日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,880,500

26%

目標金額は7,000,000円

支援者数

66

24時間以内に3人からの支援がありました

募集終了まで残り

23

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,880,500

26%達成

あと 23

目標金額7,000,000

支援者数66

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

最新情報
【5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへ】
追加特典のお知らせ

このたび、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへの感謝の気持ちを込めて、特別な追加特典をご用意いたしました。

オランダ国立世界文化博物館では、日本コレクションのうち展示されているのはわずか約5〜6%。残り約95%は一般公開されることなく、収蔵庫で大切に保管されています。

そこで今回、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまを対象に、**オランダ国立世界文化博物館「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー(バックヤード見学)」**へご招待いたします。

通常は立ち入ることのできない収蔵庫や保存・修復エリアを学芸員の案内で見学し、展示室では決して見ることのできない世界屈指の日本コレクションや、文化財を未来へ受け継ぐための保存・修復の現場をご覧いただける貴重な機会です。

本ツアーは、すでに5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまも対象となりますこれからご支援くださる方も、同様にご参加いただけます。

ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー概要

  • ・実施期間:2027年3月1日〜2028年2月28日
  • ・会場:オランダ国立世界文化博物館(ライデン)
  • ・現地までの交通費・宿泊費は各自ご負担ください。
  • ・見学日時などの詳細は、ご支援者様へメールにてご相談させていただきます。


  • 【ご注意】
    本リターンはオランダで実施するプログラムです。海外でのリターン履行となるため、国内での実施に比べ、現地の事情や博物館の運営状況、社会情勢、天災、感染症、その他やむを得ない事情により、実施日程や内容が変更となる場合、または延期・中止となる場合があります。
    ご支援にあたっては、海外で実施するリターンであることをご理解いただき、このような国内よりも高い不確実性やリスクが伴う可能性があることを、あらかじめご了承くださいますようお願いいたします。
    なお、実施内容に変更が生じる場合は、ご支援者の皆様へ速やかにご案内いたします。


皆さまからの温かいご支援への感謝を込めて実現した、今回だけの特別な追加特典です。ぜひこの機会に、普段は決して見ることのできない「博物館の裏側」を体験していただければ幸いです。


はじめに〜このプロジェクトについて〜 

はじめまして。私は茶道家として活動し、茶文化の研究・普及活動を行っております、茶の文化フォーラム株式会社の堀内議司男(茶名・壷中庵 宗長)と申します。

 本プロジェクトは、江戸時代後期に長崎・出島オランダ商館長を務めたヤン・コック・ブロムホフゆかりの未公開作品――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」を、日本で修復し、本邦初公開へつなげるための文化保存プロジェクトです。

 2026年11月13日より、長崎・ハウステンボス美術館にて、

「 OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展(主催 ハウステンボス株式会社・日本経済新聞社)

が開催されます。

パレス ハウステンボス

ハウステンボス美術館

 本展では、ブロムホフが江戸時代に蒐集しヨーロッパへ持ち帰った茶道具約120点を、約200年ぶりに日本へ里帰りさせ、本邦初公開いたします。

 そして今回、この展覧会にあわせて、長年公開されることのなかった「ブロムホフ家族図」を修復し、日本で初めて公開したいと考えています。


ブロムホフとは何者だったのか

2009年にライデン国立博物館(現オランダ国立世界文化博物館)のマティー・フォラー先生の講義を拝聴して以来、私はヤン・コック・ブロムホフ(1779~1853)という人物に深い関心を抱いてまいりました。

彼は、江戸時代の出島オランダ商館長であり、日本初の英語辞書を編纂した人物としても知られています。

オランダ・アムステルダムで生まれ、フランス革命戦争やナポレオン戦争を経て、1805年にバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)でオランダ東インド会社に勤務しました。

1809年に出島の荷倉役(倉庫番)として来日し、商館長ヘンドリック・ドゥーフの推薦で長崎の通詞たちに英語を教え、英語辞書の編纂を始めました。1813年、イギリス軍の捕虜となり、一時オランダへ帰国しましたが、1817年に商館長として再び来日します。


オランダ国立世界文化博物館鎖国下、日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口であった出島。当時、ヨーロッパではナポレオン戦争の影響によりオランダがフランスに併合されましたが、その間も出島には唯一オランダ国旗が翻り続け、日本と西洋を結ぶ窓口としての役割を果たしていました。

オランダ再独立後、出島オランダ商館長として赴任したブロムホフは、途絶えかけていた日蘭貿易の回復に尽力するとともに、日本の文化や動植物の調査・研究を積極的に支援しました。

また、後に日本研究の先駆者として名を残す フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの活動の基盤を築いたのもブロムホフでした。

江戸参府では徳川家斉に謁見し、多くの蘭学者たちと交流。その最前線で日本文化に深い関心を寄せたブロムホフは、茶道具、絵画、工芸品、人物模型、出島模型など、多岐にわたる日本文化資料を蒐集しました。

帰国後、それらをオランダ国王へ売却したことで、ヨーロッパ最初の本格的日本コレクションが成立します。19世紀初頭の日本文化を今日に伝える貴重な記録であり、日本とヨーロッパの文化交流の歴史を物語る遺産となっています。

特に興味深いのは、彼が収集した茶道具です。それは単なる「異国趣味の収集品」ではありませんでした。点前が成立するほど体系的に揃えられており、彼が「茶の湯」という文化そのものを理解しようとしていたことが分かります。

 私は長年茶道に携わる中で、ブロムホフは単なる収集家ではなく、ヨーロッパ“最初の茶人”であったのではないかと考えるようになりました。

昨年、オランダで出会った一枚の絵

昨年、展覧会の企画調査のため、オランダ・ライデンのオランダ国立世界文化博物館を訪問しました。そこで出会ったのが、川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。

この作品は長らくブロムホフ家の子孫によって大切に保管されてきました。しかし、その存在は知られていたものの、一般公開されることはありませんでした。

そして昨年、オランダ国立世界文化博物館へ寄贈され、公的コレクションの一部となったのです。

 作品寸法は、83 × 158.4 cm。額装を含めると 98.9 × 174.3 cm に及びます。

 実際に対面すると、その圧倒的な存在感に言葉を失いました。人物の表情、衣装の描写、細部に宿る空気感――。そこには、単なる異国風俗画ではない、「特別な時間」が描かれていました。

 オランダ国立世界博物館蔵・川原慶賀筆 ブロムホフ家族図

川原慶賀という絵師

川原慶賀筆「出島図」
オランダ国立世界文化博物館
川原慶賀(1786年~1860年頃)は、江戸時代後期の長崎で活躍した絵師です。出島を通じて来日したオランダ人や外国人との交流が盛んであった長崎にあって、彼は西洋人から高く評価され、とりわけシーボルトの依頼を受けて数多くの作品を制作したことで知られています。

慶賀は、日本の風俗、職人の仕事、祭礼、街並み、動植物、そして人々の暮らしを、驚くほど緻密な観察眼によって描き残しました。その作品は単なる絵画ではなく、写真の存在しなかった時代の日本を伝える貴重な視覚資料でもあります。

シーボルトは、日本の自然や文化をヨーロッパへ紹介するために膨大な資料を収集しましたが、その多くを支えたのが慶賀の筆でした。慶賀が描いた植物図譜や風俗画は、後にヨーロッパで刊行されたシーボルトの著作にも活用され、日本研究の発展に大きく貢献しています。

そして、《ブロムホフ家族図》は、慶賀の作品の中でも特に重要な一枚です。

この作品には、出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、その妻ティティア、息子ヨハネス、乳母のペトロネラ、そしてインドネシア系の召使が描かれています。鎖国下の日本において、西洋人一家が揃って描かれた例は極めて稀であり、当時の国際交流の実像を今に伝える貴重な記録となっています。

また、この作品は単なる家族肖像画ではありません。西洋の肖像画的な構成を取り入れながらも、日本人絵師ならではの細やかな観察によって、衣服の質感や人物の表情、所持品に至るまで克明に描写されています。そこには異国の人々への好奇心と敬意、そして長崎という国際都市ならではの視点を見ることができます。

《ブロムホフ家族図》は、美術作品であると同時に、出島を舞台とした日蘭交流の歴史を映し出す「時代の証言者」なのです。

なぜ、同じ構図の作品が複数存在するのか

ブロムホフの商館長としての来日は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。ブロムホフが家族を伴っていたからです。なかでも、出島に現れた西洋女性の姿は極めて珍しく、人々の強い関心を集めました。

そのため、長崎奉行所は絵師に命じて一家の姿を描かせ、その画像はさまざまな形で模写・再構成されながら広く流布していきます。肉筆画として描き継がれただけでなく、長崎版画として制作され、日本各地へと伝えられました。

現在でも数多くの異版や類似作品が残されており、その中には本来の人物像から離れ、「西洋婦人図」や「阿蘭陀夫婦図」として一般化したものも少なくありません。また、実際にはブロムホフ夫妻とは無関係でありながら、その名を冠して伝えられた作品も見られます。

それほどまでに、ブロムホフ一家の来航、とりわけ西洋女性の存在は、鎖国下の日本人の想像力をかき立てる出来事であったのです。[参考文献:東京大学所蔵の二つの「ブロムホフ家族図」松井洋子・高島晶彦著]

慶賀筆とされる同構図の家族図は世界に数点確認されていますが、本作品はその中でも最大の画面を有し、筆致も最も精緻であることから、現存作品群の中で最初に制作された可能性が高いと考えられます。

オランダ国立世界文化博物館の主任学芸員ダーン・コック氏は、興味深い見解を示しています。江戸時代、慶賀が描いた作品は長崎奉行所の検閲を受ける必要がありました。

一度、ある形式――この場合「背景を持たず、ソファに座るブロムホフ家族」という構図――について許可が下りると、その後は改めて検閲を受けることなく、同構図を繰り返し制作できたのではないかというのです。

 これは長崎湾や出島風景を描いた慶賀作品にも共通して見られる特徴です。つまり本作品は、単なる肖像画ではなく、鎖国時代における文化交流と検閲制度の痕跡をも伝える歴史資料でもあるのです。

この絵が描いた「最後の時間」

 この家族図は、ブロムホフが家族とともに長崎・出島で過ごした、かけがえのない時間を描いた肖像画です。当時、日本は鎖国体制下にあり、外国人の滞在には厳しい制限がありました。特に女性や子どもの渡航は許されていませんでした。しかしブロムホフは、その禁を越え、妻ティティアと幼い子どもを伴って来日します。けれど、その滞在は長く続きませんでした。家族はわずか三ヶ月ほどで日本を離れることになります。

 そして――

 それは、家族にとって永遠の別れでもありました。

この絵は、その別れを前にした、家族がともに過ごした最後の時間を描いた肖像です。他の同構図作品と⽐べても、⼈物の表情にはどこか厳しさと切迫感がにじみ出ており、当時の彼らが置かれていた状況が静かに迫ってきます。

異国の地で暮らす不安 
家族が引き離される予感

その時間が、この一枚には刻まれているのです。

ティティア ― 日本人を魅了した最初の西洋女性

わずかな滞在であったにも関わらず、妻ティティアは、西洋女性として初めて来日した存在として長崎の人々に強い印象を残しました。その姿は日本三大土人形の一つでもある地元長崎の「古賀人形」にも表され、「西洋婦人」として現在に至るまで記憶され続けています。

また、ティティアは、日本を訪れた最初の西洋女性として知られるだけではありません。彼女はスクエア・ピアノを出島へ持ち込み、日本で初めて西洋ピアノを演奏した人物としても知られています。

さらに、ティティアが残した書簡には、日本人から抹茶でもてなしを受けた様子が記されています。現存する史料から確認できる限りでは、ティティアは抹茶を飲んだ最初の西洋女性の一人と考えられます。

ブロムホフが茶道具を蒐集し、日本文化への理解を深めていた一方で、ティティア自身もまた日本の風俗や文化に強い関心を寄せていました。出島で供された一碗の抹茶は、単なる飲み物ではなく、日本人のもてなしの心に触れる体験だったことでしょう。

日本で初めてピアノを奏でた西洋女性。そして、日本人から抹茶でもてなしを受けた最初の西洋女性。その存在は、ブロムホフ一家が日蘭交流の歴史において特別な位置を占めていることを物語っています。

なぜ今修復は必要なのか

企画調査のためライデンを訪れた際、私はダーンさんから、この《ブロムホフ家族図》の保存状態について詳しくお話を伺いました。

作品は約200年という長い歳月を経ており、画面や額装には経年による劣化が見られます。しかし現在、オランダ国立世界文化博物館には、この作品を本格的に修復するための十分な体制が整っていないとのことでした。

その一方で、日本には江戸時代の絵画や表装に関する高度な修復技術が継承されており、本作品についても日本で修復を行うことが現実的かつ最善の選択肢であることを知りました。

私は長年にわたりブロムホフとそのコレクションを追い続けてきましたが、この貴重な作品を未来へ伝えるためには、今まさに修復が必要な時期に来ていることを強く実感しました。

「この展覧会という歴史的な機会に、この作品を修復し、日本で公開したい」と。

この作品は単なる西洋人肖像画ではありません。江戸時代、日本とオランダが唯一交流を続けていた時代の記憶であり、異国で生きた家族の記録であり、そして日本人絵師・川原慶賀が見つめた“世界”そのものなのです。 

 修復を担う人々

 本作品の修復は、京都の修復工房「宇佐美修徳堂」に依頼いたします。


修復を担当するのは、長年文化財修復に携わってきた宇佐美直治さん、そして次世代を担う宇佐美直希さんです。

文化財修復は、単に傷みを直す作業ではありません。作品が持つ時間や歴史を尊重しながら、未来へ受け渡していく極めて繊細な仕事です。

 今回の修復では、作品本来の姿を損なうことなく、完全公開と次世代への継承を可能にする修復を目指します。これは一枚の絵画を守るだけでなく、日本の修復技術そのものを未来へ繋ぐ取り組みでもあります。

 オランダ国立世界文化博物館
学芸員 ダーン・コックさんからのメッセージ


【ブロムホフ家族図の現在の状況】



修復スケジュール(予定)

 本プロジェクトでは、作品の安全性を最優先に、オランダと日本の関係者が連携しながら修復・公開準備を進めてまいります。


200年の時を経て蘇る『ブロムホフ家族図』
修復を経て、いよいよ日本の皆様の前に姿を現します

本プロジェクトでご支援いただきたい内容

 本クラウドファンディングでは、「ブロムホフ家族図」の修復および輸送費用へのご支援をお願いしております。

 具体的には、

・オランダ―日本間の往復輸送費
・日本国内輸送費
・修復費
・保存・展示準備費
・上記プロジェクトに関わる諸費用 

 などに充てさせていただきます。

 文化を未来へつなぐために
このプロジェクトは、一枚の絵画修復にとどまるものではありません。

江戸時代、日本とヨーロッパが交わった記憶
異国で生きた家族の時間
日本人絵師が見つめた世界

 それらを、未来へ受け渡すための試みです。もしこの作品が修復されなければ、この絵は静かに時の中へ埋もれていくかもしれません。だからこそ今、この作品をよみがえらせたい。

200年の時を超えて受け継がれてきたこの作品を、次の時代へ手渡したい。

 どうか皆さまのお力をお貸しください。

 心より、ご支援をお願い申し上げます。

茶道家 堀内議司男(壷中庵・宗長)


支援金の使い道

集まった支援金は以下に使用する予定です。

  • 人件費

  • リターン仕入れ費

  • ・オランダ―日本間の往復輸送費 ・日本国内輸送費 ・修復費 ・その他上記プロジェクトにかかる費用

※目標金額を超えた場合はプロジェクトの運営費に充てさせていただきます。

支援に関するよくある質問

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  • ブロムホフが単なる茶道具の収集家ではなく、実際に茶を嗜んでいたことを物語る茶道具の一つが、この茶箱です。 蓋裏には、「日本大老臣 青山下野守侍医 江戸 湊長安 平義胤(花押)文政癸未冬十月」と記されています。 さらに箱の底には、「Eidosche docter Minato Tsooan」というオランダ語による署名まで残されています。そして、この茶箱には湊長安自筆の添状も添えられています。そこには、「ブロムホフ商館長閣下へ進呈します。ご帰国の旅路でもご使用いただければ幸いです。今一度、貴殿の幸福と祝福を祈ります。誠意を込めて、貴殿のしもべ、そして友人とお呼びください」という趣旨の言葉が記されています。 箱書にある「文政癸未冬十月」は、文政六年(1823)十月、現在の暦では十一月頃にあたります。この時、ブロムホフはまだ出島商館長として長崎に在任していましたが、その翌月には日本を離れ、オランダへの帰途につきました。 つまり、この茶箱は、日本を去るブロムホフへの餞別として、江戸の医師・湊長安から贈られたものだったのです。 さらに注目したいのが、箱書に記された「青山下野守侍医」という肩書です。 青山下野守とは、丹波篠山藩主で、幕府老中として幕政の中枢を担った青山忠裕のことです。湊長安はその侍医でした。しかも箱書では青山忠裕を「日本大老臣」と記しています。そこには、幕府の重職にあった青山忠裕への敬意と、その侍医として仕える長安自身の自負もうかがうことができます。 この茶箱には、黒楽茶碗、茶入、象牙製茶杓、茶筅、津軽塗と思われる器、紫の帛紗、茶巾など、茶を点てるための道具が一式納められています。添状にも、はっきりと「旅路でもご使用ください」という意味の言葉が記されています。「日本を離れてからも、この茶箱を携え、茶を楽しんでほしい。」そんな友人への思いを込めて、湊長安はこの茶箱をブロムホフに贈ったのではないでしょうか。 日本を離れた船の上で、ブロムホフがこの茶箱を開き、茶碗を取り出し、茶を点てている姿を想像してみてください。そこにいるのは、自ら茶碗を手に取り、茶杓で茶をすくい、茶筅を振って一碗の茶を点てる、一人の「茶人」としてのブロムホフです。 この茶箱は、ブロムホフが茶道具をただ鑑賞し、収集していただけではなく、実際に茶を点て、茶の湯を楽しんでいたことを物語る、極めて重要な資料の一つといえるでしょう。そして、この茶箱こそ、本展覧会のタイトルである「OTEMAE ― ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」を象徴する代表的な茶道具の一つだと考えています。 もっと見る
  •  ブロムホフ・コレクションの中でも、ひときわ注目されるのが茶道人形です。 人形には茶碗・水指・炉・釜などのミニチュア茶道具が添えられ、約二百年前の茶人の姿を立体的に再現しています。当時の記録には「右手に茶杓、腰に紫の帛紗」と記されており、現在は失われた帛紗の存在も確認することができます。 人形は元服前の少年の姿で、袴姿のまま点前を行っています。また、現在一般的な正座ではなく、割座で座っていることも興味深い点です。このことから、江戸時代には割座も点前の座法の一つとして行われていたことがうかがえます。つまり、この人形は、茶の湯の所作そのものを忠実に表現するために制作されたと考えられます。 頭部は胡粉で美しく仕上げられ、耳まで丁寧に造形されています。切れ長の目、小さく結んだ口元、そして穏やかな表情には、静かな品格が漂います。 衣装には絹織物が用いられ、裂には鳳凰と唐花と思われる吉祥文様が織り出されています。柄合わせや裁断も極めて精巧で、袴や帯に至るまで実際の装束と同じ仕立て方が施されています。人形衣装というより、本物の衣装をそのまま縮小したかのような完成度を備えています。 さらに髪には人毛が植え込まれ、一本一本を束ねて結い上げられています。頭頂部を複数に分けて結う独特の結髪は、現在確認している江戸後期の人形や風俗画には類例が見当たらず、この人形を特徴づける大きな特色となっています。 人形には烏帽子も添えられています。烏帽子は武家や公家の男子が礼装の際に着用した被り物であり、この人形も礼装した少年茶人を表現したものと考えられます。袴姿や割座の姿勢とあわせて見ると、茶の湯がたんなる喫茶ではなく、礼法を重んじる武家文化の一端であったことを伝えています。このような茶道人形は、現在確認できる限り他に類例がなく、ブロムホフの特別注文によって制作された可能性が高いと考えています。 また、頭部の造形や衣装の技法には京都系衣裳人形との共通点が多く認められることから、江戸参府の折に京都の人形師へ注文し、帰路に受け取って長崎へ持ち帰った可能性も考えられます。一方、人形に添えられたミニチュア茶道具は、長崎で制作させ、人形と組み合わせた可能性があります。その推測を裏付ける手掛かりが、人形とともに伝来した象牙製茶杓です。この茶杓だけは実寸約十八センチの象牙製で、実際の茶人が用いる茶杓とほぼ同じ大きさです。人形の右手も、この茶杓を握ることを前提として作られていたことがわかります。 このことから、ブロムホフは京都で人形を制作させる際、実物の象牙製茶杓を持たせるよう人形師へ依頼し、その後、長崎でミニチュア茶道具を揃えて完成させた可能性が考えられます。 それでは何故、ブロムホフが人形に持たせたのが、茶碗でも茶入でもなく、象牙製の茶杓だったのでしょうか。 十九世紀初頭のオランダでは、象牙は王侯貴族や富裕層の工芸品に用いられる高級素材であり、美術的価値の高い特別な素材でした。その価値を十分理解していたブロムホフは、日本の茶人を象徴する道具として、茶碗ではなく、あえて象牙製の茶杓を選んだのではないでしょうか。異国の茶道人形に象牙製茶杓を持たせることによって、人形そのものの価値を高めるとともに、日本文化を象徴する作品として位置づけようとした可能性があります。 残念ながら、この象牙製茶杓はワシントン条約(CITES)に基づく国際取引規制の対象となるため、今回の展覧会では日本へ持ち込むことができません。 しかし、この人形は本来、その象牙製茶杓を手にして初めて完成する作品でした。 どうぞ展示をご覧の際には、その「見えない茶杓」を心の中で人形の右手に戻してみてください。約二百年前、ブロムホフがヨーロッパへ伝えようとした「茶人」の姿、そして日本の茶の湯の精神が、より鮮やかに浮かび上がってくることでしょう。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 茶道人形とミニチュア茶道具 もっと見る
  • 名物裂は、織物そのものが貴重であった時代から、茶人たちに珍重され、掛軸や茶入の仕覆などに用いられてきました。その価値は極めて高く、仕覆や表具を仕立てた際に生じた残り裂まで「名物裂帖」として大切に伝えられてきました。オランダとの貿易においても、こうした舶来の織物は重要な輸入品の一つでした。一方、同じ裂でありながら、点前に用いられる帛紗は、茶器を清めるための神聖な道具です。そのため、常に清浄で新しいものが尊ばれ、傷みや汚れのあるものを使い続けることはありませんでした。このような性格から、江戸時代に実際に使用された帛紗は、私の知る限り、ほとんど今日まで伝わっていません。今回の展覧会では、ブロムホフが持ち帰った紫と朱の帛紗を展示します。江戸時代の茶人が実際に用いた帛紗が二百年の時を経て伝わった、極めて貴重な資料です。 ブロムホフが来日する二年前の文化四年(1807)、江戸で千家流茶道を広めた江戸千家の祖・川上不白(1719~1807)が亡くなりました。彼の著した『不白筆記』には、帛紗の色について次のような記述があります。「色ハ紫黄から茶紅也」すなわち、帛紗の色として紫・黄から茶・紅の三色を挙げ、さらに、「紫ハ常躰用ル 黄から茶ハ老人 紅ハ若年嗜老ノ物也」と記しています。これによれば、紫は常用する色、黄から茶は老人が用いる色、紅は若年者が用いる色であり、年長者が好みによって紅を用いることも認められていたことがうかがえます。この記述からは、江戸時代の帛紗には年齢による色の使い分けが存在したことがわかります。現在、多くの流儀では「男子は紫、女子は朱(緋)」という使い分けが一般的ですが、『不白筆記』には現在とは異なる帛紗の色彩観が記されており、その使い分けが時代とともに変化してきたことを物語っています。 今回展示される紫と朱の帛紗は、茶器を清めるためだけ布ではありません。茶人たちが茶席で手に取り、さばき、道具を清めたその所作を、二百年の時を超えて今に伝える貴重な歴史資料でもあります。その色の意味に思いを巡らせながらご覧いただくと、江戸時代の茶の湯がより身近に感じられることでしょう。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 朱 袱紗 もっと見る

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