
第10回目の活動報告は、大井駿さんによる寄稿記事の第三弾です。今回は、互いに一度も会うことがなかった、バッハとヴィヴァルディの意外な接点について解説いただきます。
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ヴィヴァルディ(1678~1741)は、ヴェネツィアで活動した作曲家で、終焉の地こそウィーンですが、生涯のほとんどをイタリアで過ごしました。一方、ヴィヴァルディと同世代のJ. S. バッハ(1685~1750)は、ドイツからほとんど出ることなく生涯を終えました。ですので、この2人が顔を合わせることはありませんでした。しかしバッハはひょんなことがきっかけで、ヴィヴァルディの存在を知ることとなったのです。
1708年(23歳)から約10年弱、宮廷音楽家として、ワイマールのヴィルヘルム=エルンスト公に仕えます。そして偶然にも、このエルンスト公の息子ヨハンは根っからの音楽好きで、名目上は法学や教養を学びにいくとしながらも、音楽を追求しに、オランダ・ユトレヒトへ2年間(1711〜13年)留学しました。当時のオランダは、大きな港を数多く有していることから、宗教的・そして文化的にも華やかでした。かつ、ルイ14世がプロテスタントを追放したことで、高い調版印刷技術を持った職人が、フランスからオランダへ数多く流入し、楽譜が安価で素早く大量生産されるようになりました。
このようにユトレヒトは、音楽ずきのヨハンにとって天国のような場所でした。そして、留学を終える頃には実に大量の楽譜をワイマールまで持って帰ってきました。バッハは見たこともない楽譜、そして聞いたこともない音楽を目の当たりにし、衝撃を受けたとされていますが、その楽譜の中にはヴィヴァルディのものもたくさんありました。(ヴィヴァルディも拠点はヴェネツィアだったものの、先述の経緯から、多くの楽譜をオランダで出版しています)
こうしてオランダ経由でイタリアの様式を学んだバッハは、自分の作品にそのイディオムを取り込みますが、今回みなさまにお聴きいただく《2台のヴァイオリンのための協奏曲》もヴィヴァルディの様式を踏まえて書かれています。
バッハの作品に垣間見えるヴィヴァルディの影響は数多くありますが、その中でもとっておきの例を一つみなさまに…!
バッハのカンタータ第27番《わが終わりの近きをだれぞ知らん 》のアリア《ようこそ!と私は言おう》の冒頭、よーく見ると、ヴィヴァルディの《春》の第1楽章と同じメロディーがそのまま使われているんです!バッハのこの曲は1726年に作曲されたのですが、なんとヴィヴァルディ《春》が収められている《四季》は、その前の年(1725年)に出版されており、バッハはおそらくその出版から間も無くしてすぐに楽譜を手に入れたと言われています。それほどにバッハを惹き込んだ作曲家が、ヴィヴァルディだったのです!

上:バッハのカンタータ第27番のアリア《ようこそ!と私は言おう》冒頭の楽譜
下:ヴィヴァルディ《春》第1楽章

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いかがでしたでしょうか?
バッハとヴィヴァルディ、遠く離れた二人の巨匠が、オランダを経由して楽譜で結びつき、互いの音楽に影響を与え合ったという、興味深い歴史の断片をお届けしました。
次回も引き続き、大井駿さんの寄稿記事をお届けします。
バッハは真面目だけじゃない、という記事を先日お送りしましたが、今度はヴィヴァルディについて、また違う方向性での意外性をお伝えできればと思います。






