夜分の更新、失礼します。この度は、アニメDAO「あにめだお!」のショートアニメ制作プロジェクトを応援くださり、本当にありがとうございました。おかげさまで、目標を上回る結果で走り抜けることができました。8月からは、アニメ制作の進行なども本格化して参る予定です。 ・制作進行状況などは「リリカの日記(限定公開の活動報告)」で随時ご共有させて頂く予定です ・その他の普段の活動状況や、雑記などは引き続き公開の活動報告でご共有させて頂く予定です。ぜひ「お気に入り登録」はそのままに。 ・「はじめてのNFT」が含まれるコースをご支援くださった方には、個別に説明会日程調整のご連絡をさせて頂く予定です ・NFTご支援者様へは、DAOへの参加方針について改めてご連絡をさせて頂きます(8月〜9月頃にDAOを開設予定です) ・リターン時期の早い「web3の教科書コース」をご支援くださった方には、8月中にご連絡、ご発送をさせて頂く予定です また、アニメ制作は、どうしてもその内容や方針によっても、スケジュールが左右されてきます。やむを得ず完成時期がずれる(=リターン時期がずれる)場合なども、随時ご報告させて頂く所存ですなにとぞ引き続き、暖かく応援頂けますと幸甚にございます。改めまして、この度は本当にありがとうございました。そして、ここからがスタートとなります。これからも、よろしくお願い致します。一緒に歴史を作りましょう。追記:応援下さったユーザー様どうしのコミュニケーションや、コミュニティのイベントなどは、こちらのアニメDAOのdiscordチャンネルが盛り上がっております。どなた様もご参加いただけますので、どうぞご遠慮なくご参加ください。読み専の方も大歓迎です。アニメDAO discordコミュニティ: https://discord.gg/metame-animedao
みなさまのおかげで、無事に100万円の目標を達成できた「アニメDAO ショートアニメ企画」ですが、いよいよ本日が最終日となりました!「NFT」「DAO」というweb3の世界に関わる、ちょっと難解な次世代アニメ制作方式のプロジェクトのクラファンが成功した事は、アニメ史的にも意味がある事ではないかと思っています。ご支援いただいたみなさま、お気に入り登録して拡散してくださったみなさま、各IPプロジェクトのみなさまと、今、まさに、一緒に歴史を作っている実感があります。とりあえず残りあと13時間、まだまだ気を抜かずにやっていきます!※なお、クラウドファンディング終了後も、MetaMe NFTマーケットプレイスでは引き続き「アニメDAO支援NFT」を購入可能です
--------明日7月30日(水)19時から、緊急AMAやります!あの高額コースを支援してくださった「あの方」をゲストにお招きする予定です。クラファン終了まで残り3日! あと28万円くらい! なんとか達成したい!!!AMA配信はこちらのMetaMe公式Xで視聴できます:https://x.com/MetaMe_OfficialアニメDAOのdiscordコミュニティもどうぞお入りください:https://discord.gg/metame-animedao--------大学に入ってからも、しばらくは小説を書いていましたが、この頃は文章よりも「3DCG」や「映像制作」に夢中になっていました。実は、この頃に書いた小説作品がエグい批判を受けたことがあったのと、映画研究サークルに入っていたことより、映像の方に興味が移っていました。ちなみに、大学に入る前にぼくは1年間、浪人生活を送っておりました(代々木ゼミナールの変態講師陣と共に)。その1年間は「カートゥーンネットワーク」に異常に傾倒しておりまして勉強そっちのけで、ずっと観てましたね。パワーパフガールズ、エドエッドエディ、臆病なカーレッジくん、ジョニーブラボー、などなど。一番好きだったのはデクスターズラボですね。(そしてハンナバーベラばっかり観てた。。。)3DCG自体は、実は高校生の頃からやっていて、当時は「Shade」という国産のソフトが全盛期でした。ポリゴンではなくベジェ曲線で3Dモデリングを行うソフトで、今にして思えば「線画が得意な日本人が作り出したソフト」だったと思いますね。文化祭のポスターを作る時なんかにも使いましたが「透過」「屈折」を多用した上でレイトレーシングで計算させると、当時のAMD K-6 133MHzのCPUで320×240pixのレンダリングに8時間くらいかかってたと思います。いつの時代も、CGはレンダリング時間との勝負ですね。さらに余談ですが、当時はプロユースのCGソフトはsoftimage(読み方は「ソフトイメージ」派と「ソフトイマージュ」派がいた。その後「XSI」という名前になって、なぜかダイキン工業が販売代理店やってた)、3DstudioMAX、LightWAVE、MAYAが4大ソフトと言われていた記憶です。Blenderは当時から無料で存在していましたね。ぼくは、学生版がべらぼうに安くレンダリング速度が異常に早かった「Cinema4D」を愛していました(今も愛しています)。True spaceとか六角大王とかメタセコイヤとかDOGAとかアニメーションマスターとかレイドリームとか色々なソフトが乱立していた時代ですね。Houdiniは当時からありましたが「パーティクルに特化した3DCGソフト」の印象でした。この3DCGへの思い入れも、色々ありまして、トイ・ストーリーとかファイナルファンタジーの映画とか色々語りたいところですが、長くなるのでやめておきます。あと、映画研究サークルでは8mmフィルムでもよく撮影していました。当時はまだ、ビックカメラで8mmフィルムを売っていましたし、現像もしてくれました(16mmはハワイに送らないと現像してくれるところがなかった)。カメラフィルムと同じようにISO感度別で2種類のフィルムがあった記憶です。1リールで3分撮影できて、1本2,000円とかだったかな。。。デジタルHi-8とかDVテープが全盛期だった(DVテープとか普通にコンビニで売ってた)ので、割高ではありましたね。8mmは楽しいです。撮影している時、プレビューなんか当然ありませんので、現像するまで欲しい絵になっているか分かりません。スタッフが映り込んでしまったり、照明が足らなくて真っ黒の映像にしかなっていなかったり。編集も、拡大機を使ってフィルムを1コマずつ確認しながら、専用のカッターで切り取って、これまた専用のテープでくっつけます。「フィルム自体をデザインカッターで1コマずつ削ってアニメを作る」なんてこともやりました。物理媒体なので、なんでもありです。フィルムに虫とか花とか貼り付けまくっていたスタン・ブラッケージは神でしたね。また、上映会上に映写機を常に持っていけないので、部室の壁に投射した映像をデジタルビデオで撮影してデジタル媒体化する「テレシネ」もよくやりました。ぼくは、映像については、地方の小さな賞を受賞したくらいしか目立った実績はないのですが、在学中に「愛知万博」に、会場で放映する映像を2本ほど提供したりしましたね。まだ画面が4:3比率の時代でしたが、After Effectsでエフェクトばりばりにかけた映像を作りました。愛知万博では、なぜかレンジャーショーにも悪役で参加してました。。。「アート戦隊! コップレンジャー!」あ、あと、5分くらいのフルCGアニメも1人で作った事がありますが、あまりにも大変だったのでフルCGはそれっきりです。CG合成バリバリで実写の原付がミサイルとかで市バス破壊しながら進んでいく映画とか、CGの戦車が大学講堂を爆破する映画とかは、その後も作ってましたがw(当時は爆破の煙のレンダリングとか、個人のPCでは恐ろしい時間がかかりました。。。Pentiumの2.0GHzシングルスレッド。。。メモリは512MB RIMM。。。)そんなこんなで、ここまでで、ぼくのクリエイティブ人生に「文章」「映像(実写、3DCGアニメ)」が刻まれてきたわけですが、これが結実したのが大学の卒業論文です。つまり、ぼくが「小説」というメディアから「映像」とりわけ「アニメ」に向かったのは、大学時代の自主制作映画制作と、卒論テーマが深く関与しています。ぼくの卒論テーマは「形式(メディア)は、表現にどのような影響を与えるのか」。シンプルにいうと、頭の中に思い浮かんだ物語を、他人が楽しめるようにするためには「映画」とか「ボイスドラマ」とか「小説」とか様々な容物にどうしても入れなければいけないわけですが、じゃあこの「容物」は、もとの「物語」の姿をどのように変えてしまうのか、という研究です。当時、題材にしたのは「電車男」と「時をかける少女」でしたね。どちらも様々なメディアで展開されていました。つまり「映画版」「ボイスドラマ版」「漫画版」「小説版」などあったわけですね。これを「デクパージュ」と言われる手法で、プロット分解していきます。分解していくと物語差分などが明確化するのですが、その中で「その形式でなければできない表現」などをピックアップすることで、研究を進めていきました。マクルーハンの「ホットメディア」「クールメディア」なんかが、この後ヒントになっていくんですが、まあ研究の詳しい話は置いておいて、その結論として「アニメ」というメディアが、ぼくの中では物語を表現するにあたって最適解だという結論に至った訳です。(非常に分厚い論文になり「印刷した論文が立つ」と評されました。デザイン系の研究室にいたので、wordとかではなく、In designで論文を書くという)多分、次が「アニメDAOへの道」最後になるかな?(次回にへべく)←昔「すごいへべれけ」という4コマ漫画がゲーム誌に連載されていまして、「つづく」じゃなくて「へべく」だったんすよねw
6月19日の開始配信から続いてきたこのクラウドファンディングも、残りあと5日となりました!多くのお気に入り登録を頂戴し、多くの方に知っていただいたこの企画、私共の力が及ばずご期待に添えられる状態にはなっておらず、本当に申し訳ございません。。。ですが、お気に入り登録してくださった400名以上の方のうち、半分の方が「エンドクレジット」に名前を乗せれば、まだまだ達成可能です!ぜひ、助けていただけると助かりますm(> <)m残りの期間、まだまだ頑張りますので、よろしくお願いします!
【残り6日!】いよいよ、カウントダウンが始まりました。不甲斐ないアニメDAOに、暖かい挑戦状も頂戴しましたので、ぜひみなさんご確認くださいhttps://x.com/ID_JAPAN_AO/status/1948717451442843979※本当にありがとうございます(涙)今回は、呪いの話です。「祝ってやる」の方ではなく、「まじない」でもなく「のろい」です。で、本題に入る前からめっちゃ余談です。本格的に文章を書き始めた同時期、ぼくはゲーム制作にもハマっておりました。「描いて作って遊べるデザエモン」という「シューティングゲームを作れるソフト」がありまして。作った自作シューティングゲームをVHSに録画してコンテスト応募したりしていました。こちらもからっきしでしたが、今だに「シューティングゲームなのに、序盤に小説パートがあったり、ステージが擬似3Dになっていたり」という工夫は、我ながらよくなったな、と思っています(小学6年生の頃です)。この「いかにルールからはみ出すか」という癖はその後もずっと抜けず、サウンドノベルツクールでRPG作ったり、RPGツクールでサウンドノベル作ったりしてました。一応、ぼくは殿堂入り楽曲を持つボカロPですので、音楽の話もどこかでする予定ですが、ぼくがDTMをやるきっかけとなったのは、小学校低学年の時の「マリオペイント」と、この「デザエモン」です。「デザエモン」のDTM機能は今見てもよくできていて、サンプルで入っていた楽曲も本当に素晴らしい物でした。ああ、このままゲーム音楽の話をし始めると、それだけで原稿用紙100枚くらいいっちゃいそうなので、やめておきます。また、余談ついでですが、ぼくの「文章を書きたい」熱量の素養になっていたものが小学校5年生〜中学くらいでもう一つありまして、それがラジオドラマでした。「ツインビーパラダイス」から始まって、NHKの「青春アドベンチャー」「FMシアター」はめちゃくちゃ聴いていました。実家には、当時の録音テープが200本以上眠っています(そろそろ物理媒体の限界で聴けなくなっちゃいそうですが)片岡玲子さんが出演されていた「新夢十夜」とか「嘘の城」とかいう耽美的なシリーズがものすごく好きで、初めて自分の小説作品が公に掲載されたのは「毎日中学生新聞」だったかと思うのですが、これらの影響を色濃く受けていた記憶があります。あ、あと宮沢賢治にめちゃくちゃハマっていたので、その影響もあったかも。(宮沢賢治好きはずっとその後も続いていて、大人になってDTMやボカロはじめてから、アルバム1枚まるまる宮沢賢治のテーマで楽曲作ったことがあります)あと、この時最もハマっていたアニメが若き日の庵野監督の「王立宇宙軍」で、VHSの録画でしたが、全てのセリフを暗記するくらい繰り返しみてました。小説に話を戻します。中学生時代はよく考えたらあまり小説を書かなかった気がします(多分、部活とゲームに忙しかった)。創作熱が一気に開花したのは、高校になってからでした。そして、ぼくの人生をその後ずっと呪い続ける(今も呪われている)経験も、この頃の事です。当時、ぼくは「卓球部」「文藝部」「クイズ研究会(は、ほぼ名義貸し)」「演劇部(も結局出演しなかった)」を掛け持ちしておりまして、まあ「文藝部」にもっとも注力した訳です。「文藝部」って、どんなイメージですか?「ぼくヤバ」ですか? 「ドキドキ文藝部」ですか?アニメや漫画、ラノベやASMRで描かれている「文藝部」の姿ですが「あながち間違っていない」ということだけ、伝えておきましょう。。。ぼくの人生を呪い続ける経験は、高校1年生の時にやってきました。文藝部所属ですので、やることと言えば「同人誌を作ること」です。同人誌を作るためには、作品を書く必要があります。というわけで、作品を書きました。当時のぼくは、大江健三郎やヘルマンヘッセに傾倒しておりましたので、耽美的な文藝作品こそ至高でした。いつ句点が置かれるのかわからないくらい長い一文(400文字以上を一文で書いたりしてましたね)。広辞苑の重箱の隅をつつかなきゃ出てこないような難しい漢字(地域振興券で広辞苑買いました)。そして、そこはかとなく描かれるエログロ(エロを臆面なく描けることに妙な価値を感じていました)。そんなある日、中編小説をしたためました。タイトルは「永遠の鎖」。読み方は「ときのくさり」です。とある村を舞台にした、少年と少女の試練の物語でした。陳腐なものだったかもしれません。原稿用紙100枚くらいの内容です。せっかく書いたので、まあ何か投稿してみよう、ということになる訳です。でも、前回の400枚ほどの熱量はありませんでした。なので、A4用紙にびっちり文字を敷き詰めて、両面印刷。それを三つ折りにして、普通の郵便封筒に入れました。やったことある方はわかると思いますが、A4用紙って郵便封筒より長いんです。だから、はみだしてしまうので、余白をハサミでチョキチョキと雑に切って、無理やり押し込んで投稿したのを覚えています。どこに投稿したかって?それは「文學界新人賞」でした。文学に明るい方は、この新人賞を受賞した作品の多くが、そのまま芥川賞を受賞することをご存知かもしれません。つまり、文壇への登竜門となっている賞なのです。応募作品が大体1,500作品くらい。若干16歳のぼくのこの時の結果がどうだったか、というと。。。「2次選考突破」でした。中間発表で、文學界(今も書店に並んでますよ)の誌面に、約50名の名前が掲載されます。で、2次選考を突破すると、名前の上に「◯」が表示されます。つまり、ぼくの名前の上には、あったんです。「◯」が。1,500名中の、15名に残った訳です。心は逸りましたよね。だって、16歳ですよ?当時、最年少の芥川賞受賞者は、平野啓一郎で、23歳でした。「日蝕」ですね。面白い本でした。その後、綿矢りさなんかが19歳で受賞する訳ですが、当時のぼくは、それよりも若かった訳です。まあ、ぼくが今ここでこうしている、ということは、当然受賞できなかった訳なんですが。。。その時、同じ誌面に名前が載っていたのが、後に芥川賞を受賞する「モブノリオ」さんでした。ニアミスでしたね(笑)ちなみに、当時書いた「永遠の鎖」という作品は、ワープロ時代だったためフロッピーしか記録媒体がなく、すでにぼく自身も読むことができない(当時の同人誌を持っている人しか読めない)んですが、大人になって現代版長編に書き直した物はあります;^^その後も、実は文学系の大賞では、何度か雑誌に名前が載ったことがあります。文學界新人賞は20歳の時に書いた作品でも名前がのりましたし、群像とかでも載ったような気がします。でも、結局はだめだった訳です。(もっと言うと、ラノベ大賞とかもちょくちょく選考が通っていくんですが、まあ、だめだった訳ですよ)とはいえ、文藝部で出していた同人誌に掲載していた作品は比較的好評で、わざわざ「感動して泣いちゃった」と報告しにきてくれた同級生が何人かいました。自分の作品で他人の感情(=体液)を揺さぶれる喜びは、この時覚えたのだと思います。この「自分には、他人に体液を浸潤させる筆力がある」「受賞はできないまでも、芥川賞が手の届く範囲にあった」経験は、その後のぼくの人生を呪いました。「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」ここにこうしているということは、やはりセンスがなかった、努力が足りなかった、ということなのかもしれません。思う訳です。「このままの人生のスピード感では、死ぬまでに世に出ることができない(=多くの人の体液をほとばしらせることができない)」と。さて、次回は、ぼくが筆を折ってからのお話をさせて頂ければと思います。もう少しでアニメDAOに辿り着くと思います。(次回にへべく)





