
ご支援頂いた皆様、そしてこれからご支援をご検討頂いてる皆様へ
皆様、こんにちは!
赤ちゃんが赤ちゃんを背負って運動会で走っているのは、当時2歳くらいの私です。
沢山の大人の愛情がこの1枚から伝わっ来たのでトップ画像に掲載しました。
今日はクラファンに挑戦している私、水口本人のことについて記載したいと思います。
私が「なぜ?この取り組みに挑戦しているのか?」を幼少期からの歴史も含めてご理解頂ければと思い、長文ですがお時間が許しましたらご一読お願い致します。
私は1973年12月24日に青森県の津軽地方の鰺ヶ沢町という日本海の海どころに生まれました。
12月24日生まれなので「清人(きよと)」なのだと言われています。
しかし誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントをダブルでもらったことがなく…。(笑)
鰺ヶ沢町というとお相撲が盛んで元力士の舞の海さんが3つ年上の先輩になります。
こんな私は、農家の家で4人兄弟の末っ子として育ちました。
手前が私で、後ろが兄のツーショット
相撲のことを少しだけ触れますと、私の生まれた町は子供のころから強制的に相撲を取らされます。
相撲熱の熱い町でした。
少し強い生徒は夏休みに毎日学校の校庭の中にある相撲場で16:00から強化トレーニングをさせられます。
そして、すり足の稽古をしていると見知らぬサングラスでパンチパーマのおじさんに「腰が高い!!」って、なぜか竹刀で叩かれてみたり…。
この時から「なんで知らないおじさんに叩かれるんだろう?」という疑問ばかり(笑)
ザ・昭和の時代って感じですよね!
でも、不条理な中での忍耐力は、後の私の人生や事業にはとても役に立っています。
(もちろん、現代はこんなこと通用しないということは、ちゃんと理解しております。)
ところで、私の父は大酒飲みで(血は譲れません…)毎日仕事の愚痴や、社会の愚痴をこぼして酔いつぶれている姿を見てきました。
亡き父を思い出すと、その思い出も今は懐かしく…。
この少年時代から何となく青森県じゃあ、何をしてもうまくいかない的な大人の愚痴が嫌いで、自分が大きくなったら愚痴をこぼす大人にならないと誓ったことを覚えています。
少年時代は、アメリカ映画に心酔して映画とスケボーの毎日でした。
高校生くらいの頃かと…いずれにしても小さなころは青森県のような田舎から一日も早く抜け出して、トレンディドラマに出てくるような都会の生活に憧れた何処にでもいる田舎の少年でした。
そして、硬式テニスに明け暮れた高校を卒業し、大学ではアルバイトとテニス、そしてバイクでのツーリング三昧のいわゆる青春を満喫していました!
お気に入りのヤマハTDR
高校・大学時代は本気テニスプレーヤーでした!社会人になったとき、すでにバブルは崩壊しいわゆる氷河期にに突入。
特に夢も希望もなく、なんとなく地元のホテルを経営している会社に入社しました。
青森県の会社だけあって、同期の大学卒業の仲間の中では一番給料も安く、なんだか学生時代のほうが豊かだった?ってぼやきながら、社会人の生活を始めたのを覚えています。
社会人2年目くらいの時のジャイアンツの元木選手とのツーショット
最初はホテルの営業職を経験しながら、沢山の大人に叱られながら少しずつですが成長していきます。
今でも忘れられないのが、22歳に就職して初めての社員旅行がロシアのハバロフスク市でした。(当時青森空港から定期便が就航し、なんと2時間でハバロフスク市に到着したんです!)
当時の地元金融機関がソ連崩壊後の混乱しているロシアに投資し、ハバロフスク市に支店を出していたんです。
ハバロフスク空港到着の時の写真(後ろの飛行機は確かツポレフ154?)
その関係もあり、その後もその銀行がモスクワ支店出店の際などオープンパーティの手伝いなどでモスクワに行ったり、そのあとウクライナ、ハンガリー、オーストリアなど旅をしたり、運よく沢山の国際経験を若い時代に経験させてもらいました。
特にウクライナは本当に美しい町で、料理も人も素晴らしかった記憶があるだけに、今の戦争は心から憂いています。
この他、中国各地(北京、上海、武漢、杭州、深圳、鄭州、大連などなど)などにも行かせていただく機会もありました。
そして、インバウンド誘致のために韓国、台湾、香港、タイ、アメリカなどにも何度も行けました。
今、振り返ってみると、私が今世界に挑戦したいと思っている思考は、これらの経験がとても大きいのかもしれません。
前職のオーナーには感謝しかありません。
当時勤務していた地元ホテルでしたが、徐々に規模拡張していきます。
青森県内中心にブライダルホールの運営、旅館・ホテルの運営、北海道函館にも進出しました。
私は新規出店する店舗の支配人などを経験し、30歳には函館市の大型旅館の総支配人という大役を任され、実力も経験もない中でもがきながら徐々に売上を伸ばし、一つ一つの運営施設を黒字化させていきました。
最終的には10施設まで事業規模は伸び、300名のスタッフを抱え、約40億円の売上まで成長し、私は34歳の時に専務取締役に就任しました。
そして専務取締役になってからは東日本大震災を経験し、会社の危機にも遭遇しました。
当時、会社のオーナーは海外に出かけていて、そして社長も出張に出かけており、震災に見舞われた日から約3日間、ほぼ睡眠もせず緊急対策を行った思い出もあります。
今振り返っても、30代でこのような経験が出来ることはなかなかないと今でも感謝しています。
そして40歳(本厄)の年に会社を退職しました。
自分の未来を信じて、家族を守るために新たな道を決断したのです。
さて退職して半年くらいが経ち、ご縁があり私は青森県平川市の温浴施設「福家」を経営することになりました。
津軽おのえ温泉 福家(外観)
3年くらい運営していた温浴施設だったのですが、新たな経営者に運営を委託したいという前オーナーの意向で、私が手を挙げて賃貸で運営を開始したのです。
もちろん運営受託は簡単ではありませんでした…。
前職を退職後、100ページに及ぶ事業計画を10回以上は説明して、最後に信頼を勝ち取ったという感じです。
もちろん独立した私は前職の看板もなく、クレジット(信頼)はゼロから始まったわけですので、正直当時を思い出せないくらい毎日朝から晩まで働きました。
前職で300名の会社の専務だったプライドは捨て去り、一からの出発でした。
週末になると厨房に入りレストランメニューを提供したり、日々現場仕事の連続でした。
数年間は休みもなく、それでも家族の支えのおかげもあり、がむしゃらに働きました。
(今も同じような毎日ですが、好きな仕事なので何も苦ではありません!)
初めて借入して取得したマイクロバス
毎日送迎バスに自分で乗り込み、青森県内の日帰り旅行の送迎をしてファンを獲得し、徐々に口コミで評判が上昇し、当時宴会場の稼働はゼロに等しかった事業が4~5年で宴会場の売上だけで5000万円を獲得するまで成長していました。
その当時、マイクロバスは3台所有し、バス送迎するスタッフも5名と創業から急成長して5年目には当時1億円だった温浴施設は2億円まで成長し安定してきました。
運営3年目には2期分の決算書を携えて金融機関から融資を受けて物件を取得したのです。
このように一見順調に見えるかもしれませんが、長期的目線ではそう感じていませんでした。
私には創業時からぶれない危機意識が一つだけありました。
それは、今は成長し続けているかもしれない事業でも、長期的には少子高齢化でマーケットは急下降する未来が来るということでした。
青森県内の内需に頼った事業構造だと未来は弱いし、一緒に仕事するスタッフの持続可能な給与所得の向上は難しくなる未来が来ると自覚していたのです。
そこで、今成長している間に次の未来を創ろうと2017年に1歩を踏み出します。
やはり、今あるリソース(温泉施設やスタッフ、地域の環境、特産品など)を生かして、外貨を稼ぐ商品開発をしなくてはいけないと考え始めます。
私は20年間サービス業しか知らなかったので、急に製造業や流通のことを学ばなくてはいけないので、一からの道のりです。
まずは青森県が主催する商品開発の勉強会に参加し、沢山の学びを得ます。
商品開発で大切な3つのポイントを学びます。
① ユニークでなくてはいけない。(差異があること)
② 私のための商品だ!って少数でも熱狂的なファンがいること(共感を得ること)
③ 「誰に何をしてあげたいか?」の気持ちを大切に(贈り物を選ぶ時のような商品開発)
これらを四六時中考えながら生活する日々が始まります。
商品開発は「永久の迷宮」と私たちは言っています。
そして初めて完成した作品は甘未の「ようかん」でした。
・・・?・・・???
と思いますよね。
実は、ようかんって保守的で、もっと未来感のある組み立てをしたらヒットする場面はあるのでは?と開発に挑戦しました。
完成したのは「ドルチェようかんYキューブ」。
3種類のフレーバーで3センチ角にカットされているのでお茶の席にすぐ出せます
ユニークな点として「種類と味のバリエーションではみ出す」でした。
なんと「こしあん&ミックスナッツ味」、「青森ドライりんご&ローズヒップ味」、「クリームチーズ&レモンピール味」です。
もう、ようかんと呼ばなくても「ドルチェ」と呼んでもいいくらいの味です。
しかもこの3種類の中に美容健康素材プロテオグリカンという成分を配合し、お肌にぷるぷるを予感させるようかんを開発したのです。
この成分を配合することで、カロリーの高い罪悪感のある商品をポジティブに変換しました。
共感を得るという部分では「青森発!会話の弾むおもたせ!」です。
ママ友会やお姑さんへのおもたせの際に、このようかんを食べながら自然に会話が弾む仕掛けにして、食べる人の思いに寄せて開発したのです。
今までのようかんは甘だるく、最後まで食べきれないなどの課題を克服した商品として徐々に人気が出ていきます。
2019年、日本最大級の美容・健康の展示会においてジャパン・メイド・ビューティアワードのインナービューティ部門でなんと優秀賞を受賞してしまったのです!

このおかげで首都圏でも流通が伸び始め、ようかん商品だけで単月で100万円を突破し始めて未来を確信したのです。
※このドルチェようかんYキューブは2025年1月15日からリターン品に追加します!
しかし、この時課題も浮き彫りになりました。
当時、全国流通を目指してFSSC22000(世界の衛生基準をクリア)を獲得している製造工場に委託していたので、どうしても仕入価格が高くなり、流通マージンを考えると販売価格に転嫁せざる得なく価格競争力で劣勢になることなど理解できました。
また、商品開発スピードも委託製造だと、どうしても遅くなることも学びました。
振り返ってみれば今、私がりんご酒事業でメーカーを目指そうと決意出来た背景は、このような経験が大きく影響しているのです。
いずれにしても順調に推移していたようかん事業ですが、2020年3月に新型コロナが世界中を飲み込み、この事業も温泉事業もすべて危機を迎えます…。
正直な気持ち、東日本大震災を乗り越え、独立して創業の険しさも乗り越え、まだ試練が来るのかと諦めたい気持ちも山々でした。
しかし、このピンチの状況下でチャンスも訪れます。
国が出した「事業再構築補助金」制度でした。
まさに、事業再構築にはこの補助金制度を使い未来をつかみ取ろうと研究の日々が始まりました!
そして、まさにたどり着いたのが「りんご酒事業」CRAZY CIDERの誕生です。

幸いに第1回目の公募で採択を受けて、事業はスタートします。
事業予算は総額1億円。
コロナ禍で借入が膨らんだにも関わらず、新規設備投資でまた借り入れが増えるのですから背水の陣での挑戦でした。
幸い国の補助2/3と青森県からも追加補助があったおかげで、実質負担はかなり抑えられたことは、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
公のお金が投入されていることもあり、その意味でも地域に雇用や未来につながる希望をこの事業で作る決意が強まったのだと自覚しています。
しかし、自己資金が目減りしているときに行う事業で、正直なところつい最近まで本当に厳しい資金繰りの中事業を拡大させてきました。
また、今でこそ金融機関様の支援の下、ファンドの形成や協調融資などで支えて頂いていますが、この事業をスタートさせたときには「本当に大丈夫なの?」といった懐疑的な目で見られることも度々あり、悔しさをバネに成長を目指しました。
いずれにしても私が取り組むりんご酒事業で目指すポイントは以下の通りです。
1. 日本のりんご生産量の60%が青森県産りんごを生かせる
→日本に誇る青森県産りんご&世界遺産白神山地の天然水など青森の魅力がいっぱい
2.少子高齢化で耕作放棄園が深刻だが、解決のヒントがある
→生食用だけではなく、加工用専門りんご栽培(りんご酒用)に割り切れば機械化させ小人力で栽培が可能で、耕作放棄園を我々の事業でカバーできる
3. 青森県から離れた若者を戻るきっかけの事業になりうる
→青森県一カッコいい産業に育て、東京と変わらない所得を得られて青森に帰りたい若者の受け皿になれる
4.インバウンド需要の受け皿になれるかもしれない
→ハードサイダー(醸造所)、アップルブランデー(蒸留所)巡りをする外国人観光客をもてなして街を元気にできる。私たちがフランスのワイナリー巡りの旅を夢見るように!
5.地元の子供たちに夢と希望を与える大人になりたい
→青森県から世界のコンペティションにチャレンジして、青森県からでも世界を見れるんだという夢と希望を子供達に与える
こうして私の幼少期からの青森県のネガティブなイメージをどのように払拭させるかの挑戦が今日まで来て、私の行動に繋がっています。
今、間もなくこの事業は4年目になります。
確実に、そして加速をしてこの事業は成長しています。
今年は3年目にしてりんご酒事業が売上6000万円まで来ました。
来年はいよいよ1億円に挑戦します。
まだ、私が目指している未来には1%も到達していません。
私は10億円、そして100億円規模の産業にできる自身があります。
そのためには私だけでなく、地域の仲間や若者が本気を出してチャレンジしなくてはいけません。
私はそんな追いかけて来る仲間たちに、私たちが苦労して学んだノウハウをオープンソースで提供します!
そしてスピードを持って、みんなで青森県の未来を創ろうと決意しています。
最後に。

当時から大人たちの口癖は「青森県から何をしてもうまくいかない…。」
「早く東京に行って稼ぎに行ったほうがいい…。」
「我慢していたらそのうちに…。」
こんなネガティブな話ばかりでした。
しかも悪いことに青森県津軽ではこんな口癖もあります。
「津軽の足引っ張り」…。
出る杭は打たれる的な内容です。
何かに挑戦している人や、新たな価値を見出そうとしている人を妬み、足を引っ張ることを意味しています。
子供のころから、諦めた大人たちを沢山見てきたので、どうしても何処かでこの流れを変える大人がいなくてはいけないと私は決意しました。
私はコロナ禍で、本当に資金繰りも厳しく、何度も何度も返済をストップしようと思いましたが、一切の返済を滞らせず生き延びました。
何度か地獄の底にタッチしそうな日もありましたが、それでも考え抜いて、仲間の力も借りて歯を食いしばり生き続けました。
なぜなら…。
こうしてりんご酒事業という未来を沢山の仲間と挑戦する日が来ると信じていたからです!
いよいよアフターコロナの新しい未来に、地域の課題解決とともに世界を見据えて動き出す日が来ました。
どうぞ、私の残りのビジネス人生を全速力で駆け抜けてまいりますので、クラファンを通じて皆様のお力添えを何卒よろしくお願いいたします。
これは私の未来ではなく、皆様と一緒に作る未来なのだと信じています!
長文ご拝読感謝申し上げます。
タグボート株式会社
代表取締役 水口清人






