目指します。この授業では、児童が日常生活を振り返りながら『必要な係』を見つけ出し、友達と意見を交わし合い、アイデアを深めていきます。記事の中では、次のようなポイントが具体的に解説されています:・授業の進め方:話し合い活動が盛り上がるためのステップや、話し合いの方向性を整えるための工夫・教師のサポート例:児童が意見を出しやすくする問いかけや活動の設計・実践例:実際の話し合いの様子や子どもたちが提案した係のアイデア子どもたちの創造性や対話力を引き出し、クラス運営をより魅力的にするためのヒントが満載です。授業の工夫で悩んでいる先生や、新しい話し合い活動を試したい先生にとって必見の内容です。ぜひご覧ください!「【こんな係がクラスにほしい】(1/3校時):クラスをより良くする『新しい係』を話し合いで提案する授業づくり」(https://co-knowledge-corporation.com/posts/OCYVcJc)
もう1日だけ、16日に参加した東大附属の公開研究会での学びを書かせてほしい。昨日、一昨日と見学した授業それぞれで学んだことを書いた。しかし、全体を通して最も驚いたことは「生徒の探究する力の高さ」と「体温の感じる学び」であった。東大附属は東大にエスカレーターで進学する超進学校などではなく、あくまでも通常の普通科の中高一貫校である。しかし、そこの生徒の探究する力は非常に高く、これは学校全体の取組みの結果醸造されたものであるように感じた。私が感じた東大附属の生徒の特徴は「自身の素朴概念、既有知識を用いた自由な探究」、「答えを待たず自身で探究する姿勢」、「適度な緩さを併せ持つ探究」である。(あくまでも私が見学した2つの数学の授業から見えた特徴である)例えば、「△ABCの垂心が垂足三角形においてはどのような点かを検討する問い」や「1分毎にケトルの温度が提示され、45分後の温度を予想する問い」などはその問題の情報量も多く複雑であり、どのように解けばよいのかがわかりきった問いではない。そのため、生徒は自らの持っている知識を拠り所として、自分の頭で一歩一歩探究しなければならない。これは数学でよくある解法を知っていればそれを適用して解くような問題ではない。難しい問題に出会ったとき、考えることをやめ、教師からの「答え」を待つ生徒の姿はよく見るものである。しかし、今回見学した授業では生徒はノートを遡ったり、素朴に自分の頭で何が必要かを考えていた。また、適宜友人と相談したり、自分の考えを言語化することを通して、考えの整理や探究の継続のための気持ちの補給のようなものを行っていた。それにより個人を軸としつつもグループと混ざり、適宜全体とつながるような「緩い」探究が継続されていた。また、その緩い探究が当たり前に承認されている空間であるように感じた。今回の公開研究会で学んだのは、良い「緩さ」を伴う探究の意義である。私はまじめな性分なのでやるからには100%の力で取り組ませたいと思い、本気で取り組んでいない生徒を見つけると毎回残念に思っていた。しかし、常に100%で全教科の問いに向かうことを強いる環境は子供にとっては居心地の悪いものであるだろう。それぞれが持続可能な形で各々の問いに向かうこと、これが自らを軸とした学びを生むように思う。もちろん問いは真に問う価値のある問いである必要はある。しかし、問うべき価値のある問いであれば、探究の在り方は緩くても確かに探究の力(資質?)がつくのだと感じた。私は教員時代に、例題を提示し、それを5~10分程度考えさせ、解説をする授業をよく行っていた。そこでの検討は生徒が「考えきること」「多様なアプローチを試してみること」が欠けていたように思う。5~10分程度で個人でできる検討では「考えきること」や「様々な試行錯誤」をするのは不可能である。また、結局筆者が最も効率的な解答を論の飛躍なく、そのようにアプローチする必然性とともに解説するのだから、自分で考えた方法に価値を感じず、最後に教師により提示される模範解答を最重視するのは当然である。ちなみに、上の授業スタイルでは、限られた時間の中で、ある程度効率的に身に付けるべき知識や解法の習得は達成され、その習熟もある程度はできていた(ように思っている)。しかし、探究の楽しさを味わう助けができていたかというとそうではなかっただろう。知識の確認や教えるべきことは教えた上で、問うべき価値のある問いを提示し、生徒に探究する環境や余裕を持たせ、ゆっくりと探究する学びもまた、見出した事実への驚きや感動をもたらし、ゆっくりながら着実な体感を伴う学びにつながるように感じた。
今日も16日に学ばせていただいた東大附属の公開研究会での学びを共有します。昨日、記述した中学2年の図形の授業も素晴らしかったですが、高校2年の指数関数の授業も非常にチャレンジングな取り組みであり、魅力的な授業でした。そこでは1.「現象の記述・数式化」という数学の応用的側面の面白さ2.複雑な現象に対しても思考を放棄せず、楽しみながら探究する生徒の姿を学ばせていただきました。授業はいきなり黒板に「0分 93.5℃」と書かれるところから始まります。教師が「0分 93.5℃」と板書し、「やることは決まっています。45分後の温度を求めてください」とだけ発言します。それに対して、生徒からは「何分ごとに測っていますか?」など質問が自然と自由に出てきます(これも素晴らしいと感じました。自由に疑問を尋ねてよい空間を感じました)。生徒にはマス目の書かれたプリントと白紙の紙が教師から渡されます。「グラフかくの?」「好きなことやって(温度を求めて)いいんでしょ。」など、各々が自由に考えます。板書はどんどん書き足され、「1分後91.8℃」「2分後89.6℃」「3分後87.7℃」・・とどんどんデータが書き足されていきます。生徒たちは「ここから(温度変化が)ゆるやか」「だって4分から6分で2.9℃(しか下がってない)でしょ」など、必死に得られたデータを基に検討しています。教師が「10分76.9℃」まで書いたところで、「ここらへんでやめようかな」とデータの記録は終わります。生徒は縦軸を温度、横軸を経過時間としたグラフをかいたり、縦軸を1分前との温度差、横軸を経過した時間としてデータをグラフに書き込んでいます。ここである生徒が指名され、前に出てグラフを書き、自分の考えを説明します。その考えの説明の際にも、他の積で座っている生徒から(水温の部分に対して)「室温との差に注目して(だよ)」など、支援する発言が自由に出てきます。それらの発言も取り込み、「水温が下がると、気温との差が小さくなり変化しにくくなる」と自分の考えを言語化し、板書しました。ここからどのように検討を進めるかが曖昧になりそうになると、教師が「どんなコンセプトで、何を調べているのか書いてください」と方向を検討するような指示が出て、1℃ごとの温度の差をグラフに書くなど考えの方針が生成されていきます。このようにある生徒が前に出て自分の考えを述べ、それを他の生徒が適宜指摘により修正したり、変更したりし、必要に応じて教師が方向を修正したり、整理したりと全体で探究が進んでいく授業でした。しかし、実は全体の探究の流れがありつつも、各々でも探究を進めているグループや個人はおり、ここでも「ゆるい共有」が見られ、個人の関心に基づく探究が大事にされているのを感じました。ちなみに授業は、ケトルの温度変化という現象を、数式も含めて言葉で説明することを目指す挑戦的な授業でした。やはり以前の川崎市の研究会の感想でも書きましたが、実験データを基に予想する探究に生徒は熱中しており、現象を捉えること、45分時点での温度の予想をするということに向かって、この良い意味で整理されていない問いを考えるという探究を行っていました。45分後の時点での温度は53.0℃であり、これを教師が発表した際は「おー」という声も上がり、盛り上がりがありました。私が驚いたのは、構造化されていない問いであっても、生徒は当たり前のように自分なりの観点を持ち、それを検討していた点です。これは一朝一夕でできるものではなく、これまでのこの授業者の授業の蓄積、そしてそこで整理されていないデータであっても、自分たちなりに考察する力をつけてきた生徒の姿を見ることができました。今日の学校では、複雑な問題や情報にぶつかると「わからない」と考えるのをやめ、あきらめてしまう生徒も多いのではないかと思います。しかし、ここで見た生徒は問題の複雑さなどお構いなしに、自分なりのどんどんと考えを進めていける生徒でした。ちなみに、やはり実験や現象を捉えることには魅力があります。しかし、あまりに作られ、整理されたデータでは、生徒は探究を出来レースのように感じ面白く感じないでしょう。今回の授業や以前の川崎市の授業のように実際に測定し、データを取り、検討する、そんな取り組みに、生徒が楽しみつつ、探究する姿を見ることができました。このような取り組みは1回の授業だけで行っても、複雑な情報に楽しく向かう生徒の姿は出てこないでしょう。今回の授業は、複雑な問題や現象にものおじすることなく向かっていく本来、生徒皆が持っている可能性をあらためて感じさせる授業でした。
昨日は東京大学教育学部附属中等教育学校で公開研究会があり、参会させていただきました!またまた非常に勉強になりました!私は中学校2年生の数学(図形)の授業と、高校2年生の数学(指数関数)の授業を見学しました。それぞれに大きな学びがありましたので、今日は中学2年生の図形の授業での学びを書きます。筆者が今回学んだのは、1.(良い意味での)「緩い共有」2.自ら答えを出すために探究する文化の学びへの寄与の在り方でした。上の学びを説明するには、授業の特徴を把握している必要がありますので、まずは見学した授業の特徴を記載します。今回見学した授業の特徴は、グループ・個人の混同した学びを軸としつつ、適宜その学びを支援する形で全体での学びが入っている点が挙げられます。まず今回、見学した東大附属の教室の特徴として、中央の空かないコの字型で終始授業が行われていました。【図1】【図1】また授業は、メインの問いが最初に投げかけられ、50分間の探究で様々な性質を見出しつつ、その問いの解決が進んでいきました。具体的には、教師が黒板に大きな三角形ABCを書き、各頂点から垂線を下ろし、それらの垂線の足(垂線と三角形の各辺の交点)をそれぞれ点D, E, Fとし、D,E,Fをすべて結び垂足三角形を作図し、「△ABCの垂心は△DEFにとっては何心?」という発問により個人とグループの混ざった検討が始まる授業でした。【図2】【図2】ここでの学びで、生徒は自分の考えを軸としつつ、グループにて友人の考えを聞いたり、自分の考えを話しつつ整理したりし、探究を進めていました。また、度々探究が停滞するも、その都度教室全体での考えの共有がタイミングよく入り、探究を進める参考知見を得て、また自分の考えをグループでの検討と適宜混ぜつつ進めていました。その結果、自分の考えを軸としつつ、適度に探究を進めること、全体での解決を聞き、驚くことにつながっていました(自身の力で解決できた生徒は、感動していました)。今回の課題はなかなかに難しく、与えられた条件から証明したい性質までに距離があり、腰のすえた探究が求められます。具体的には、「△ABCの垂心が△DEFの内心であることを示す」→「∠EFH=∠DFHを示せばよい(他の頂角についても同様より)」→「(垂心の定義より)∠AEH=∠AFHなので)4点A, E, H, Fを通る円が書ける」→「(円周角の定理より)∠HAE=∠HFE」→「(同様にして)∠HFD=∠HBD」→「(垂心の定義より)4点A,E,D,Bを通る円が書ける」→「(円周角の定理より)∠DAE=∠DBE」→「よって、∠EFH=∠DFH」という流れで証明がなされました。【図3】【図3】「1.(良い意味での)『緩い共有』の学びへの寄与」を感じたのは、グループと個人の混同した学びを軸としつつ、全体場面での「緩い共有」の場面でした。私が教員のころは全体での話をしっかりと聞かせるべく、生徒全員の作業を止めさせ、目線を黒板に集めさせたうえで、生徒を指名し、意見を聞き、張った声でその意見を復唱していました。しかし、東大附属のその先生は、強い方向付けはせず、落ち着いた声で「この点は三角形DEFの何心なの?」「(内心ではないかという生徒の意見に対して)内心だと何を示せればよいの?」と尋ね、「じゃあ、もうちょっと頑張ってみようか」と生徒の探究に戻します。そして、授業は終始ゆったりと落ち着いた雰囲気で進んでいました。ここでは生徒は自分の考えを軸としつつ、グループからの支援、グループでの考えの共有を行いつつ、全体の意見を必要に応じて取り入れていました。そのため、全体の指示での方向づけの力は弱く、あくまでも自分の探究が軸であり続けました。これが自分を軸とした対象の図形の性質の発見やつながりを生んでいました。確かに教師による「正答」の方向付けが弱いため、正しい解答に「効率的な」手順では進まない場面も多いでしょう。今回、私が見ていたグループも自力では「正解」にはたどり着いていませんでした。しかし、自力で解けなかった生徒も、正しい解答の後追いではなく、自分なりの探究が土台にあり、その上でできた生徒の考えを聞いており、それがその性質の証明への感動を生んでいました。教師による段階的なヒントによる方向付けは、確かに問題解決を効率的に進めるでしょう。一方で、その対象(今回であれば対象の図形)そのものへの検討が不十分にさせる危険性もはらんでいると感じました。道を歩くときに足裏部分の地面だけでは不安であり、やはり道全体の地面がある方が安心できるように、問題解決も解答部分だけの知識だけではなく、その探究過程で見出した試行錯誤や性質が必要だと思わされました。(この点は指摘されると同意するのですが、実践ではついつい正しい解答を最短で理解させる方向にすすんでしまうんですよね。でも、それでは数学を味わっていないので、あんまりおもしろくない(効率的に解けるようになったという水準で終わってしまう)と)確かに時間を言い訳にして、ついつい教え込みをしたくなりますが、今回のようなその図形の性質を味わうための授業では、意味のある探究の時間が必要不可欠なのでしょう。やはり砂糖水を飲むための砂糖が水に溶けるのを待つ時間が必要ということなのでしょう。そして、上の学びを支えているのは、「2.自ら答えを出すために探究する文化」でした。今回見学した授業でも、その次の授業でも、生徒は自ら答えを出すことを目指しておりました。授業でよくみられる風景である、授業の半ばまではぼうっと過ごし、授業のまとめの際に効率よく授業内容を習得しようという生徒や、問題探究を放棄し、最終的には教師から提示されるであろう模範解答を待つ生徒は見られませんでした。これは学校全体で答えを待たせる授業ではなく、自ら検討しなければ得られないような授業を目指して実践を行っており、自分なりの探究で自分なりの発見に到達することを目指す文化の影響もあるでしょう。またその文化の上で、教科単位にて、探究に値する問いを提案し、その探究を各々が取り組めるように個人とグループの混同した探究形態をとること、個人の探究を断絶しない「緩い」全体共有などが行われ続けていること、5分、10分での短い問題解決ではなく、大きな考える価値ある問いを、じっくりと問題場面を探究する形で検討する投げかけの影響も大きいのだろうと感じました。答えは教師が出すのではなく、「自分で出す」という授業の継続が、今回の授業で見られた生徒が自らの探究する力を養っていると感じました。この授業では、生徒が自ら問題を探究し、周辺情報も含めた探究を行うことで、その問題の情景を捉え、その性質を知ったときの感動を生じさせ、数学を味わうような探究が見られました。もちろん探究の力がまだこれからの生徒もおりましたが、東大附属のもつ自分とグループの混同した学びの中で、全体共緩やかにつながる空間は、そんな生徒の探究の力の素地を着実に作っていると感じさせるものでした。なんとも良い時間を過ごさせていただきました。
昨日、リターンの応援がありました!誠にありがとうございます!いただきました支援は、日本の学校の先生たちのさらなる授業支援のために使用させていただきます!今日も小学校の理科「太陽とかげ」の単元の続きの授業を紹介します!第1校時目では、かげふみをして遊び、影の法則についての気づきを得ました(影は同じ方向にできる、影の大きさは物の大きさで変わる、地面から離れるとものと影も離れるなど)。第2校時目では、第1校時目の「影のできる向きが同じ」という法則から、影のできる方向についての法則を検討し、太陽と反対側にあるという事実を見出しました。第3校時目では、影の向きが時間によって変わるという事実から、影の向きを決める太陽はどのように動いているのかを、実験により予想しました。4校時目では、3校時目で記録した実験結果をもとに、懐中電灯を太陽として、「かげの向き」「かげの長さ」に注目し、天球上の太陽の動きを検証しました。第5・6校時目は、太陽の光と温度の関係に迫っていきます。第5校時目では、日なたと日かげの違いを共有し、その違いを実際に確認する実験デザインを考案しました。自身の予想が成り立つには、どんな結果になればよいかを考えさせ、次回の授業で行う実験デザインを考えました。第6校時目は実験です。実験の目的を踏まえて、前時に準備した実験を行い、結果を記録します。記録した結果を算数の時間に勉強した棒グラフで表し、その特徴やそこから言えることをまとめます。自分の予想が当たった/外れたと言えるのか、実験結果を解釈する力も育みます。これで小学校の理科「太陽とかげ」の単元全体の指導案の紹介は以上になります。単元を通して子供の学びを支援することで、1コマ単位では達成が難しい体系的な知識や実験の繰り返しによる考えの身体化を目指すことができるでしょう。読んでみて、参考になるものがあれば幸いです!「予想を検証!実験結果を棒グラフで整理し、日なたと日かげの温度差を確認しよう(太陽とかげ:第6時)」(https://co-knowledge-corporation.com/posts/GSkHFSE)