がんステージ4克服!肉レシピ(豚・鶏・牛)店オープン支援プロジェクト

私は2021年4月に上咽頭癌ステージ4と診断され、抗がん剤と放射線治療でほぼ消失したが、2年後に肺に転移し手術をしてもらった。退院して知り合い、テニス仲間、兄弟姉妹、姪っ子に料理を作って喜ばれた。特にデミシチュー、おでん、牛すじ煮込みが人気でした。お店を旭川に開いてがん患者含め笑顔を増やしたい。

現在の支援総額

378,000

7%

目標金額は5,000,000円

支援者数

31

募集終了まで残り

10

がんステージ4克服!肉レシピ(豚・鶏・牛)店オープン支援プロジェクト

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378,000

7%達成

あと 10

目標金額5,000,000

支援者数31

私は2021年4月に上咽頭癌ステージ4と診断され、抗がん剤と放射線治療でほぼ消失したが、2年後に肺に転移し手術をしてもらった。退院して知り合い、テニス仲間、兄弟姉妹、姪っ子に料理を作って喜ばれた。特にデミシチュー、おでん、牛すじ煮込みが人気でした。お店を旭川に開いてがん患者含め笑顔を増やしたい。

蓋を開けた瞬間、赤ワインと深煎りのデミグラスが混ざり合った、芳醇な香りがふわっと立ち上がった。3日間赤ワインに漬け込まれた豚肉は、スプーンを当てただけでハラリとほどける。口に含めば、繊維が舌の上でとろけ、肉の深い旨味と赤ワインのコクが一気に広がる。これはもはや「肉」ではなく「旨味の結晶」だ。えのきがソースをたっぷり吸い込んで旨味を増幅させ、にんじんとじゃがいもが優しい甘みで全体を包む。そしてブロッコリーが、その濃厚な世界の中でちょうどいい清涼感を添えてくれる。クラファン1番人気、納得の一皿。食べながら、思わず目を閉じた。魂のデミグラスシチューに見た、三部作の頂点食には、作り手の人生が溶け込む。一杯の料理は、その人の哲学、歩んできた道、そして未来への眼差しを映し出す鏡となる。私たちは今、二瓶さんという一人の料理人が紡ぎ出す物語の、幸福な読者である。第一章、九州の魂と旭川の風が出会った「もつ鍋」。第二章、継ぎ足しのタレのように深みを増す人生を体現した「牛すじ煮込み」。そして今、第三章の幕が上がる。その名も、「デミグラスシチュー」。先に結論から言おう。二瓶さんがクラウドファンディングで複数の料理を返礼品として出した中で、このデミグラスシチューは堂々の人気ナンバーワンに輝いた一皿である。もつ鍋も、牛すじ煮込みも、すべてが最高に美味しかったと断言した上で、個人的に、この三部作の頂点に立つ一皿だった。修正点など、どこにもない。完璧だ。これは、単なる料理の話ではない。一人の人間が、何度も折れそうになりながら、それでも前を向き続けた、魂の記録である。馬面の男が放った、伝説の一言まず、この物語を語る前に白状しなければならないことがある。二瓶さんから「絶対に馬い」という一言を聞いたとき、私は一瞬、頭の中に疑問符が三つほど浮かんだ。「馬い?」「馬?」「もしかして食材が…?」。しかし、その謎はすぐに解けた。二瓶さんは自他ともに認める馬面の持ち主であり、しかも本人がそれを実に気に入っているというのだ。ちょっと待ってほしい。馬面を「気に入っている」。普通、馬面と言われたら傷つくものではないか。しかし二瓶さんは違う。馬面を誇りとし、馬面をブランドとし、馬面を料理の品質保証にまで昇華させてしまった。「馬面の俺が作るんだから、馬いに決まってる」。これはもはや、馬面界の革命である。世界中の馬面たちよ、二瓶さんを見よ。馬面はコンプレックスではない。才能だ。ブランドだ。生き様だ。さらに深読みすれば、馬といえば競馬の世界では「名馬」という言葉がある。名馬は走り続ける。どんな障害があっても、どんな逆風が吹いても、ゴールに向かって走り続ける。二瓶さんもまた、人生というレースを走り続けてきた名馬だ。北海道からアメリカへ、カナダへ、イギリスへ。そして九州の味に魅せられ、旭川に戻り、大病を経て、今また新たなゴールに向かって走っている。ならば、その名馬が作る料理が「馬い」のは、もはや必然である。馬面に乾杯。笑いながらも、心のどこかで「この人、ただ者じゃない」と確信した瞬間だった。81歳が放った、もう一つの伝説ここで、もう一つの伝説的な言葉を紹介しなければならない。二瓶さんのテニス仲間に、81歳の方がいる。81歳。テニスをしている。その時点でもう十分すごいのだが、この方が牛すじ煮込みを食べて、こう言ったというのだ。「肉肉しい(にくにくしい)」。私はこの言葉を聞いた瞬間、しばらく固まった。「肉肉しい」。辞書を引けば「憎々しい」、つまり腹が立つほど憎たらしいという意味だ。しかしこの文脈では、明らかに最上級の褒め言葉である。肉が、肉として、これ以上ないほど肉らしい。肉の存在感が、憎たらしいほど圧倒的だ。そういうことだ。81年間生きてきた人間が、その語彙の引き出しの奥の奥から取り出してきた言葉が「肉肉しい」。これは、単なる感想ではない。81年分の人生経験と味覚が凝縮された、最高の批評だ。二瓶さんの料理は、81歳のテニス仲間を「肉肉しい」と言わしめた。これ以上の勲章が、どこにあるだろうか。ポイントは、愛ある日、二瓶さんに聞いてみた。「この料理、ポイントはどこですか?」と。返ってきた答えは、一言だった。「愛があること」。思わず笑いそうになった。しかし次の瞬間、その言葉がじわじわと胸に染み込んできて、笑えなくなった。二瓶さんが好きなドラマに、「愛し合ってるかい!」という名台詞で知られる作品があるという。その言葉が、彼の料理哲学の根っこにある。愛し合ってるかい。食材と愛し合い、食べる人と愛し合い、料理という行為そのものと愛し合う。そういうことなのだと思う。馬面で、愛がある。これほど強い組み合わせが、この世にあるだろうか。3日間、誰も知らない場所で「これ、豚肉を3日前から赤ワインで下準備してるんだよ」。その言葉を聞いて、私は思わず手を止めた。三日間。それは単なる72時間という時間ではない。しかし、その言葉の重さに気づいたのは、食べ終わってしばらく経ってからだった。私がこのシチューを口にするはるか前から、二瓶さんはすでに動いていたわけだ。私が何も知らずにテニスをして、サウナで汗を流して、ぼーっとテレビを見ていた3日間、二瓶さんは赤ワインと豚肉と向き合い、コトコトと火を守り続けていた。誰かに褒められるわけでもなく。誰かに見られているわけでもなく。ただ、食べてくれる人の顔を思い浮かべながら、一人で鍋の前に立ち続けた3日間。その孤独で、静かで、愛情に満ちた時間が、このシチューの底に沈んでいる。ふと思う。二瓶さんは、その3日間、何を考えていたのだろう。世界を飛び回った若い頃のことだろうか。九州のもつ鍋屋で、醤油ダレを仕込んでいた日々のことだろうか。それとも、旭川医大の白い天井を見上げながら、「まだやりたいことがある」と歯を食いしばったあの日のことだろうか。きっと、全部だ。この3日間は、二瓶さんのこれまでの人生が、静かに鍋の中に溶け込んでいく時間だったのだと思う。その事実に気づいた瞬間、笑いが引っ込み、胸の奥がじんわりと熱くなった。一口目の衝撃、そして昇天届けられた一皿は、これまでの二作とは明らかに異なるオーラを放っていた。深い藍色の器の中に横たわるのは、艶やかな暗褐色のソースの海。その中心に鎮座する豚肉の塊は、見ただけでわかる。これは、ただ者ではない。まず、ソースを一口。最初に感じるのは、デミグラスソース特有の深いコクと甘み。しかしそれだけではない。一拍置いて、赤ワイン由来の気品ある酸味と渋みが、まるで後から登場する名脇役のように颯爽と現れる。そしてその奥から、じっくりと炒められた玉ねぎの、とろけるような甘みが全体を包み込んでくる。玉ねぎはすでに形を失い、ソースの一部となって溶け込んでいる。しかしその存在感は、どこまでも確かだ。これが、このシチューの骨格を作っている。いよいよ主役の豚肉にスプーンを入れる。驚いた。抵抗というものが、まるでない。スプーンがすっと肉の繊維に入り込み、いとも簡単に塊を解きほぐす。口に含めば、ハラリ、と音を立てるかのように肉がほどけ、次の瞬間には舌の上でとろけて消えていく。しかしその後に残る旨味の余韻が、これがまた凄い。豚肉の濃厚なコクが、赤ワインの風味を纏いながら、口の中でいつまでも踊り続けるのだ。思わず目を閉じた。これは食べ物ではなく、体験だ。そして、完璧な脇役たち。ほっくりと甘いじゃがいも。ソースをたっぷり吸い込みながらも、シャキシャキとした独特の食感を残すえのき。鮮やかなオレンジ色で、噛むたびに優しい甘みを添えるにんじん。そして、ブロッコリー。脇役のように見えて、実はこの一皿の影の主役だ。濃厚なデミグラスの海の中で、このブロッコリーの一口が、なんと清々しい息継ぎになることか。そして確信した。これは間違いなく「馬い」。二瓶さん、あなたの言葉に嘘はなかった。馬面の誇りにかけて作られたこの一皿は、その名に恥じない、いや、その名を遥かに超えた完成度だった。馬面万歳。馬面に乾杯。これほど馬面に感謝したことは、生まれて初めてだ。料理の向こうに見えた、一人の人間食べながら、私はふと考えた。この料理は、いったいどこから来たのだろう、と。北海道旭川で生まれ、20代はシステムエンジニアとして世界を飛び回り、ある日ひょんなことから居酒屋の世界へ。九州の味に魅せられ、もつ鍋の醤油ダレを作り続けた長い年月。結婚、離婚、メンタルの崩壊、故郷への帰還。テニス、料理、大切な人たちの笑顔。そして2021年、旭川医大での宣告。上咽頭がん、ステージ4。その言葉の重さを、私は正直、想像しきれない。でも、このシチューを食べながら、少しだけわかった気がした。治療が終わり、「またいつどうなるかわからない」という言葉を胸に抱えながら、それでも二瓶さんは3日前から仕込みを始めた。赤ワインで豚肉を漬け込み、玉ねぎをじっくりと炒め、えのきを丁寧に加え、火加減を調整し続けた。その行為の一つひとつが、「私はまだここにいる」という、静かで力強い宣言だったのではないかと思う。料理を作るということは、未来を信じるということだ。3日後に誰かが食べてくれると信じなければ、3日前から仕込むことなどできない。二瓶さんはその3日間、未来を信じ続けていた。自分の料理を誰かが食べて、笑顔になる瞬間を信じ続けていた。それは、「愛し合ってるかい!」という叫びに似ている。誰かのために、何かを作る。誰かに、美味しいと言ってほしい。誰かの顔が、笑顔になってほしい。その想いの積み重ねが、3日間の炎になり、とろける肉になり、深いソースになった。二瓶さんの料理の「ポイント」が愛だというのは、比喩でも冗談でもなく、文字通りの事実だったのだ。気づいたら、目の奥が熱くなっていた。スプーンを置いて、しばらく動けなかった。美味しいとか、すごいとか、そういう言葉が全部どこかへ飛んでいってしまって、ただただ、「ありがとう」という気持ちだけが胸の中に残った。こんな気持ちにさせる料理を、私は今まで食べたことがなかった。


牛すじ煮込み丼
2026/03/11 09:15

感想ー第二弾(No editing)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第一章の、あの生命の歓喜に満ちた「もつ鍋」の衝撃から、まだ幾日も経っておりません。私の魂は、まだあの時の感動の余韻に震え、心は温かい光に満たされたままでした。正直に申し上げます。あれ以上の感動など、この人生で二度と味わうことはないだろうと、本気で思っておりました。あの、失われた味覚を取り戻した二瓶さんの「第二の誕生」を、鮮やかな色彩と、ほとばしる生命力で描き出した一杯。あれは、再生のファンファーレであり、生きる喜びを高らかに歌い上げる、魂の交響曲でした。しかし、私は、間違っておりました。先日、手渡された第二章、「牛すじ煮込み丼」。二瓶さんから、あのずっしりと凝縮されたエネルギーの塊のような容器を受け取った瞬間、私は悟りました。これは、第一章の続編などではない。これは、第一章があったからこそ理解できる、全く別の、そして遥かに深く、静かな物語なのだと。私の掌に感じたのは、単なる物理的な重さではありませんでした。それは、一人の人間が、その身一つで耐え抜いてきた、壮絶な人生の重みそのものでした。癌という、あまりにも巨大で、理不尽な敵と対峙し、絶望の淵から生還した魂の重み。この中に、一体どんな物語が、どんな祈りが、そしてどんな涙が、一滴残らず凝縮されているのだろうか。そう思うだけで、胸が締め付けられるように熱くなり、目の前の景色が、感謝と畏敬の念で滲んで見えました。家に帰り、まるで神聖な儀式を執り行うかのように、心を鎮め、ゆっくりと蓋を開けた瞬間、私は息を呑みました。そこに広がっていたのは、静寂に満ちた、深く、そしてどこまでも美しい漆黒の海。もし、前回のもつ鍋が、生命の誕生を告げる、色鮮やかな「星雲」であったとするならば、この牛すじ煮込み丼は、その宇宙のすべてを、静かに、そして力強く支配する「暗黒物質(ダークマター)」でした。それは、二瓶さんが独りで見つめてきたであろう、長く、暗く、そして果てしない闘病生活の夜そのものを思わせました。しかし、その静寂の暗黒の海の中で、トロトロに煮込まれた牛すじたちは、まるで夜明け前の東の空に、一番最初に輝き始める希望の星々のように、力強く、そして優しい光を放っていたのです。それは、悠久の時を経て形成された、食の「化石燃料」。絶望という名の分厚い地層の、そのさらに奥深くで、想像を絶するほどの圧力と孤独に耐え抜き、純粋な生命のエネルギーの結晶へと昇華した、魂の塊そのものでした。温めるために鍋に移し、コンロの火を灯す。すると、醤油と出汁、そして幾種類もの香味野菜が、まるでオーケストラのように、それぞれの音色を奏でながら、一つの完璧なハーモニーとなって、私の部屋を満たしていきました。しかし、それは単なる料理の香りではありません。それは、二瓶さんが一度は完全に失い、そして筆舌に尽くしがたい苦しみの果てに、奇跡的に取り戻した「命の記憶」そのものの香りでした。この香りを、二瓶さんはどんな想いで、再びその肺いっぱいに吸い込んだのだろう。当たり前だったはずの「美味しい」という感覚が、どれほど愛おしく、どれほど奇跡的なものであったか。その歓喜の瞬間を想像しただけで、私の涙腺は、もはや何の抵抗もできずに、決壊してしまうのです。そして、炊き立ての、一粒一粒が星のように輝く白いご飯の上に、その漆黒の宇宙を、そっと、しかし大胆にかける。純白のキャンバスの上に、暗黒星雲が広がっていく。私の目の前に現れたのは、もはや単なる丼物ではない。それは、二瓶さんという名の創造主が、その掌の上で、ご自身の人生のすべてを注ぎ込んで創造した、食べるための「小宇宙」でした。レンゲで、ご飯とその宇宙を一緒にすくい、震える手で、祈るように、口に運びました。その瞬間、私の周りの世界の音が、完全に消えました。最初に感じたのは、懐かしい醤油の香ばしさと、角の取れた優しい甘み。そして次の瞬間、主役である牛すじが、舌の上で、まるで春の雪が太陽の光に触れて溶けるように、はかなく、優しく、そして跡形もなく、解けていきました。あれほど強靭で、決して他者と交わることのなかったであろう筋繊維が、その硬い鎧を完全に脱ぎ捨て、純粋な旨味の奔流となって、私の魂に、優しく、しかし抗うことのできない力で、流れ込んでくる。その時です。私の目から、熱いものが、堰を切ったように、とめどなく溢れ出てきました。悲しいのではありません。あまりにも、あまりにも、美味しかった。そして、その美味しさの奥に、二瓶さんの、誰にも打ち明けることのできなかったであろう、言葉にならないほどの苦しみと、それを乗り越えた人間の、とてつもない強さと、海のように深い優しさが見えたからです。前回のもつ鍋が、味覚を取り戻した「歓喜」と「再生」の物語であるならば、この牛すじ煮込み丼は、その歓喜に至るまでの、長く、孤独な「闘い」と「忍耐」の物語です。味覚を失うということが、料理人にとって、どれほどの絶望か。僕には、本当の意味で理解することなど、到底できないでしょう。食べることが、生きる喜びそのものであったはずなのに、それが砂を噛むような苦痛に変わる日々。世界から色が消え、音が消え、味が消える。その完全な無の世界で、二瓶さんは、まさにこの牛すじのように、硬く、冷たくなっていく心を、どれほどの力で、必死で繋ぎ止めていたのでしょうか。そして、再び「美味しい」と感じられたあの日の奇跡。その、新しい生命が誕生したかのような、涙が出るほどの喜びが、この一滴一滴の煮汁に、この繊維の一本一本に、これでもかというほど、込められている。そう感じたのです。この一杯は、二瓶さんの「第二の人生」そのものです。癌という巨大な圧力によって、一度は砕け散り、その存在意義さえ見失いかけた魂が、再び集まり、以前よりもっと強く、もっと優しく、そしてもっと温かい光を放つエネルギーの塊へと再生した。私たちは、その奇跡の「化石燃料」を、今、こうして、何の苦労もせずに、分けていただいている。この一口が、どれほど尊く、どれほど奇跡的なものであるか。そう思うと、ただただ、感謝の念に打たれ、ひれ伏すしかないのです。二瓶さん、あなたは、ご自身の壮絶な体験を、単なる「物語」として消費させることを選びませんでした。あなたは、その体験のすべてを、この一杯の丼の中に「再創造」し、私たちに「体験」させてくれたのです。これは、もはや食ではない。これは、魂の救済です。生きる希望そのものです。本当に、本当に、ありがとうございました。あなたは、料理という芸術を通して、私たちに、人間という存在の、驚くべき回復力と、無限の可能性を見せてくれました。あなたの作るお店は、単なる飲食店ではありません。それは、絶望を知るすべての人々の魂を、優しく、そして力強く温め、再生させるための聖地、「パワースポット」になることでしょう。その温かな光に、再び包まれる日を、今日流した感謝の涙を拭いて、心からの笑顔で、楽しみにしております。心からの感謝と、最大限の敬意を込めて。


もつ鍋のタレを九州の醤油を使って作りました。30代男性に野菜(ニラ・キャベツ等)を鍋にセットして渡しました。その男性は自宅で煮込みました(約10分)。そして、長文の感想を送ってきました。下記の通り(切り取り・追加一切しておりません)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー早速食べました。心温まる食体験の一つとなる、最高のもつ鍋の「宝箱」を経験しました。昨日、ほんの少しの期待と、大きな信頼を込めてお渡しした空っぽの鍋が、たった一日で、未来の美味しい約束と二瓶さんの温かな想いでずっしりと満たされ、私の手元に戻ってきた時の、あの高揚感と幸福感。この文章を書きながら、その時のことをありありと思い出し、再び胸が熱くなっております。二瓶さんから、あのオレンジ色のル・クルーゼを受け取った時、その確かな重みに、まず驚きました。それは単なる食材の物理的な重さではありませんでした。蓋の隙間から漏れ聞こえてくるかのような、食材たちの静かな息遣い。そして何より、この鍋一つを準備するために、二瓶さんが私のために費やしてくださったであろう時間と、そこに込めてくださったであろう計り知れない想い。その全てが、ずっしりとした愛情の重みとなって、私の両手に伝わってきたのです。家に帰り、まるで大切な宝物を扱うかのように、恭しくテーブルの上にその鍋を置く。それは、伝説の玉手箱を開ける前の浦島太郎のような、あるいは、長い冒険の果てに宝の地図の終着点にたどり着いた探検家のような、そんな厳かで、そして子供のように心が躍る、特別な瞬間でした。いよいよ、蓋を開ける時。ゆっくりと、息を呑んで蓋を持ち上げると、そこには、私の拙い想像を遥かに超えた、息を呑むほどに美しく、完璧に計算され尽くした小宇宙が広がっていました。宝石のように艶やかで、生命力に満ち溢れたニラ。まるで初雪のように清らかで、見るからに甘そうなキャベツ。そして、その中心で、どれほど丁寧に、どれほどの愛情を込めて下処理されたのかが一目でわかる、ぷりぷりとした純白のモツ。それらが、二瓶さん秘伝のスープの中で、まるで高名な作庭家が手掛けた日本庭園のように、完璧な配置で静かに出番を待っている。それはもはや単なる「もつ鍋セット」などという言葉で表現できる代物ではありません。二瓶さんの卓越した料理の腕と、揺るぎない美的センス、そして何よりも、食べる人への限りない愛情が三位一体となって作り上げた、一つの完成された芸術作品でした。この時点で、私の感動はすでに最高潮に達しており、食べる前から、この体験が特別なものになることを確信していました。そして今日、待ちに待った「火入れの儀式」です。自分の家の、見慣れたキッチンで、あの鍋をコンロにかける。カチッという心地よい音と共に青い炎が鍋底を優しく包み込み、やがて、ことこと、ことことと、命が芽吹くような優しい音が聞こえ始める。するとどうでしょう。鍋の中から、私の家がこれまで一度も経験したことのないような、芳醇で、複雑で、そして抗いがたいほどに食欲をそそる香りが、まるで生き物のように立ち上り始めたのです。最初は、昆布の穏やかで懐の深い海の香り、そして鰹節の力強くも品のある燻香。それが部屋中に満ちたかと思うと、次に、スープの熱でゆっくりと、しかし確実にその封印を解かれ始めたニンニクの、あのパワフルで、少しばかり背徳的で、そして最高に魅惑的な香りが、力強く立ち上ってくる。それは、私の部屋中を瞬く間に幸福な香りで満たし、これから始まるであろう奇跡の味を、どんな言葉よりも雄弁に物語っていました。黄金色に輝くスープがくつくつと心地よい音を立てて煮立ち、野菜が目に鮮やかな美しい緑色に変わっていく様を、私はまるで一本の映画を観るかのように、夢中で眺めていました。そして、ついにレンゲを手に、震える手で最初の一口をいただきました。その瞬間、私の全身に、まるで春の陽光のような、温かく、そして力強い衝撃が走りました。奥深く、どこまでも優しい旨味の波。二瓶さんが、あの壮絶な闘病生活の果てに、血の滲むような努力の末に再びその手に取り戻した「命の味覚」で選び抜き、作り上げた究極の味。それは、私の心と身体を、文字通り芯からじんわりと温めてくれるような、まさに「命のスープ」でした。実は、あのもつ鍋をいただく前に、二瓶さんのクラウドファンディングのページを拝見しておりました。上咽頭癌ステージ4という過酷な診断、想像を絶する治療、そして肺への転移。その一つひとつの言葉の重みに、私は胸を締め付けられ、涙が止まりませんでした。特に、味覚を失い、大好きだった料理が苦痛に変わってしまったという一節を読んだ時、私は、自分が毎日当たり前のように享受している「食べることの喜び」がいかに奇跡的で、尊いものであるかを、改めて思い知らされたのです。だからこそ、二瓶さんが準備してくださったもつ鍋の一口一口は、私にとって特別な意味を持ちました。この完璧な塩加減、この深い旨味。その全てが、二瓶さんが一度は失い、そして再びその手に取り戻した、奇跡の感覚の結晶なのだと。そう思うと、単なる料理を味わっているという感覚を超えて、二瓶さんの不屈の魂そのものを、その生き様そのものを、私の身体の中に直接いただいているような、神聖な気持ちにさえなったのです。ぷりぷりとしたモツを噛みしめるたびに、新鮮な野菜の甘みを感じるたびに、「生きているって、こういうことなんだ」「美味しいと感じられるって、こんなにも幸せなことなんだ」と、涙が溢れそうになるのを必死で堪えていました。二瓶さんがプロジェクトで実現したいと願う、「がん患者含め笑顔を増やしたい」という夢。それは、単なる飲食店の開業という枠を遥かに超えた、あまりにも尊く、そして心優しいビジョンです。美味しい食事と楽しい時間を通じて免疫細胞(NK細胞)を活性化させ、心と体の両面から人々を支える憩いの場を創出する。その構想を知った時、私は深く感動しました。そして、二瓶さんのもつ鍋をいただいた今、そのビジョンが単なる理想論ではなく、必ず実現可能な未来であると確信しています。なぜなら、二瓶さんの料理には、人の心を動かし、生きる力を与える、本物の力が宿っているからです。そして、あえて一つだけ、この完璧な一杯の、愛すべき「欠点」を挙げさせていただくとすれば。それは、あまりにもパワフルで、食欲を無限に掻き立てるニンニクが、惜しげもなく、これでもかと使われていることでしょうか。一口食べただけで、身体の奥底から、まるで火山が噴火するかのようにエネルギーがみなぎってくるのがわかるほどの、強烈な存在感。これはもう、料理の域を超えた「食べるエナジードリンク」です。正直に申し上げて、この抗いがたい美味しさは、翌日に大切なデートや、絶対に失敗できない会議を控えている日には、さすがに少しばかり躊躇してしまうかもしれません(笑)。しかし、それは決して本当の欠点などではなく、むしろ、この料理が一切の妥協なく、食べる人の健康と元気を第一に考え、本物の味を追求していることの、何よりの証なのだと思います。それは、「小手先の体裁や明日のことなど気にせず、今この瞬間を全力で味わい、生きろ!」という、二瓶さんからの力強く、そして愛情に満ちたメッセージのようにも感じられました。このニンニクの圧倒的なパンチ力こそが、このもつ鍋を唯一無二の存在にしている、最高のチャームポイントなのだと、私は心から確信しています。いただいた一杯のもつ鍋は、私の身体に極上の栄養を与えてくれただけでなく、私の心に、これから先何があっても決して消えることのないであろう、温かく、そして力強い光を灯してくれました。それは、「生きることの素晴らしさ」「食べることの喜び」、そして「人の想いの尊さ」を、改めて私の全身全霊に教えてくれる、最高の、そして一生忘れることのない贈り物でした。この溢れんばかりの感謝の気持ちを、一体どうすれば、余すことなくあなたにお伝えできるのでしょうか。本当に、本当に、ありがとうございました。これから旭川にオープンされる二瓶さんのお店が、多くの人々に愛され、たくさんの笑顔が生まれる素晴らしい場所になることを、心から、心の底からお祈りしています。そして、私も必ず、その温かな光に引き寄せられる一人として、お店に伺わせていただきます。その日を、今から指折り数えて、何よりも楽しみにしております。二瓶さんの第二の人生が、料理と共に、たくさんの喜びと笑顔に満ち溢れた、輝かしいものとなりますように。心からの感謝と、最大限のエールを込めて。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれを読んで泣きそうになりました。



旭川市の緑が丘中央ストアは、1963年に完成した緑ヶ丘団地に伴い、商店街としてスタートしました。高齢が理由でやむなくたたんだ店舗があった中央ストアーをもう一度賑わう憩いの場所にしようではないですか!!団地の皆様も待ってるかもしれません。駐車スペースもあります。  店主:あつ


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