
前回、染付の茶巾筒と菓子器について、「亀山焼」ではないかと書かせていただきました。
そう考えた理由の一つは、出島の発掘調査から、ブロムホフの時代より少し下るものの、亀山焼の器が出土していることでした。ブロムホフが暮らした長崎と亀山焼との時間的、地理的な近さを考え、その可能性を考えたのです。
しかし、さらに調べていくと、染付菓子器の底に篆書款があり、「大清嘉慶年製」と読めることがわかりました。嘉慶年間は1796~1820年。ちょうどブロムホフが日本に滞在していた時代と重なります。もっとも、「大清嘉慶年製」という中国年号款があるからといって、直ちに中国製と断定することはできません。日本の磁器にも中国の年号款を写した例があり、有田などの日本磁器が中国磁器を写した可能性も否定できないからです。つまり、ブロムホフが暮らしていた当時の長崎には、中国から輸入された磁器、肥前の各窯で作られた磁器、そして長崎で作られた亀山焼が同時に存在していました。
では、中国・嘉慶年間の染付磁器とは、どのようなものだったのでしょうか。
嘉慶年間(1796~1820)の染付磁器は、乾隆時代の様式を受け継ぎながらも、次第に簡素な方向へと変化していきます。
特に特徴的なのは、大型の飾り物よりも、碗、皿、杯、蓋物、急須、茶托など、日常生活で使われる比較的小さな器が多くなることです。染付も、前期には濃く鮮やかで乾隆磁器に近いものが見られますが、後期になると淡い青や、やや黒ずんだ発色も現れ、民窯では絵付けも次第に大らかになっていきます。文様にも変化が見られます。乾隆期のように器面を文様でびっしりと埋め尽くすものから、白い磁肌を残して文様を配置し、その余白そのものを生かす構成が増えていきます。龍、鳳凰、花卉、松竹梅、瓔珞などに加え、漢詩を呉須で直接書いた「詩文器」も作られました。
つまり嘉慶染付は、「乾隆の精緻で華麗な磁器から、日常性と簡潔さをもった磁器へと移っていく時代の器」と捉えると、その特徴がわかりやすいように思います。
そのような視点から改めて二つの器を見ると、染付菓子器の文様と広く取られた余白、そして染付茶巾筒の外面に杜甫の七言律詩の前半部分「五夜漏聲催曉箭 九重春色醉仙桃
旌旗日暖龍蛇動 宮殿風微燕雀高」が書き巡らされ、内面には瓔珞文様が施されていることなどは、嘉慶期の染付磁器の特徴と重なる部分があるように思えます。
もちろん、これだけをもって中国・嘉慶年間の製品と断定することはできません。
しかし、この産地推定の変更によって、この茶箱について私が考えてきた本質が変わるわけではありません。むしろ、この茶箱は「国際都市・長崎」を一つの箱の中に凝縮したものだったのではないかという思いは、さらに強くなりました。
江戸時代の長崎には、中国からもたらされた磁器があり、肥前の有田、三川内、波佐見などから運ばれてくる磁器があり、さらに長崎では亀山焼が作られていました。
そこには日本人、中国人、オランダ人が行き交い、それぞれ異なる文化、技術、美意識、生活習慣が交錯していました。
ブロムホフの茶箱もまた、そのような長崎の文化環境の中で考える必要があります。
中国で作られた染付の器が、長崎で茶巾筒や菓子器として用いられる。
もともとは茶道具として作られた器ではなかったこれらの磁器が、日本人の目によって、あるいはブロムホフ自身の見立てによって、茶の湯にふさわしいものとして選ばれたのかもしれません。
菓子器には木蓋を合わせ、筒形の器には茶巾筒という新たな役割を与える。
そして、それらが日本の茶碗、茶器、茶杓、茶筅、帛紗、茶巾などとともに、一つの茶箱の中へ納められたのです。
異なる土地で生まれた器物が長崎に集まり、そこで出会い、日本の茶の湯という一つの文化体系の中に組み直される。
そして、その一式を見事にコーディネートしたのが、オランダ人のブロムホフだったのです。
一つの小さな茶箱の中に、中国、日本、オランダという三つの文化が重なっている。
それはまさしく、鎖国下にありながら海外に開かれ、中国とオランダを通じて世界とつながっていた、国際都市・長崎そのものの縮図といえるのではないでしょうか。
したがって、茶巾筒や菓子器が亀山焼ではなく、中国磁器であったとしても、この茶箱の意味が失われることはありません。むしろ中国磁器であるならば、この茶箱が語る物語はさらに豊かになります。中国で生まれた器が海を渡って長崎へ入る。長崎で日本の茶の湯の道具へと姿を変える。そして、それをオランダ人が携えて、再び海を渡る。
一つの器物が国境を越えるたびに、新しい意味と用途を与えられていく。ブロムホフの茶箱は、文政年間の長崎に集まった人、物、文化、そして美意識を小さな箱の中に封じ込めた、「国際都市・長崎の縮図」ともいうべき茶箱なのです。



