日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,325,500

18%

目標金額は7,000,000円

支援者数

42

募集終了まで残り

44

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,325,500

18%達成

あと 44

目標金額7,000,000

支援者数42

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

 (3)シーボルトと川原慶賀

 川原慶賀の画業を語るうえで、シーボルトの存在を避けて通ることはできません。しかし、慶賀を単に「シーボルトの絵師」と呼ぶだけでは、その本当の姿を見誤ってしまいます。

 シーボルトは確かに慶賀の才能を見抜き、その能力を最大限に引き出した人物でした。しかし同時に、慶賀はシーボルトの指示どおりに絵を描くだけの画家ではありませんでした。二人は、日本という国を世界へ伝えるという共通の目的をもつ協力者でもあったのです。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796―1866)は、文政6年(1823)、出島オランダ商館の医師として長崎に来日しました。第一回目の日本滞在は1823年から1829年までです。文政11年(1828)に、いわゆるシーボルト事件が起こり、翌文政12年(1829)に国外追放となりました。

 シーボルトは医師であると同時に、植物学、動物学、地理学、民族学など幅広い分野に関心をもつ博物学者でした。来日の目的も、出島のオランダ人を診療することだけではありません。日本の自然、地理、歴史、制度、産業、生活文化を総合的に調査し、その成果をヨーロッパへ伝えることにありました。

 シーボルトは、日本各地から植物標本、動物の剥製、魚類、鉱物、種子、日用品、衣服、書籍、地図、工芸品など、膨大な資料を収集しました。

 しかし、標本だけでは伝えられないものがあります。

 植物がどのように枝を伸ばし、花を咲かせるのか。動物がどのような姿勢で動くのか。職人がどのように道具を使うのか。人々が祭礼や日々の暮らしの中で、どのような所作をしているのか。

 そうした情報は、実物の標本だけでは十分に伝えることができません。そこで必要とされたのが、対象を正確に観察し、細部まで描き出すことのできる絵師でした。

 慶賀はシーボルトの依頼を受け、植物、動物、魚類、昆虫、風景、人物、職人、道具、建築、町並みなど、実に膨大な数の作品を描きました。そこでは、日本絵画としての美しさだけではなく、対象の形態や色彩、構造や特徴を、できる限り正確に伝えることが求められました。

 シーボルトは慶賀について、長崎出身の優れた画家であり、とりわけ植物写生に卓越し、人物画や風景画にもヨーロッパの画法を取り入れていると高く評価しています。また、その作品自体が自らの著作の価値を支えているという趣旨の記述も残しています。

 これは、慶賀に対する同時代の外国人による極めて重要な評価です。慶賀は、シーボルトの指示どおりに絵を描くだけの補助者ではありませんでした。シーボルトが必要とする情報を理解し、それを最も効果的に視覚化する能力を備えた共同研究者だったのです。

 今日の言葉でいえば、画家であると同時に、博物画家であり、記録画家であり、科学調査の協力者でもありました。

 慶賀が西洋画法をどのように学んだのかについては、現在でも不明な点が少なくありません。従来は、石崎融思から洋風画の基礎を学び、さらに出島のオランダ人から遠近法や陰影法、写実的な観察法を学んだと説明されてきました。

 その中で重要な人物として挙げられるのが、カレル・ヒューベルト・デ・フィレニューフェです。デ・フィレニューフェは1825年に来日したオランダ商館員で、植物画にも深い知識をもっていました。シーボルトは、慶賀の優れた描写力を高く評価しながらも、西洋植物画に求められる科学的な表現を身につけさせるため、デ・フィレニューフェの知識を活用したと考えられています。

 その結果、慶賀は西洋植物画に見られる光と陰影、立体感、植物の構造を示す描き方などを吸収したとされています。長崎市の公式観光情報でも、慶賀はデ・フィレニューフェから西洋植物画の原則を学び、日本画の情趣と西洋科学の写実性を融合させた画家として紹介されています。

 ただし、慶賀の西洋画法を、デ・フィレニューフェ一人から学んだと考えるのは適切ではありません。石崎融思をはじめとする長崎の洋風画家、出島にもたらされた西洋版画や地図、博物図譜など、多くの知識を自ら吸収し、それらを日本画の材料と筆法の中へ取り込んだからこそ、慶賀独自の表現が生まれたのでしょう。

 文政9年(1826)、シーボルトはオランダ商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチュルレルの江戸参府に同行しました。慶賀もこれに従い、長崎から江戸までの長い旅に出ます。

 慶賀は、街道沿いの風景、宿場、橋、寺社、城下町、農村、山川、人々の暮らしなどを克明に描きました。これらの作品の一部は、後にシーボルトがヨーロッパで刊行した『日本』や『江戸参府紀行』の挿絵の原画となりました。

 ただし、慶賀の原画がそのまま印刷されたわけではありません。ヨーロッパの版画家が、慶賀の原画をもとに銅版画や石版画を制作し、書物の挿絵として刊行したのです。その過程で、構図や人物、背景、植物の形などが変更された例も少なくありません。それでも、慶賀の原画がなければ、シーボルトが十九世紀前半の日本を、これほど豊富な視覚資料とともにヨーロッパへ紹介することはできなかったでしょう。

 シーボルトは、日本を世界へ紹介した人物として広く知られています。しかし、その「日本」の姿を世界に見せたのは、慶賀の眼であり、その筆でした。

 慶賀の絵は、ヨーロッパの人々がまだ写真によって日本を見ることのできなかった時代、日本の自然や風俗、生活文化を伝える「眼」の役割を果たしたのです。

 写真のない時代に、日本の自然や風俗、人々の暮らしを記録し、その姿を世界へ伝えた画家。オランダで川原慶賀が「カメラを持たない写真家」と呼ばれるのは、その功績に対する最大級の賛辞なのです。

※写真はDutch personnel and Japanese women watching an incoming towed Dutch sailing ship at Dejima by Kawahara Keiga 望遠鏡を持つ男がシーボルトとされています。

シェアしてプロジェクトをもっと応援!

新しいアイデアや挑戦を、アプリで見つけるcampfireにアプリが登場しました!
App Storeからダウンロード Google Playで手に入れよう
スマートフォンでQRコードを読み取って、アプリをダウンロード!