家族の死は、私たちの人生観を大きく変えるものです。私は11年前の実母のがん闘病、7年前の妹の突然死、そして昨年の義父の穏やかな旅立ちを通して、家族の最期にどう向き合うべきかを深く考えるようになりました。それぞれの別れが教えてくれたのは、「準備の有無が遺された家族にとってどれほど重要か」ということでした。母が肺がんのステージ4と診断されたとき、私たち家族はできる限りの治療を試みましたが、最終的にホスピスでの生活を選びました。母の地元である滋賀県彦根に引っ越し、私は月の半分を母のそばで過ごしました。ホスピスでは母が大好きだった犬を連れていけたことが、彼女にとっても私たちにとっても救いでした。母は「きっと治る」と信じていましたが、私と妹は最期が近いことを察していました。「苦しまないでほしい」という願いの中、最期まで骨への転移を免れたのは幸いでした。母が旅立ったとき、私は「がんは準備の時間を与えてくれる病なのだ」と感じました。家族と本人がその時間をどう使うかで、別れの形は大きく変わるのだと。妹の死は、まったく違う形で訪れました。42歳で突然亡くなった妹は、目覚ましが鳴っても起きてこず、父が発見しました。司法解剖でも死因は不明で、慢性心不全の可能性があるというだけ。アクティブで元気だった妹の突然の死は、私たち家族に大きな衝撃を与えました。妹が生命保険に入っていたおかげで経済的な負担は軽減されましたが、パソコンのパスワードが分からず、必要なデータにアクセスできないまま処分せざるを得ませんでした。準備の時間がない突然死の困難さを痛感し、私は資産やパスワード情報を紙に書き留めるようになりました。そして昨年、義父が胃がんで亡くなりました。緩和ケア病棟での最期の2週間、点滴をやめ、自然に体の水分が枯れていくように旅立ちました。その選択に家族全員が納得し、孫たちも間に合う形で見送ることができたのは大きな救いでした。義父が旅立つ直前、私は「人間は最期まで耳が聞こえている」と聞き、感謝の言葉を何度も伝えました。「お義父さんのおかげで、私たちは幸せでした」と伝えたその瞬間、彼が穏やかに目を閉じるのを見届けました。この別れは、準備があったからこそ家族にとっても穏やかなものだったと感じました。母のがん闘病、妹の突然死、義父の穏やかな旅立ち。3つの異なる別れが教えてくれたのは、「準備が遺された家族に与える影響の大きさ」でした。母と義父のように準備ができる場合、家族は落ち着いて最期を見届けることができます。しかし、妹の突然死のように準備ができない場合、遺された家族がその負担を大きく背負うことになります。今では、私は自分のパスワードや資産情報を小さなバインダーにまとめています。これを夫と娘に共有し、私がいなくなったときに困らないよう備えています。兄弟を失うことは、自分の一部を失うような感覚です。しかし、その悲しみを乗り越えたからこそ、残された家族への思いやりとして「準備する」ことの大切さを学びました。準備は、残された家族に安心を与える最大の贈り物です。この教訓を胸に、私はこれからも家族との時間を大切にし、未来に向けて備えていきたいと思います。
50代 の付いた活動報告
昨年末、夫を白血病で亡くしました。当時住んでいた広島での9か月にわたる闘病生活の末に訪れた別れは、私と4人の子供たちの生活を一変させました。夫が営んでいた牡蠣養殖業を畳むことを決断し、工場や船、バイクなどの資産を処分する過程で、私は自分の無知さや人間関係の厳しさと向き合わざるを得ませんでした。夫の病が判明したのは、牡蠣の出荷がピークを迎える繁忙期でした。そのとき私は、夫の看病、子供たちの受験対応、事業の維持と処分という複数の課題を一度に抱え込むことになりました。漁師仲間が手伝ってくれる一方で、実際には利益のある部分を持ち去られるという心ない行動も目にしました。その経験を通じて、「事業を終わらせよう」と決意するに至ったのです。夫が亡くなった後、最初に取り組んだのは船と工場の処分でした。しかし、船の売却手続きは予想以上に複雑で、別の県の買い手との交渉では何度もミスがありました。漁連の協力を得ながら何度も相談を重ね、ようやく移動の許可が下りたときには、安堵とともに自分の無力さを痛感しました。また、工場の解体では信頼していた相手に足元を見られ、高額な請求を受けるなど、知識不足が不利に働く悔しさを味わいました。そんな困難の中でも、友人たちの存在が私の心の支えになりました。特に、広島で出会った東京出身の友人が、手続きの煩雑さや精神的な負担を一緒に乗り越えてくれました。その存在があったからこそ、私は事業を無事に畳み、家族とともに東京に引っ越し、新しい環境で新たな一歩を踏み出すことができました。この経験を通じて、「本当に信頼できる人」と「距離を置くべき人」がはっきりと分かるようになりました。また、夫が終活を全く行っていなかったことも、私にとって大きな課題でした。夫は、生前に海での事故や震災を経験しており、「いつ死んでも後悔しない」という漁師特有の死生観を持っていました。そのため、契約や資産整理について何の準備もしていませんでした。その結果、夫の死後は通帳や契約書類を一つずつ調べ上げ、手続きを進める必要がありました。この過程で、「知らないことを放置するのは、残された家族にとって最大の負担になる」ということを痛感しました。現在、私は自分の終活を進めています。銀行口座や保険、クレジットカードの情報を整理し、子供たちが困らないように準備を進めています。また、まだ若い子供たちが一人で手続きを進めるのは難しいと考え、もし私が亡くなった際には信頼できる伴走者を探しておきたいと考えています。夫の死は私に多くの悲しみをもたらしましたが、それ以上に多くの学びも与えてくれました。終活とは、自分のためだけでなく、家族の未来を守るための準備でもある――そう確信しています。この経験から得た「知ることの大切さ」を、これからも多くの人に伝えていきたいと思っています。
私は福祉施設の営業職として、日々シニアマンションの入居希望者と接する中で、身元保証人がいない方や家族との関係が希薄な方の財産整理や終活をサポートする機会が多くあります。特に、昨年出会った72歳のがん末期患者の方との経験は、忘れられないものとなりました。彼女と初めてお会いしたのは昨年の4月。余命宣告を受けた彼女は、唯一の家族である姪とも連絡が取れない状況で、自分の財産や最期の準備について途方に暮れていました。5月に彼女がシニアマンションに入居されてから、私たちは財産整理と遺言書作成の準備を始めました。彼女の財産は億単位にのぼりましたが、「自分が生きた証を社会に形として残したい」という願いをもとに、寄付を含めたプランを提案しました。信頼できる司法書士を紹介し、具体的な計画を一緒に進めた結果、彼女は遺言書に2800万円での救急車寄贈や地元の福祉団体への寄付を記しました。また、長年気にしていた父親の納骨も無事に完了。「肩の荷が下りた」と笑顔で語る彼女の姿が印象的でした。この半年間の支援を通じて、私は終活の重要性を改めて実感しました。終活は本人の安心だけでなく、残された人々の負担を大幅に軽減します。この経験をきっかけに終活プランナーの資格を取得し、入居者向けにセミナーを開催しています。セミナーでは、エンディングノートの書き方や介護保険の選び方、葬儀の希望などを具体的に説明しています。ただし、最初からお金や相続の話をすると警戒されやすいため、脳梗塞や熱中症の予防など、日常生活に関わる話題から始め、関心を引きつけています。また、セミナー後には司法書士や葬儀会社と連携して個別サポートを提供しています。今回の体験を通じて感じたのは、「終活に早すぎるということはない」ということです。もっと早くから準備していれば、彼女も余命宣告後に焦る必要はなかったかもしれません。終活は「人生を安心して歩むための準備」です。これからもその大切さを伝え、多くの方が自分らしい最期を迎えられるよう支援していきたいと思っています。この経験を通じて私自身も、人生の終わりを準備することで、自分らしい最期を迎えるだけでなく、生きる時間をより有意義にすることができると気づかされました。これからもこの学びを活かし、誰もが前向きに終活に取り組める環境をつくっていきたいと思います。