先日、ある授業を見学した。
そこで次の内容の重要さを改めて感じたので、メモしておきたい。
1.発問の重要さ
2.自由に考えを共有・言語化できる空間
なお下の授業は見学した授業内容を含めて大幅に内容を変更して記載している。
その授業では、教師が前時の内容や本時の基本事項を生徒に問いかけながら確認していた。しかし、この確認は生徒の素朴概念を踏まえたものでもなく、ただやり取りの中で説明事項の教師が述べるというものであった。もちろん短時間であれば問題ないのだが、20分ほど続き、その後やっと活動に入った。
♯見学させていただいている中で、このやりとりは生徒の思考を活性化させることには寄与していないと感じた。多少であればやりとりをしながら知識を提示するのは良いが、あまりにも時間がかかりそうなのであればば教えてしまい、その後の探究や活動に時間を割くのが良いだろう。そうすることで生徒の探究のための試行体力を確保し、興味の喚起もしやすいように感じた。
その後、ポリトドンという立体を作る道具を配布し、生徒に立体を作らせる活動が開始された。しかし、ここでも活動の目的が明示されず、ただ作って、写真を撮って、また作ってという活動であった。そのため、生徒らは数学的な性質の検討までは至らず、なかにはその作業の単純さから飽きてしまう生徒も多く見られた。
♯活動の目標を共有できていないこと、真に検討すべき問いを問うていないことが原因であるように思われる。確かに制作活動は面白い。しかし、無目的な作業は必ずしも面白いものではない。例えば、「正三角形だけを使って、好きな立体を作ってみましょう!ただし、各面は1つ分の正三角形で作ってください。そして、そのときの多面体の面の数、辺の数、頂点の数を数え、できるだけ多くの規則性を見つけてください。」などとし、作業を通した数学的な要素の検討を明示する問いかけでもよかっただろう。そうすれば作った立体を深く検討し、規則性を予想したのち、さらに複雑な立体を作り、そこでもその規則性が成り立つかの検討が行われてだろう。
また、これらの活動は基本的に個人ベースで行われていた。一部、後ろや横を向き、自分のつくった立体を見せたり、友達が作った立体について驚いたりする生徒もいたが、基本は個人ベースであった。
♯筆者は以前まで、個人での探究が極めて重要であり、まずは個人検討から始めなければならないと考えていた。しかし、授業を観察すると、自分の考えを持てずに最初から思考が止まってしまう子、自分なりの考えの兆しは見えるものの整理した思考にするには難しい子供などが多いことに気付く。また、グループにすることで話しながら考えたり、自分の考えを説明することで自分で気づく子供もいることに気付く。ヴィゴツキーの外言が内言に先んじるという指摘もそうである。
♯ほかにも子供たちに話を聞くと、友達とのやり取りに楽しさを見出している生徒が思いのほか多いことに気づかされる。友人とのやり取りが学びの中に楽しさを生じさせるようである。となると、自然と話をしやすい4人グループというのも一つであるように思える。ただし、尋ね合う文化や学級規範ができていなかったり、扱う課題が適度な難易度であり、考えたくなるような探究的な課題でなければ、形だけ班を作っているだけで、むしろ教師を意識して「何か話さなければならないのだろうか?」と学びから離れた気遣いをさせることになる場合も多く見てきた点は注意しなければならない。
ちなみに、今回見た授業でも生徒の学びへ向かう姿勢は素晴らしく、学級の柔らかな雰囲気からこの授業者が普段の授業で生徒たちと強い信頼関係で結ばれ、安心して互いを表出できる空間を作り上げていることを感じさせられた。
なお私は研究授業などの際に、1回の授業でその教師のすべてを判断するような考えや、その授業から学んだり、その授業をよくするための視座を出すのではない品評会のような研究会は好きではない。私自身、結局どうしたいのかよくわからない授業や生徒の力を学びに十分につなげられない授業は何度も行ってきた。授業研究で大事なのは、いかに生徒の学びを引き出す授業にできるかということである。
今回見学させていただいた授業では、子供可能性をもっと引き出しうるアプローチがあったというだけであり、一方で、学びの空間としての土台である子供との信頼感や安心した空間というその場しのぎでは作れないごまかしのきかない部分は見事に構築されていた。