
第九章 「父」という文字のある仕事
小学校から中学校までは成績がよかったが、高校に入ると、授業についていけなくなった。
友達は塾に通っているとか、家庭教師をつけてもらっているとか話していた。そんな話を親にすることはできなかった。
継父は真面目な男だった。けれど母はいつも、「もっと稼いでほしい」と発破をかけていた。ちょうどバブルがはじけた頃だった。
給料のよい会社を何度も受けては落ちていたようだ。無職の期間も半年以上あった。再就職しても営業ノルマを達成できず、すぐにクビになった。
僕は少し軽蔑していた。
実の父は仕事のできる男だった。金を稼ぐ男だった。だから女性にもモテ、不倫もしたのだろう。思春期の僕には、表面的には実の父の方が格好よく見えた。
対して継父は、情けなく見えた。
今なら、継父を単純な悪人だったとは言えない。母から叩かれ、収入を責められ、自分の子ではない僕と取っ組み合いをしながら、それでも家庭にいた。
けれど、十五歳の僕にはそんなことは分からなかった。
母は稼ぎの悪い継父のことを、僕たちの前で繰り返し悪く言った。特に僕には、「あんなふうになるな」と言った。
高校三年生の頃には、僕はすっかり落ちこぼれていた。それでも進学したいという思いは残っていた。
僕の中には、「オヤジ」への憧れがあった。
子どもたちのオヤジになりたい。家に父親がいない子や、大人の男と関わる機会がない子にとって、頼れる大人になりたい。
学校の先生への憧れもあった。しかし、落ちこぼれた自分には非現実的だとすぐに理解した。
そこで思いついたのが「保父さん」だった。
「父」という文字が入った仕事があることに、強くひかれた。
当時はまだ、男性の保育者を「保父」と呼んでいた。
男性が保育の仕事を選ぶこと自体、今以上に珍しい時代だった。進路指導の先生に相談すると、笑いながら言われた。
「保母さんと仲良くなりたいのか。下心があるのか」
真剣に考えていた僕には、つらい言葉だった。
親戚に相談すると、こう言われた。
「社会福祉士を目指せ」
そんな職業があるのかと衝撃を受けた。困っている人の生活全体を、いろいろな方向から支える仕事だと知った。
僕が子どもの頃に求めていた大人は、職業として社会に存在していた。
第十章 合格しても、進学できない
社会福祉士になるには、大学へ行くしかないと知った。当時、社会福祉士はまだ新しい資格だった。
その最先端にあると思ったのが、日本福祉大学だった。
「ここに行きたい」
親に話した。
反対された。理由は明確だった。学費を払えない。
分かっていた。それでも諦められなかった。受験科目を懸命に勉強し、せめて受験だけでもさせてほしいと頼んだ。
そして、奇跡的に合格した。
合格通知を手にしても、入学手続きはできなかった。入学金が払えなかった。
母は「申し訳ない」と、初めて僕に頭を下げた。
責めることはできなかった。さらに頼むこともできなかった。
努力すれば夢はかなう。
大人は子どもにそう言う。けれど、本人に意欲があり、合格する力があっても、家庭の経済状況によって進路は閉ざされる。
それでも諦められず、学費を払える方法を一人で調べた。十八歳の未成年が、自分だけで借金や奨学金を利用することは難しかった。
そこで見つけたのが新聞奨学金だった。
朝と夕方に新聞を配る代わりに、学費を肩代わりしてもらう。卒業まで新聞販売店の寮に住み込み、決して高くない給料で働き続ける制度だった。
四年間をやり通す自信はなかった。二年間なら何とかなるかもしれない。
僕は東京の専門学校を受験し、進学した。
そこから、地獄が始まった。
第十一章 腹が減ったら寝るにかぎる
大都会・東京で、僕はいきなりその裏側を見せられた。
寮の水道から出る水は赤茶色だった。共同トイレはいつも汚れていた。風呂はなく、海水浴場にあるような簡易シャワー室を配達員同士で奪い合うように使った。
中学時代のぼろぼろの二軒長屋より、過酷な環境だった。
新聞を毎日、約三百軒に配った。タワーマンションでは建物の中を一軒ずつ回った。大企業へは、肩が抜けそうなほど重い新聞の束を持って行った。
購読料は手集金だった。配達時間以外に、一軒ずつチャイムを押して回った。居留守を使う人、払えないという人、配達が遅いと怒る人、記事の内容に文句を言う人。中には、新聞配達という仕事そのものを蔑む人もいた。
一緒に働く仲間は、だいたい同じような境遇の学生だった。みんな仲がよく、先輩も優しかった。
でも、みんな貧乏だった。
「腹が減ったら、寝るにかぎる」
そう言った先輩がいた。確かに、その通りだった。
ある日、腹が減りすぎて、共同冷蔵庫にあったまんじゅうへ手を伸ばした。先輩が慌てて止めた。
「お前、よく見ろ。カビ生えてるぞ。賞味期限も一年前に切れてるやつだぞ」
見かねた先輩が、夕飯をおごってくれた。
ところが次の日、その先輩は顔を腫らし、あざだらけで出勤してきた。自分を捨てた父親が突然、金を貸せと訪ねてきたらしい。断ると、ぼこぼこに殴られたという。
その先輩はいつも、寒い朝にコーヒーをおごってくれていた。
その日だけは、僕が聞いた。
「ジョージアのテイスティでいいですか?」
2本買った。
自分にも余裕はなかった。それでも、温かい缶コーヒー一本なら誰かに渡すことができた。
学業と勤労の両立は、並大抵ではなかった。仲間の多くが留年し、卒業できなかった。
僕は何とか卒業単位を取った。しかし、肝心の社会福祉士国家試験を受けなかった。心が折れていた。合格率の低さもあり、将来を諦めかけた。
それでも、「保父」という憧れだけは残っていた。
わずかな貯金を元手に、教員養成所へ通った。新聞配達は二度としたくなかったので、あらゆるアルバイトをした。
ファーストフード、コンビニ、宴会場のボーイ、家庭教師の営業、携帯電話会社の受付。短期も長期も、さまざまな仕事をした。
学校で実習があると、アルバイトができない。収入が減ると、支払いができない。
まず止まるのは電気。次にガス。最後に水道。
生きる上で必要なものが、どの順番で止められるのかを身をもって学んだ。
財布に十一円しかないまま、二週間過ごしたこともある。
腹が減ったら、寝るにかぎる。
友達の家へ行き、「何か食わせて」と頼むことにも慣れた。
当然、学校へ行かなくなった。毎日アルバイトに明け暮れ、将来への希望もなく、その日を生きるだけで精いっぱいだった。
僕は、貧困の連鎖のどつぼにはまっていた。
次回
第12章 逃げるように都会を去った
第13章 父になる
第14章 菓子パン一つの兄弟
へ続く。



