リターンの御城印『伏見城』。そもそも何故、豊臣秀吉と徳川家康の2代武将が関係しているのか、ご存じですか!?今回は、少しそのあたりを説明します。◆指月伏見城最初の伏見城は、豊臣秀吉が築城した「指月伏見城」(1594年)です。「指月」とは、現在の桃山泰長老町あたりで、指月の丘と呼ばれていました。しかし、1596年に伏見大地震で倒壊してしまいました。◆伏見山伏見城伏見大地震での倒壊後、直ちに再建され、1597年に「伏見山伏見城」が完成しました。「伏見山」とは、現在の明治天皇陵のある場所です。しかし、その翌年1598年に、ここ伏見城で豊臣秀吉が亡くなります。その後、徳川家康が伏見城に入場し、政権掌握への基盤を作っていきます。 ところが、関ヶ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(1600年)で、この伏見城は落城してしまいます。伏見の町は、当時の政都であったため、家康は急ピッチで伏見城を再建し、1602年に完成します。◆江戸幕府のスタートを切った伏見城その後、徳川家康は、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けます(1603年)。程なくして、家康から秀忠に政権が移ります。1605年に、ここ伏見城で、秀忠の征夷大将軍の宣下が行われました。家康は、大阪の陣で豊臣政権を滅ぼしたあと、1616年に亡くなりました。その後、家光の時代に、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた後、政都としての役割を終えた伏見城は、1624年に廃城されます。伏見城が亡くなった後、いつしか桃木が植えられたことにより、この地は「桃山」と呼ばれるようになりました。そんな経緯で、秀吉と家康の2大武将が関係している!という訳です☆《参考情報》▶ 『伏見城』の豆知識【前編】




