日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,625,500

23%

目標金額は7,000,000円

支援者数

54

24時間以内に4人からの支援がありました

募集終了まで残り

32

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,625,500

23%達成

あと 32

目標金額7,000,000

支援者数54

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

最新情報
【5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへ】
追加特典のお知らせ

このたび、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへの感謝の気持ちを込めて、特別な追加特典をご用意いたしました。

オランダ国立世界文化博物館では、日本コレクションのうち展示されているのはわずか約5〜6%。残り約95%は一般公開されることなく、収蔵庫で大切に保管されています。

そこで今回、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまを対象に、**オランダ国立世界文化博物館「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー(バックヤード見学)」**へご招待いたします。

通常は立ち入ることのできない収蔵庫や保存・修復エリアを学芸員の案内で見学し、展示室では決して見ることのできない世界屈指の日本コレクションや、文化財を未来へ受け継ぐための保存・修復の現場をご覧いただける貴重な機会です。

本ツアーは、すでに5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまも対象となりますこれからご支援くださる方も、同様にご参加いただけます。

ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー概要

  • ・実施期間:2027年3月1日〜2028年2月28日
  • ・会場:オランダ国立世界文化博物館(ライデン)
  • ・現地までの交通費・宿泊費は各自ご負担ください。
  • ・見学日時などの詳細は、ご支援者様へメールにてご相談させていただきます。


  • 【ご注意】
    本リターンはオランダで実施するプログラムです。海外でのリターン履行となるため、国内での実施に比べ、現地の事情や博物館の運営状況、社会情勢、天災、感染症、その他やむを得ない事情により、実施日程や内容が変更となる場合、または延期・中止となる場合があります。
    ご支援にあたっては、海外で実施するリターンであることをご理解いただき、このような国内よりも高い不確実性やリスクが伴う可能性があることを、あらかじめご了承くださいますようお願いいたします。
    なお、実施内容に変更が生じる場合は、ご支援者の皆様へ速やかにご案内いたします。


皆さまからの温かいご支援への感謝を込めて実現した、今回だけの特別な追加特典です。ぜひこの機会に、普段は決して見ることのできない「博物館の裏側」を体験していただければ幸いです。


はじめに〜このプロジェクトについて〜 

はじめまして。私は茶道家として活動し、茶文化の研究・普及活動を行っております、茶の文化フォーラム株式会社の堀内議司男(茶名・壷中庵 宗長)と申します。

 本プロジェクトは、江戸時代後期に長崎・出島オランダ商館長を務めたヤン・コック・ブロムホフゆかりの未公開作品――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」を、日本で修復し、本邦初公開へつなげるための文化保存プロジェクトです。

 2026年11月13日より、長崎・ハウステンボス美術館にて、

「 OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展(主催 ハウステンボス株式会社・日本経済新聞社)

が開催されます。

パレス ハウステンボス

ハウステンボス美術館

 本展では、ブロムホフが江戸時代に蒐集しヨーロッパへ持ち帰った茶道具約120点を、約200年ぶりに日本へ里帰りさせ、本邦初公開いたします。

 そして今回、この展覧会にあわせて、長年公開されることのなかった「ブロムホフ家族図」を修復し、日本で初めて公開したいと考えています。


ブロムホフとは何者だったのか

2009年にライデン国立博物館(現オランダ国立世界文化博物館)のマティー・フォラー先生の講義を拝聴して以来、私はヤン・コック・ブロムホフ(1779~1853)という人物に深い関心を抱いてまいりました。

彼は、江戸時代の出島オランダ商館長であり、日本初の英語辞書を編纂した人物としても知られています。

オランダ・アムステルダムで生まれ、フランス革命戦争やナポレオン戦争を経て、1805年にバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)でオランダ東インド会社に勤務しました。

1809年に出島の荷倉役(倉庫番)として来日し、商館長ヘンドリック・ドゥーフの推薦で長崎の通詞たちに英語を教え、英語辞書の編纂を始めました。1813年、イギリス軍の捕虜となり、一時オランダへ帰国しましたが、1817年に商館長として再び来日します。


オランダ国立世界文化博物館鎖国下、日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口であった出島。当時、ヨーロッパではナポレオン戦争の影響によりオランダがフランスに併合されましたが、その間も出島には唯一オランダ国旗が翻り続け、日本と西洋を結ぶ窓口としての役割を果たしていました。

オランダ再独立後、出島オランダ商館長として赴任したブロムホフは、途絶えかけていた日蘭貿易の回復に尽力するとともに、日本の文化や動植物の調査・研究を積極的に支援しました。

また、後に日本研究の先駆者として名を残す フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの活動の基盤を築いたのもブロムホフでした。

江戸参府では徳川家斉に謁見し、多くの蘭学者たちと交流。その最前線で日本文化に深い関心を寄せたブロムホフは、茶道具、絵画、工芸品、人物模型、出島模型など、多岐にわたる日本文化資料を蒐集しました。

帰国後、それらをオランダ国王へ売却したことで、ヨーロッパ最初の本格的日本コレクションが成立します。19世紀初頭の日本文化を今日に伝える貴重な記録であり、日本とヨーロッパの文化交流の歴史を物語る遺産となっています。

特に興味深いのは、彼が収集した茶道具です。それは単なる「異国趣味の収集品」ではありませんでした。点前が成立するほど体系的に揃えられており、彼が「茶の湯」という文化そのものを理解しようとしていたことが分かります。

 私は長年茶道に携わる中で、ブロムホフは単なる収集家ではなく、ヨーロッパ“最初の茶人”であったのではないかと考えるようになりました。

昨年、オランダで出会った一枚の絵

昨年、展覧会の企画調査のため、オランダ・ライデンのオランダ国立世界文化博物館を訪問しました。そこで出会ったのが、川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。

この作品は長らくブロムホフ家の子孫によって大切に保管されてきました。しかし、その存在は知られていたものの、一般公開されることはありませんでした。

そして昨年、オランダ国立世界文化博物館へ寄贈され、公的コレクションの一部となったのです。

 作品寸法は、83 × 158.4 cm。額装を含めると 98.9 × 174.3 cm に及びます。

 実際に対面すると、その圧倒的な存在感に言葉を失いました。人物の表情、衣装の描写、細部に宿る空気感――。そこには、単なる異国風俗画ではない、「特別な時間」が描かれていました。

 オランダ国立世界博物館蔵・川原慶賀筆 ブロムホフ家族図

川原慶賀という絵師

川原慶賀筆「出島図」
オランダ国立世界文化博物館
川原慶賀(1786年~1860年頃)は、江戸時代後期の長崎で活躍した絵師です。出島を通じて来日したオランダ人や外国人との交流が盛んであった長崎にあって、彼は西洋人から高く評価され、とりわけシーボルトの依頼を受けて数多くの作品を制作したことで知られています。

慶賀は、日本の風俗、職人の仕事、祭礼、街並み、動植物、そして人々の暮らしを、驚くほど緻密な観察眼によって描き残しました。その作品は単なる絵画ではなく、写真の存在しなかった時代の日本を伝える貴重な視覚資料でもあります。

シーボルトは、日本の自然や文化をヨーロッパへ紹介するために膨大な資料を収集しましたが、その多くを支えたのが慶賀の筆でした。慶賀が描いた植物図譜や風俗画は、後にヨーロッパで刊行されたシーボルトの著作にも活用され、日本研究の発展に大きく貢献しています。

そして、《ブロムホフ家族図》は、慶賀の作品の中でも特に重要な一枚です。

この作品には、出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、その妻ティティア、息子ヨハネス、乳母のペトロネラ、そしてインドネシア系の召使が描かれています。鎖国下の日本において、西洋人一家が揃って描かれた例は極めて稀であり、当時の国際交流の実像を今に伝える貴重な記録となっています。

また、この作品は単なる家族肖像画ではありません。西洋の肖像画的な構成を取り入れながらも、日本人絵師ならではの細やかな観察によって、衣服の質感や人物の表情、所持品に至るまで克明に描写されています。そこには異国の人々への好奇心と敬意、そして長崎という国際都市ならではの視点を見ることができます。

《ブロムホフ家族図》は、美術作品であると同時に、出島を舞台とした日蘭交流の歴史を映し出す「時代の証言者」なのです。

なぜ、同じ構図の作品が複数存在するのか

ブロムホフの商館長としての来日は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。ブロムホフが家族を伴っていたからです。なかでも、出島に現れた西洋女性の姿は極めて珍しく、人々の強い関心を集めました。

そのため、長崎奉行所は絵師に命じて一家の姿を描かせ、その画像はさまざまな形で模写・再構成されながら広く流布していきます。肉筆画として描き継がれただけでなく、長崎版画として制作され、日本各地へと伝えられました。

現在でも数多くの異版や類似作品が残されており、その中には本来の人物像から離れ、「西洋婦人図」や「阿蘭陀夫婦図」として一般化したものも少なくありません。また、実際にはブロムホフ夫妻とは無関係でありながら、その名を冠して伝えられた作品も見られます。

それほどまでに、ブロムホフ一家の来航、とりわけ西洋女性の存在は、鎖国下の日本人の想像力をかき立てる出来事であったのです。[参考文献:東京大学所蔵の二つの「ブロムホフ家族図」松井洋子・高島晶彦著]

慶賀筆とされる同構図の家族図は世界に数点確認されていますが、本作品はその中でも最大の画面を有し、筆致も最も精緻であることから、現存作品群の中で最初に制作された可能性が高いと考えられます。

オランダ国立世界文化博物館の主任学芸員ダーン・コック氏は、興味深い見解を示しています。江戸時代、慶賀が描いた作品は長崎奉行所の検閲を受ける必要がありました。

一度、ある形式――この場合「背景を持たず、ソファに座るブロムホフ家族」という構図――について許可が下りると、その後は改めて検閲を受けることなく、同構図を繰り返し制作できたのではないかというのです。

 これは長崎湾や出島風景を描いた慶賀作品にも共通して見られる特徴です。つまり本作品は、単なる肖像画ではなく、鎖国時代における文化交流と検閲制度の痕跡をも伝える歴史資料でもあるのです。

この絵が描いた「最後の時間」

 この家族図は、ブロムホフが家族とともに長崎・出島で過ごした、かけがえのない時間を描いた肖像画です。当時、日本は鎖国体制下にあり、外国人の滞在には厳しい制限がありました。特に女性や子どもの渡航は許されていませんでした。しかしブロムホフは、その禁を越え、妻ティティアと幼い子どもを伴って来日します。けれど、その滞在は長く続きませんでした。家族はわずか三ヶ月ほどで日本を離れることになります。

 そして――

 それは、家族にとって永遠の別れでもありました。

この絵は、その別れを前にした、家族がともに過ごした最後の時間を描いた肖像です。他の同構図作品と⽐べても、⼈物の表情にはどこか厳しさと切迫感がにじみ出ており、当時の彼らが置かれていた状況が静かに迫ってきます。

異国の地で暮らす不安 
家族が引き離される予感

その時間が、この一枚には刻まれているのです。

ティティア ― 日本人を魅了した最初の西洋女性

わずかな滞在であったにも関わらず、妻ティティアは、西洋女性として初めて来日した存在として長崎の人々に強い印象を残しました。その姿は日本三大土人形の一つでもある地元長崎の「古賀人形」にも表され、「西洋婦人」として現在に至るまで記憶され続けています。

また、ティティアは、日本を訪れた最初の西洋女性として知られるだけではありません。彼女はスクエア・ピアノを出島へ持ち込み、日本で初めて西洋ピアノを演奏した人物としても知られています。

さらに、ティティアが残した書簡には、日本人から抹茶でもてなしを受けた様子が記されています。現存する史料から確認できる限りでは、ティティアは抹茶を飲んだ最初の西洋女性の一人と考えられます。

ブロムホフが茶道具を蒐集し、日本文化への理解を深めていた一方で、ティティア自身もまた日本の風俗や文化に強い関心を寄せていました。出島で供された一碗の抹茶は、単なる飲み物ではなく、日本人のもてなしの心に触れる体験だったことでしょう。

日本で初めてピアノを奏でた西洋女性。そして、日本人から抹茶でもてなしを受けた最初の西洋女性。その存在は、ブロムホフ一家が日蘭交流の歴史において特別な位置を占めていることを物語っています。

なぜ今修復は必要なのか

企画調査のためライデンを訪れた際、私はダーンさんから、この《ブロムホフ家族図》の保存状態について詳しくお話を伺いました。

作品は約200年という長い歳月を経ており、画面や額装には経年による劣化が見られます。しかし現在、オランダ国立世界文化博物館には、この作品を本格的に修復するための十分な体制が整っていないとのことでした。

その一方で、日本には江戸時代の絵画や表装に関する高度な修復技術が継承されており、本作品についても日本で修復を行うことが現実的かつ最善の選択肢であることを知りました。

私は長年にわたりブロムホフとそのコレクションを追い続けてきましたが、この貴重な作品を未来へ伝えるためには、今まさに修復が必要な時期に来ていることを強く実感しました。

「この展覧会という歴史的な機会に、この作品を修復し、日本で公開したい」と。

この作品は単なる西洋人肖像画ではありません。江戸時代、日本とオランダが唯一交流を続けていた時代の記憶であり、異国で生きた家族の記録であり、そして日本人絵師・川原慶賀が見つめた“世界”そのものなのです。 

 修復を担う人々

 本作品の修復は、京都の修復工房「宇佐美修徳堂」に依頼いたします。


修復を担当するのは、長年文化財修復に携わってきた宇佐美直治さん、そして次世代を担う宇佐美直希さんです。

文化財修復は、単に傷みを直す作業ではありません。作品が持つ時間や歴史を尊重しながら、未来へ受け渡していく極めて繊細な仕事です。

 今回の修復では、作品本来の姿を損なうことなく、完全公開と次世代への継承を可能にする修復を目指します。これは一枚の絵画を守るだけでなく、日本の修復技術そのものを未来へ繋ぐ取り組みでもあります。

 オランダ国立世界文化博物館
学芸員 ダーン・コックさんからのメッセージ


【ブロムホフ家族図の現在の状況】



修復スケジュール(予定)

 本プロジェクトでは、作品の安全性を最優先に、オランダと日本の関係者が連携しながら修復・公開準備を進めてまいります。


200年の時を経て蘇る『ブロムホフ家族図』
修復を経て、いよいよ日本の皆様の前に姿を現します

本プロジェクトでご支援いただきたい内容

 本クラウドファンディングでは、「ブロムホフ家族図」の修復および輸送費用へのご支援をお願いしております。

 具体的には、

・オランダ―日本間の往復輸送費
・日本国内輸送費
・修復費
・保存・展示準備費
・上記プロジェクトに関わる諸費用 

 などに充てさせていただきます。

 文化を未来へつなぐために
このプロジェクトは、一枚の絵画修復にとどまるものではありません。

江戸時代、日本とヨーロッパが交わった記憶
異国で生きた家族の時間
日本人絵師が見つめた世界

 それらを、未来へ受け渡すための試みです。もしこの作品が修復されなければ、この絵は静かに時の中へ埋もれていくかもしれません。だからこそ今、この作品をよみがえらせたい。

200年の時を超えて受け継がれてきたこの作品を、次の時代へ手渡したい。

 どうか皆さまのお力をお貸しください。

 心より、ご支援をお願い申し上げます。

茶道家 堀内議司男(壷中庵・宗長)


支援金の使い道

集まった支援金は以下に使用する予定です。

  • 人件費

  • リターン仕入れ費

  • ・オランダ―日本間の往復輸送費 ・日本国内輸送費 ・修復費 ・その他上記プロジェクトにかかる費用

※目標金額を超えた場合はプロジェクトの運営費に充てさせていただきます。

支援に関するよくある質問

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最新の活動報告

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  • 展覧会のみどころを少しだけご紹介したいと思います。ブロムホフ・コレクションの中でも、まずご覧いただきたいのが、コレクションの頂点を飾る真台子道具一式です。 真台子を中心に、風炉釜、天目茶碗、天目台、皆具(水指・杓立・建水)、茶入、茶臼、茶筅、茶巾、柄杓、袱紗、炭、火箸、香合、灰匙、羽箒、さらには碾茶まで、真台子の点前に必要な道具が、一つのまとまりとして収集されています。皆具のうち水指だけは残念ながら現在所在がわかっていませんが、それでもなお、このコレクションが計画的に収集されたことは明らかです。 注目すべきは、それらが名品を寄せ集めた美術コレクションではないという点です。茶碗だけでなく、茶筅や茶巾、柄杓、袱紗、炭、さらには碾茶を抹茶に挽く石臼に至るまで、実際に点前を行うために必要な道具と消耗品が揃えられています。つまりブロムホフが持ち帰ろうとしたのは、個々の茶道具ではなく、それらを用いて点てられる一碗の茶、「茶の湯そのもの」だったのです。とりわけ貴重なのが、文政三年(1820)に詰められた碾茶「初昔」です。現在残るのは未開封の一袋だけですが、十九世紀初頭のオランダで茶が上流社会の社交文化として広く親しまれていたことを考えると、ブロムホフは実際には相当量の碾茶を持ち帰っていた可能性があります。 また、一部が茶色く変色した茶巾も残されています。これは二百年という歳月による変色だけではなく、実際に茶碗を清めた際の残り茶によって染まった痕跡である可能性もあります。もしそうであれば、この茶巾は約二百年前に実際の茶席で使われたことを今に伝える、きわめて貴重な歴史の証人といえるでしょう。 真台子は、今も昔も茶の湯において最も格式の高い点前の一つです。その一式を最優先で収集したことは、ブロムホフが珍しい日本美術を集めようとしたのではなく、日本の正式な茶道をヨーロッパへ紹介しようと考えていたことを示しているように思われます。 ブロムホフは帰国後、自ら収集した日本コレクションを国王ウィレム一世に披露しました。その頃のオランダ王宮には、王妃ヴィルヘルミーネの私室に「ティーサロン」と呼ばれる部屋があり、国王が宮殿で執務する日は、毎日午後四時になると、国王は王妃や侍女たちとともにそこで茶を楽しんでいたことが記録されています。 また、王妃ヴィルヘルミーネは、自ら絵画を学び、展覧会に足を運び、美術館を保護し、芸術家を支援した、当時を代表する芸術の後援者でした。一方、国王ウィレム一世は、1816年に王立絵画館を創設し、その後、現在のマウリッツハイス美術館へと発展する美術館事業を推進するなど、オランダの文化政策の礎を築いた人物でもあります。このような芸術と文化を重んじる王室に、ブロムホフは日本から持ち帰った茶道具を紹介したのです。 残念ながら、日本の茶道が王宮で実際に披露されたことを示す直接の史料は、現在のところ確認されていません。しかし、毎日午後四時になると茶を楽しむティーサロンを備えた宮廷で、格式高い真台子飾り一式が披露され、日本の茶の湯が紹介された可能性は十分に考えられます。 約二百年前、オランダ王宮のティーサロンで、日本の石臼で碾茶が挽かれ、風炉に湯が沸き、天目茶碗に抹茶が点てられる――。 その情景を想像しながら展示をご覧いただくと、一つひとつの道具がたんなる美術品ではなく、日本とヨーロッパを結んだ文化交流の証人として、より鮮やかに語りかけてくることでしょう。 本展の「OTEMAE」というタイトルには、まさにその思いが込められています。ブロムホフがヨーロッパへ持ち帰ったのは、美しい茶道具だけではありません。その道具を用いて人をもてなし、心を通わせる「茶の湯そのもの」だったのです。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 杓立 建水 蓋置 柄杓 火箸 (水指は所在不明) もっと見る
  • 昨日、「OTEMAE~ブロムホフ・茶道を愛した異邦人~」展が正式にプレスリリースされました。約20年にわたり温めてきた構想が、ようやく大きな一歩を踏み出しました。この展覧会が開催できますのも、これまで支えてくださった多くの皆様のお力添えのおかげです。心より御礼申し上げます。また、川原慶賀筆《ブロムホフ家族図》修復プロジェクトのクラウドファンディングを開始してから、早くも1か月が経ちました。これまでにご支援くださった皆様、投稿をシェア・リポストしてくださった皆様、そして陰ながら応援してくださっている皆様に、改めて深く感謝申し上げます。おかげさまで多くの方にこのプロジェクトを知っていただくことができました。しかし、目標金額の達成には、まだ皆様のお力添えが必要です。今回のクラウドファンディングは、単に一枚の絵を修復するためのものではありません。世界初公開となる《ブロムホフ家族図》を修復し、日本へ里帰りさせるとともに、川原慶賀という画家の歴史的評価を見直し、新たな美術史を切り拓く挑戦でもあります。これまで川原慶賀は、「出島絵師」「シーボルトの絵師」として語られることが少なくありませんでした。しかし、ブロムホフ・コレクションの研究を進めるなかで、私は慶賀が単なる注文絵師ではなく、日本文化を世界へ伝えた国際的な画家であったことが、次第に見えてきました。もし、この展覧会、そしてクラウドファンディングを契機に、川原慶賀の美術史上の位置づけが、「長崎派の代表画家」という評価から一歩進み、十九世紀初頭の日欧文化交流を担った国際的画家として再評価され、さらには日本美術史に新たな一頁を刻むことになることを願っています。皆様からいただくご支援は、作品の修復だけではありません。川原慶賀という画家の新しい美術史を築く研究を支え、その歴史を未来へ伝える力になります。ぜひ、この歴史的な挑戦にご参加ください。川原慶賀再評価の一員として、この新たな挑戦にご参加いただければ幸いです。なお、ご支援は【お一人で何度でも】していただくことができます。また、「CAMPFIREの利用方法がわからない」「サイトにうまく入れない」というお声もいただいております。そのような場合は、どうぞお気軽に私までご連絡ください。メッセンジャー、またはメールにて、ご案内・お手伝いさせていただきます。E-mail:[ kochuan@me.com ]一人でも多くの皆様と、この歴史的なプロジェクトを成功させたいと願っております。引き続き、ご支援、ご協力、そして情報の拡散を、どうぞよろしくお願い申し上げます。【開催概要】展覧会タイトル:OTEMAE~ブロムホフ 茶道を愛した異邦人~会期:2026年11月13日(金)~2027年2月21日(日) (97日間)※2027年1月12日(火)~1月15日(金)はハウステンボス休園に伴い休館会場:ハウステンボス美術館(パレス ハウステンボス内)時間:10時~18時(最終入館は30分前)※ハウステンボスの営業時間やイベント開催により変動あり主催:ハウステンボス株式会社、日本経済新聞社特別協賛:ヤマト運輸株式会社協賛:FWD生命保険株式会社、西日本新聞社、株式会社文明堂総本店、株式会社ジャパネットホールディングス、コカ・コーラボトラーズジャパン株式会社、日本航空株式会社後援:オランダ王国大使館、長崎県、長崎県教育委員会、佐賀県、佐賀県教育委員会、佐世保市、佐世保市教育委員会、遠州茶道宗家、(公財)小堀遠州顕彰会、遠州流茶道連盟九州地区企画協力:茶の文化フォーラム株式会社、株式会社GSTYLE特別協力:オランダ世界文化博物館詳細は https://www.huistenbosch.co.jp/aboutus/company/pdf/260728_pr20.pdf もっと見る
  • 19世紀初頭のオランダの喫茶文化 ブロムホフが日本へ赴任した19世紀初頭のオランダでは、茶はすでに単なる嗜好品ではなく、生活文化の一部として深く定着していました。その実態をオランダ民俗学者J.J.フォスカイル(J.J. Voskuil)の『オランダにおけるコーヒーと茶の普及(De verspreiding van koffie en thee in Nederland)』で語られています フォスカイルは、17世紀から20世紀にかけての茶とコーヒーの普及を、遺産目録、食生活の記録、地方史料、生活誌など多様な史料をもとに分析し、その普及を四つの段階に整理しています。 第一段階は17世紀。この時期、茶は「茶会(theevisite)」という社交文化の中で広まり、人々が集い語り合う「親しさ(*gezelligheid*)」を象徴する飲み物となった。 第二段階は18世紀。この社交文化は家庭へと取り込まれ、茶は家族が共に過ごす時間を演出する「家庭の親密さ(huiselijke intimiteit)」の文化へと発展しました。一方、コーヒーはより早く庶民へ浸透し、「民衆の飲み物」として全国に広まっていきます。 第三段階は、食生活そのものが変化です。朝食のビールはコーヒーへ置き換えられ、やがてコーヒーは朝食の定番となります。しかしフリースラントなど一部の地域では、古くからの茶会文化の影響により、朝食でも茶が飲まれていました。 第四段階では、茶は大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたため、19世紀になると、茶は朝食や午後の喫茶へさらに広がり、地域によってはコーヒーに代わる飲み物として受け入れられていきます。フォスカイルは、茶が朝食へ広まった最大の理由を、その高い社会的威信・ステイタスに求めています。 彼によれば、茶は単なる飲料ではなく、社交や家庭生活、教養を象徴する文化として受け止められていました。フォスカイルが繰り返し強調するのは、茶が大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたという点です。このことは、日本の茶道と重なる部分があります。日本の茶道もまた、一碗の茶を飲む行為そのものではなく、道具、礼法、もてなしを通して、精神性や教養、美意識を表現する文化として発展してきました。もちろん、オランダの茶会と日本の茶道は起源も目的も異なります。しかし、茶に社会的価値や文化的威信を見いだしていたという点では、両者には共通する側面が認められます。 ブロムホフが長崎へ赴任した1817年は、まさにフォスカイルがいう第三段階から第四段階への移行期にあたります。つまりブロムホフは、茶を単なる飲料ではなく、社交、家庭生活、教養、さらには社会的威信を象徴する文化として受け止める社会の中で育った人物でした。そのような文化的背景に育ったブロムホフが、日本で出会った茶の湯に深い関心を抱いたのは、決して偶然ではなかったのでしょう。彼はそれを単なる異国の喫茶法ではなく、一つの高度な生活文化として受け止めたと考えられます。 さらに注目すべきは、ブロムホフが持ち帰ったのが、茶碗、茶釜、茶入、水指、茶杓、炭、茶、さらには真台子までを含む点前を構成する茶道具一式であったことです。そこからは、彼の関心が工芸品の蒐集にとどまらず、「茶の湯」という総合的な文化そのものに向けられていたことがうかがえます。彼がヨーロッパへ伝えようとしたのは、個々の美術品ではなく、茶の湯の全体像だったのでしょう。※写真はニコラース・アールトマン(Nicolaes Aartman)作「《室内で茶を飲む人々》(Interieur met theedrinkend gezelschap)」:1723年~1760年 もっと見る

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