
1817年、日本へ妻ティティアと幼い息子ヨハネスを伴ってやって来たヤン・コック・ブロムホフ。しかし幕府は西洋人女性と子どもの滞在を認めず、ティティアたちはわずか数か月で帰国を余儀なくされます。
その後、ティティアは1821年、35歳の若さで夫と再会することなく亡くなりました。
ブロムホフが日本から帰国したのは1824年。愛する妻を失い、幼いヨハネスと再び暮らし始めた彼は、1827年にマリア・アドリアナ・ファン・ブレーゲル(愛称ミミ)と再婚します。
ミミは名門ファン・ブレーゲル家の出身でしたが、二人の間に子どもは生まれませんでした。彼女はヨハネスの継母となり、母を失った少年を温かく育てます。
夫妻はアメルスフォールト郊外のビルクホーフェンという広大な農園で暮らしました。ブロムホフは日本から帰国した後も日本を忘れることはありませんでした。
農園には「ミヤコ(Miaco)」という名の農場を造り、日本庭園を設け、日本の友人から送られてきた種子を育てます。日本で集めた品々に囲まれながら、まるで日本とともに生きるような暮らしを送っていたのです。
その生活を陰で支え続けたのがミミでした。
1853年にブロムホフが亡くなると、彼女はその遺した膨大な日本関係資料や書簡を整理・保存します。そのおかげで、ブロムホフの文書は1907年にオランダ国立公文書館へ収蔵され、現在でも私たちは彼の手紙や記録を読むことができます。
また、日本から持ち帰ったコレクションも一族によって大切に守られ、今日ではライデンのオランダ国立世界文化博物館をはじめ、各地の博物館に伝えられています。
もしミミがそれらを守り伝えなかったなら、私たちは今日、ブロムホフの足跡をこれほど詳しく知ることはできなかったでしょう。
ブロムホフを語るとき、多くの人は最初の妻ティティアに注目します。しかし、帰国後約30年にわたって彼を支え、日本との思い出を未来へ伝えたもう一人の妻・ミミの存在も、決して忘れてはならないのです。
※画像はミミと再婚した頃のブロムホフの肖像画、そして晩年のミミの写真



