
ヨハネス・コック・ブロムホフは、1816年3月6日にオランダ・ハーグで生まれました。父は長崎出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、母はティティア・ベルフスマです。翌1817年、生後わずか1歳半ほどで両親とともに日本へ渡りました。
しかし、当時の日本は鎖国下にあり、西洋人女性や子どもの滞在は幕府によって認められていませんでした。父ブロムホフは何とか妻子の滞在を願い出ますが、その願いは受け入れられず、ヨハネスは母ティティア、乳母ペトロネラ・ムンスらとともに、わずか数か月で日本を去ることになります。
滞在期間は短かったものの、金髪で青い目をした幼いヨハネスの姿は、日本人に大きな衝撃を与えました。当時の日本人は西洋の子どもを見る機会がほとんどなく、その愛らしい姿は長崎の絵師たちによって盛んに描かれました。川原慶賀や石崎融思(祐旨)らによる「ブロムホフ家族図」には、母ティティアや乳母ペトロネラとともに抱かれたヨハネスの姿が描かれ、日本における異国文化受容の象徴的な存在となりました。現在確認されているブロムホフ家族図の多くに、幼いヨハネスが描かれていることからも、その存在がいかに印象深かったかがうかがえます。
日本を去った後、一家は長い航海を経て帰国します。しかし、その過酷な旅は母ティティアの心身に大きな負担を与えました。ティティアは1821年4月2日、35歳という若さでハーグにおいて亡くなります。ヨハネスはわずか5歳で母を失ったことになります。
一方、父ブロムホフはその後も出島商館長として1824年まで日本に留まりました。つまり、ヨハネスは幼少期の大半を父と離れて過ごしたことになります。1824年に父が帰国すると再び親子は生活を共にし、その後ブロムホフは1827年に再婚します。
成人したヨハネスは法律を学び、「Mr. Johannes Cock Blomhoff(法学士ヨハネス・コック・ブロムホフ)」として知られるようになりました。1852年にはサラ・マリア・ファン・デ・ポルと結婚し、父ヤン・コック・ブロムホフが1853年に没すると、その遺品の中でも最も重要な二枚の「ブロムホフ家族図」を受け継ぎます。
その一枚は、現在オランダ国立世界文化博物館(Wereldmuseum)が所蔵する五人構成の家族図であり、もう一枚は現在アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)が所蔵する六人構成の家族図です。ヨハネスはこの二つの作品を大切に守り続けました。
1900年1月29日、ヨハネスは83歳でその生涯を閉じます。六人構成の家族図は未亡人サラ・マリア・ファン・デ・ポルに受け継がれ、その後ファン・デ・ポル家に伝来しました。そして最終的にはファン・デ・ポル=ウォルテルス=クイナ財団を経て、2008年にアムステルダム国立美術館の所蔵となっています。一方、五人構成の家族図もブロムホフ家に大切に伝えられ、現在はオランダ国立世界文化博物館に所蔵されています。
彼自身が日本について語った記録はほとんど残されていません。しかし、生後わずか一年半で体験した日本での出来事は、多くの日本絵画や版画の中に今なお生き続けています。幼いヨハネス自身には日本での記憶は残っていなかったでしょう。それでも、日本人にとって彼は「初めて目にした西洋の子ども」の一人であり、その姿は約二百年を経た現在でも、「ブロムホフ家族図」を通して江戸時代の日蘭交流の情景を私たちに静かに語りかけています。
さらに、今日私たちがこれらの作品を目にすることができるのは、ヨハネスとその家族が二枚の家族図を代々大切に守り伝えてきたからにほかなりません。もしヨハネスが父の遺品として受け継ぎ、後世へ伝えることがなければ、「ブロムホフ家族図」は現代まで残ることはなかったかもしれません。その意味でヨハネスは、自らが描かれた作品の最初の継承者であると同時に、日本とオランダを結ぶ貴重な文化遺産を未来へ伝えた重要な継承者でもあったのです。



