
監督の合田朝輝です。
■出発点
自分が死んだ後も「残るもの」を作りたい。
そう考えたのが、全ての始まりです。
ALSという病気は、いつか私を連れていく。
その日が今日か、明日か、何年後かは分かりません。
でも、そんなに遠くない未来に、それは訪れる。
自分の人生に、期限がつけられた感覚。
少しずつ体が動かなくなっていって。
できることが、一つ、また一つと減っていって。
自分の手から、何かがこぼれ落ちていくような感覚。
このまま自分が消えてしまうんじゃないか。
そんな恐怖に包まれている。
だから、「残す」ということを考えた。
自分がいなくなった後にも残るもの。
形として残るもの。
誰かの手に触れる可能性があるもの。
私ができる「文章を書く」こと。
まだ自分は、何かを表現できる。
文章で何を作るのか。
何を残すのか。
ずっと考えていました。
■選ばなかった方法
方法はいくつかありました。
一番手軽だったものは、ブログやSNSで日常、闘病記を書くこと。
実際、多くのALS患者がそうしています。
それ自体は、とても意味のあることだと思います。
ただ、それは、したくなかった。
自分には向いていない。
仕事をしていた時期に、そういった発信をしていました。
ALSのことを、自分のことを伝えたいと思って。
でも、続かなかった。
その時に、はっきり分かったことがあります。
私には、これはできない。
しない方が良い。
理由は、自分自身にあります。
日常を書くと、どうしても脚色が入る。
少しでもよく見せようとする。
少しでも前向きに見えるようにする。
少しでも「頑張っている人間」に見せようとする。
ALSでも前を向いている自分。
諦めずに生きている自分。
その方が、見栄えがいい。
どんどん自分を「良く見せよう」としているのが分かる。
誰かにとって、価値のある人間だと思われたい。
「いいね」が欲しい。
「頑張って」と言われたい。
「応援してます」とコメントが欲しい。
私は、そういう浅ましい人間なんです。
■もう一つの理由
もう一つ、大きな理由がありました。
自分の闘病生活を書くことを、面白いと思えなかった。
これが、一番大きい。
私の日常は、楽しいことばかりじゃない。
そりゃ、楽しいことだってあります。
ヘルパーさんとのやり取りで、笑うことだって少なからずある。
体の調子が良くて、嬉しくなることもある。
観たい映画を観て、心が動くこともある。
天気のいい日に、窓から光が差し込んで、なんだか気持ちが良くなることもある。
でも、それは日常の中の「点」でしかない。
日常の大部分は、痛みや苦しみ、陰鬱とした物事と隣り合わせです。
痰が詰まって息が苦しくなる。
体のあちこちが痛む。
眠ろうと思っても、うまく眠れない。
何もできない時間。
動けない時間。
思考だけが回り続ける時間。
そんな時間の方が、圧倒的に長い。
負の感情。
よくない考え。
「早く終わってほしい」
「楽になりたい」
そういう思いは、いつもすぐ近くにある。
朝、目が覚めた瞬間から。
夜、眠りにつく最後の瞬間まで。
常に、すぐ隣にある。
そういうものを抱えながら、毎日を過ごしている。
それを表に出すことは、私にとっても、読む人にとっても、楽しい時間にはならない。
誰が、そんな暗い話を読みたいだろう。
誰が、そんな話に時間を使いたいと思うだろう。
私だって、そんなものは読みたくない。
かといって、薄暗い部分を全部隠して、ALSの生活の綺麗な部分だけを切り取って書くのは、したくなかった。
それなら、書かない方がいい。
■残したいモノ
だから私は、作りものを書きたいと思った。
現実の自分を書くんじゃない。
架空の世界を。
架空の誰かを。
そこに、自分の思いを込める。
そういうやり方なら、自分にもできるかもしれない。
フィクションという形で、自分の中にあるものを外に出す。
自分の経験や感情を、別の誰かに託して書く。
直接的に書かなくても、
自分の考えていることや、感じていることは、
必ずどこかに滲み出る。
その方が、自分にとっても、読む人にとっても、
意味のあるものになる気がしました。
自分が残したいのは、情報ではない。
ALSという病気の説明でも、闘病の記録でもない。
自分の中にある何か。
考えていることを。
感じていることを。
生きている中で見えているものを。
形にして外に出すこと。
作品として残すこと。
私がいなくなった後も、
誰かがそれに触れた時に、
何かしら感じるものがある。
私の想いを受け取ってくれる。
それが、私の残したいモノ。



