
第2ゾーンの茶道具は、日常の茶道を楽しむために集めた道具群であったと思われます。この見所をお話する前に、長崎での茶道事情を少しご説明いたします。
鈴木康子氏の「一七世紀長崎における茶の湯―『日葡辞書』と『茶湯秘書』を中心として―」を読むと、長崎での茶道事情の一端を知ることが出来ます。長崎は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、日本におけるキリスト教布教の最前線でした。イエズス会は長崎にコレジオ(高等教育機関)や印刷所を設け、1603・1604年には『日葡辞書』を刊行しています。この辞書には、「茶の湯」「茶の湯者」「茶の湯数寄」「茶筅」「茶入」「数寄屋」など百項目を超える茶の湯関係語が収録されており、当時すでに茶の湯が宣教師にとって理解すべき日本文化であったことがわかります。
その背景には、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、日本文化への適応を重視し、各地のカザ(修院)に茶室を設け、茶の湯を心得た者を常住させ、来訪者を茶でもてなすよう命じた布教方針がありました。『日葡辞書』に多くの茶の湯関係語が収録された背景にも、このような日本文化への深い関心があったことがうかがえます。
さらに鈴木康子氏は、『日葡辞書』に収録された豊富な茶の湯関係語から、1600年前後には長崎を中心とする九州で、支配階級や外国貿易商人を中心に茶の湯がかなり行われていたと考察しています。
その後、17世紀末には堺の茶人・隠岐宗沕が長崎滞在中に『茶湯秘書』を著し、その写本が長崎に伝えられました。鈴木氏は、この史料を長崎における千家茶道受容の重要な一段階と評価しています。
さて、1817年、ヤン・コック・ブロムホフが滞在した長崎は、人口約5万人を擁する日本最大級の国際都市でした。しかし、その市街地は約80か町に過ぎず、現在の公立小学校の校区一つほどの範囲に人々が密集して暮らしていました。日本でも有数の人口密度をもつ都市であったと考えられています。
長崎は江戸や大坂とは異なる特徴をもつ町でした。幕府の直轄都市でありながら、その社会を支えていたのは町人たちでした。商人や職人だけでなく、オランダ通詞、唐通事、町乙名、会所役人など、貿易と行政を担う地役人も身分上は町人であり、長崎の経済・文化の中核を形成していました。
さらに長崎は、日本唯一の海外貿易港として、オランダ人、中国人、国内各地から集まる商人や職人、学者、医師、僧侶が絶えず往来する情報と文化の交差点でもありました。海外から西洋や中国の文化が流入するだけでなく、京都・大坂・堺など上方文化もこの地へ運ばれ、新たな文化が育まれていきました。
茶の湯もその一つです。このような文化的土壌の中で、ブロムホフは茶の接待を受け、日本の茶の湯に魅了されました。そして彼が持ち帰った茶道具一式は、単なる美術工芸品ではなく、十九世紀初頭の長崎で実践されていた茶の湯の姿を、そのまま伝える貴重な歴史資料となったのです。
※写真は1603年刊『日葡辞書』



