
(4)国際都市・長崎が生んだ世界の画家
文政11年(1828)、シーボルトの所持品の中から、日本国外への持ち出しを禁じられていた地図などが見つかり、いわゆるシーボルト事件が起こりました。
慶賀も事件との関係を疑われ、取り調べを受けたとされています。しかし、慶賀がどの程度事件に関与したのか、どのような処分を受けたのかについては、史料上、明確ではありません。
その後も慶賀は絵師として活動を続けています。長崎歴史文化博物館の展覧会出品目録には、天保7年(1836)刊行の《慶賀写真草》や、天保12年(1841)頃の作品などが確認されています。少なくとも、1840年代まで慶賀またはその工房が制作活動を続けていたことがわかります。
また、オランダ国立世界文化博物館所蔵の《長崎湾と出島図屏風》は、1836年頃の制作と考えられています。シーボルトが日本を離れた1829年以後も、慶賀が西洋人の注文や長崎の国際環境と関わりながら制作を続けていたことを示す重要な作品です。
このことからも、川原慶賀の画業を「シーボルトの絵師」という言葉だけで説明することはできません。
慶賀は、ブロムホフ、フィッセル、シーボルトをはじめとする複数の外国人注文主と関わり、それぞれの関心と目的に応じて、人物画、風俗画、博物画、風景画、都市図、職人図などを描き分けました。
日本の絵画、中国絵画、西洋画法を一つに組み合わせ、長崎という国際都市でなければ生まれ得なかった表現をつくり上げた絵師だったのです。
※写真はオランダ国立世界文化博物館所蔵の《長崎湾と出島図屏風》



