
ブロムホフという人物は、オランダから見れば、十九世紀初頭の海外政策を支えた実務家です。彼は教養ある上流市民の家庭に生まれました。父は法律家への道を望んでいましたが、自らは軍人となり、その後オランダ東インド会社に入りました。能力を認められて着実に昇進し、やがて日本・出島商館長というオランダを代表する要職に就きます。
そして帰国後には、オランダでも有数の名門であるファン・ブレーゲル家のミミと再婚し、その一員となりました。
ナポレオン戦争後、オランダは国として立て直しを進め、インドネシアや日本との関係を通して、再び世界の中で存在感を示そうとしていました。ブロムホフは、その最前線に立った人物の一人でした。
出島では商館長として日本との貿易を守り、江戸へ参府して将軍に拝謁し、オランダを代表して交渉にあたりました。オランダ側から見れば、国の威信と利益を背負った人物だったのです。
しかし、日本から見ると、少し違った姿が見えてきます。ブロムホフは日本で自由に振る舞えたわけではありません。幕府の厳しい法や制度に従い、妻ティティアや幼い息子を出島に残すことも許されず、家族を送り返さなければなりませんでした。
川原慶賀や石崎融思によって描かれた「ブロムホフ家族図」には、商館長としての威厳だけではなく、夫として、父としての苦悩や無念さも描かれています。
彼はオランダの国益を背負って日本へやって来ました。しかし日本では、自国の力がそのまま通用することはありませんでした。日本の制度や礼儀、美意識、そして人々との交流を通して、彼自身も少しずつ変わっていったのだと思います。
彼が持ち帰ったものを見ると、そのことがよく分かります。茶碗や茶入、水指、釜、茶筅、茶巾、袱紗など、彼は茶道具を一つのまとまりとして集めています。ただ美しい器を集めたのではなく、茶の湯という文化そのものに深い関心を抱いていたからこその収集だったのでしょう。
帰国後も、日本は彼の人生から消えることはありませんでした。ビルクホーフェンには日本風の庭を造り、農場の一つを「ミヤコ」と名づけ、日本から送られた植物を育て、日本の品々を生涯大切にしました。
つまり彼は、日本の品物を持ち帰っただけではありません。日本での経験によって変わった自分自身を、オランダへ持ち帰ったのです。私は、ここにブロムホフという人物の本当の価値があると思っています。
彼は、単なる出島商館長でも、単なる日本美術の収集家でもありません。
ヨーロッパの価値観を持って日本へ来た一人のオランダ人が、日本文化と出会い、その価値を理解し、自らの人生の中へ取り込んでいった人物です。
だから私は、ブロムホフを「ヨーロッパ最初の茶人」と呼びたいのです。それは、日本人と同じように茶道を修めたという意味ではありません。茶道具を単なる珍しい美術品ではなく、一つの文化、一つの精神世界として受け止め、その価値をヨーロッパへ伝えようとした最初の人物だったと考えるからです。
ブロムホフは、オランダと日本のどちらか一方に属する人物ではありません。二つの文化の間に立ち、その両方を理解しようと努めた、日蘭交流史を象徴する人物だったのです。
※画像は、1935年から1950年頃の絵葉書。ホテル・ペンション・レストラン「ビルクホーフェン」。1824年、ビルクホーフェンの別荘地をヤン・コック・ブロムホフ(1779〜1853)が購入しました。彼は建物を改築して「ビルクホーフェン邸」とし、周囲には「日本の森」と呼ばれる一角を備えた庭園を造りました。市へ売却された後はホテル・レストランとして使用されていたビルクホーフェン邸は、このような姿をしていました。



