活動報告ではないのだけれど、今日は我が家の小さな習慣についてご紹介したい。鶴岡八幡神社の参道を通る道すがら、あの77段の階段の下に差し掛かると僕は運転中の車中から二度柏手を打って会釈をする。(良い子の皆さんはマネをしないでください)わが子を小学校や保育園に送迎する際も行っていたので、子供たちも小さな手を打って真似をする。今ではすっかり我が家の習慣となっている。 幼い頃から鶴岡八幡神社は我が家の由来もあって、心情的に身近な存在だった。神社に行くたび、あれがしたい、これが欲しいといった小さな願いから、自分の将来に関わる大きな願いまで何かしらのことを拝殿の前で願った。正直、それらの願いが叶ったことはほとんどない。でも心の整理は確実につく。 モノの本によると「昔は神祭りという行為により、人から感謝の心を奉納ほうのうされることで神の力は補われていた。そして人は、その神から恩恵を受けていた。神と人とは、お互いがお互いを生かしめる、そんな存在であったのだ」とある。人間が神に対して自分の願いを叶えてもらおうとする現代の考え方とは正反対ともいえるものだ。 流鏑馬神事の意味も感謝の心を神に奉納することにつきる。 いつからか僕は神社に参拝する際には「いつもありがとうございます」と念じるようになった。そのことに意味があるのかどうかはよく分からないが、そうしてみると、ただ願いを言っていた時より、不思議と誇らしいような清々しいような気持ちになれる。 けれど、世の中では戦争や食糧危機など不穏当な話ばかりを耳にする。そして遠く離れた地で起こっているそれらのことに関して、一介の凡人である僕にできることなどあるはずもなく、ただただニュースを眺めては自分の無力さを痛感させられている。そんな日々が続くとどうしても神に願わずにはいられなくなる時がある。この世界に平和な未来を、全ての人に幸せを。 長く歴史ある行事の復活を期して、ともに頑張っている保存会の面々は、本当に純粋な気持ちで日々準備にあたっている。あらためてこの地域の未来を、可能性を感じながら心美しき同志たちとともに歩めることに感謝である。 幼い我が子たちが合わせた小さな手を見つめながら、ふと祖父が幼い僕を抱くお宮参りの写真を想い出した。祖父や父、あるいはもっともっと先人たちが大切に受け継いできたものを僕たちも子や孫に伝えて行かなければならない。参道脇の水田を渡る緑の風を、社の森の深い青さを、夕陽に染まった香春岳の鮮やかさを、この小さな手に握らせてあげたい。このプロジェクトもあと20日。皆さま、よろしくお願いいたします。





