日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,325,500

18%

目標金額は7,000,000円

支援者数

42

募集終了まで残り

44

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,325,500

18%達成

あと 44

目標金額7,000,000

支援者数42

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

(2)ブロムホフとフィッセル

 慶賀の画業を考えるうえで、まず重要な人物が、本プロジェクトの主役であるヤン・コック・ブロムホフ(1779―1853)です。ブロムホフは文化6年(1809)に商館員として来日し、文化10年(1813)に一度日本を離れました。その後、文化14年(1817)に妻ティティア、幼い息子ヨハネス、乳母ペトロネラ、ジャワ人召使いマラティを伴って再来日し、同年から文政7年(1824)までオランダ商館長を務めました。

 ブロムホフは日本の風俗、宗教、工芸、生活文化に強い関心をもち、数多くの品々を収集するとともに、川原慶賀をはじめとする日本人絵師に絵画を注文しました。その中には、日本人の職業や祭礼、暮らしを描いた風俗図のほか、ブロムホフ一家を描いた家族図も含まれています。

 西洋人女性の出島滞在は幕府によって認められなかったため、ティティアたちは来日後、わずか数か月で日本を離れなければなりませんでした。そのため家族図は、ブロムホフにとって、日本で過ごした家族の時間をとどめる、いわば記念写真のような意味ももっていたかもしれません。

 現在、オランダ国立世界文化博物館、アムステルダム国立美術館、神戸市立博物館などに伝わる複数の「ブロムホフ家族図」は、西洋人女性の来日という極めて特異な出来事を背景に、ブロムホフと日本側双方の関心のもとで制作された可能性があります。

 ただし、ブロムホフ・コレクションに含まれる絵画のすべてを、川原慶賀一人の自筆と考えることはできません。「ブロムホフ家族図」には、石崎融思の作とされるもの、川原慶賀の署名をもつもの、作者名が確定していないものがあります。

 また、慶賀の署名や落款があるからといって、作品のすべてを慶賀一人が描いたとは限りません。江戸時代の絵画制作では、師匠の名のもとに門人や工房の絵師が制作に加わることは珍しくありませんでした。慶賀作品についても、慶賀本人、門人、工房絵師の関与を含めて検討する必要があります。

 次に重要なのが、ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(1799―1848)です。フィッセルは文政3年(1820)に来日し、文政12年(1829)まで出島に滞在しました。文政5年(1822)には、ブロムホフの江戸参府にも同行しています。

 フィッセルのコレクションには、慶賀による日本人の誕生から死に至るまでを連続的に描いた《人の一生》をはじめ、日本の婚礼、葬送、祭礼、職業、服装、遊戯、年中行事などを描いた風俗図が数多く含まれています。

これらは単なる土産物ではありません。日本人がどのように生まれ、育ち、働き、家族をもち、老い、そして死を迎えるのかを体系的に描き、日本という国と日本人の暮らしをオランダへ伝えるために制作された視覚資料でした。

 ブロムホフのコレクションにも日本の風俗を描いた作品は含まれていますが、それらが日本での体験や思い出を記録する性格を色濃くもつのに対し、フィッセルのコレクションには、日本社会を分類・整理し、一連の図像によって記録しようとする学術的・民族誌的な意図がうかがえます。

ブロムホフとフィッセルのコレクションは、ともに日本の社会や文化をオランダへ伝える目的をもって集められたものです。ただし、両者の収集には、重心の置き方に違いが認められます。

ブロムホフのコレクションには、日本の工芸品や生活用具、宗教関係品、武具、貨幣、茶道具、風俗図など、多分野にわたる品々が含まれており、収集品を整理した手稿目録も残されています。その意味では、彼も日本文化を体系的に紹介しようとした収集家でした。

 一方、その中には、妻ティティア、息子ヨハネス、乳母ペトロネラ、ジャワ人従者たちを描いた「ブロムホフ家族図」のように、本人の日本滞在中の出来事と直接結びついた作品があります。また、江戸参府の記録や、実際に接した茶の湯に関わる道具類なども、ブロムホフ自身が日本で見聞し、体験した文化を持ち帰るという性格を備えていました。ブロムホフのコレクションでは、日本文化を広く紹介しようとする意図と、自らの日本滞在を記憶にとどめようとする意図とが重なっていたと考えられます。

 これに対して、フィッセルのコレクションでは、日本社会を分類し、体系的に説明しようとする姿勢がより明確です。1829年に作成された収集目録は、地理、言語、古器物、楽器などの項目に分けられており、帰国後に刊行した『日本国の知識に関する寄与』も、地誌、宗教、衣食住、娯楽、動植物、手工業、建築、船舶など、日本の社会と文化を分野別に記述しています。

 私は未見ですが、慶賀による《人の一生》は、特定の人物の生涯ではなく、日本人の誕生、成長、労働、結婚、家族生活、老い、死、葬送までが連続的に描かれているそうです。これは、日本人とはどのように生きる人々なのかを、生涯の順序に沿ってオランダ人に説明するための視覚資料であったと考えられます。

 したがって、ブロムホフのコレクションには「自らが日本で見聞し、体験した文化を持ち帰る」という性格が比較的強く、フィッセルのコレクションには「日本社会を分野ごとに分類し、その全体像をオランダへ報告する」という意図が、より明確に表れているといえるでしょう。

 十九世紀前半、日本にはまだ写真は存在しませんでした。しかし、オランダ人が日本を知るために見た「日本の姿」の多くは、川原慶賀の筆によって描かれたものでした。

川原慶賀を「カメラを持たない写真家」と呼んだ所以です。

ブロムホフは「日本で見たもの」を描かせ、フィッセルは「日本という社会」を描かせました。慶賀はその双方の期待に応え、日本の一瞬の姿だけでなく、日本という社会そのものを後世へ伝える記録者となったのです。

その意味で、川原慶賀の画業は、日本近世最後の姿を映し出した「写真」であり、日本と西洋を結ぶ文化交流の記録でもあったといえるでしょう。

※写真は1833年刊 フィッセル著「Bijdrage tot de kennis van het Japansche Rijk」

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