
今回も前回に引き続き、大井駿さんによる寄稿記事です。
ヴィヴァルディの知られざる素顔にぐっと近づく一編になっています!
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アントニオ・ヴィヴァルディは、バロック時代の中でも、かなり名の知れた作曲家でしょう。さらにヴィヴァルディのことをご存知の方であれば、司祭として慈善院で奉職していたというイメージが強いかと思います。ここから考えられるのは、ヴィヴァルディってきっと真面目な人だったんじゃないかな…ということです。もちろん真面目だったとは思いますが、おそらく全てにおいてではなかったでしょう。今回は、ヴィヴァルディの面白いエピソードとともに、彼の人間像を少しご紹介いたします。
ヴィヴァルディはサボり上手だった?
ピエタ慈善院に勤めていたヴィヴァルディは、年間90回のミサをあげることを条件に、年80ドゥカート(現在の約600万円相当)を受け取っていました。しかし、在職初期には規定の半分程度しか参加せず、手当を半額に減らされました。その後も、持病と言われている喘息が悪化し、ミサをあげられなくなることや、ミサを途中退席することがあったされるヴィヴァルディ。実は近年、彼が本当に喘息持ちだったのかに疑問符がついています。というのも、生前はかなり活発的に活動しており、作曲だけでなく興行や交渉、演奏まで自分でオーガナイズすることがほとんどでした。彼の活動歴を見るとあまりにアクティヴなため、喘息を患っていたらこんな活動できないよね…という認識になっています。
ヴィヴァルディ、怠慢で出禁になる
なんと1737年11月16日、フェラーラ大司教区への一定期間立ち入りと、彼のオペラの上演を禁止しました。理由としては「司祭なのにミサをあげない怠慢」「女性歌手との親密さ」が挙げられています。先にも述べたように、実際にミサをあげないことはありましたが、その回数があまりにも多かったことに加え、ヴィヴァルディが自分のオペラにほぼ毎回起用したアンナ・ジローという歌手と親密な関係を持ったとされ、このようなことに厳しいカトリック教会が大司教区を出禁にした、ということです。真実は定かでないながらも、なんとヴィヴァルディとこの女性歌手は約30歳差であり、その密接な関係にカトリック教会が眉をひそめていました。
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びっくりしましたね。
素直にうなってしまう内容でした。
次回からは《四季》の「夏」の解説に入ります。第1楽章の濃密な空気感がどんな物語として立ち上がるのか楽しみです。ペース上げていきます!






