延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

現在の支援総額

912,500

36%

目標金額は2,500,000円

支援者数

140

募集終了まで残り

9

延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

現在の支援総額

912,500

36%達成

あと 9

目標金額2,500,000

支援者数140

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

第九章 「父」という文字のある仕事

小学校から中学校までは成績がよかったが、高校に入ると、授業についていけなくなった。

友達は塾に通っているとか、家庭教師をつけてもらっているとか話していた。そんな話を親にすることはできなかった。

継父は真面目な男だった。けれど母はいつも、「もっと稼いでほしい」と発破をかけていた。ちょうどバブルがはじけた頃だった。

給料のよい会社を何度も受けては落ちていたようだ。無職の期間も半年以上あった。再就職しても営業ノルマを達成できず、すぐにクビになった。

僕は少し軽蔑していた。

実の父は仕事のできる男だった。金を稼ぐ男だった。だから女性にもモテ、不倫もしたのだろう。思春期の僕には、表面的には実の父の方が格好よく見えた。

対して継父は、情けなく見えた。

今なら、継父を単純な悪人だったとは言えない。母から叩かれ、収入を責められ、自分の子ではない僕と取っ組み合いをしながら、それでも家庭にいた。

けれど、十五歳の僕にはそんなことは分からなかった。

母は稼ぎの悪い継父のことを、僕たちの前で繰り返し悪く言った。特に僕には、「あんなふうになるな」と言った。

高校三年生の頃には、僕はすっかり落ちこぼれていた。それでも進学したいという思いは残っていた。

僕の中には、「オヤジ」への憧れがあった。

子どもたちのオヤジになりたい。家に父親がいない子や、大人の男と関わる機会がない子にとって、頼れる大人になりたい。

学校の先生への憧れもあった。しかし、落ちこぼれた自分には非現実的だとすぐに理解した。

そこで思いついたのが「保父さん」だった。

「父」という文字が入った仕事があることに、強くひかれた。

当時はまだ、男性の保育者を「保父」と呼んでいた。

男性が保育の仕事を選ぶこと自体、今以上に珍しい時代だった。進路指導の先生に相談すると、笑いながら言われた。

「保母さんと仲良くなりたいのか。下心があるのか」

真剣に考えていた僕には、つらい言葉だった。

親戚に相談すると、こう言われた。

「社会福祉士を目指せ」

そんな職業があるのかと衝撃を受けた。困っている人の生活全体を、いろいろな方向から支える仕事だと知った。

僕が子どもの頃に求めていた大人は、職業として社会に存在していた。



第十章 合格しても、進学できない

社会福祉士になるには、大学へ行くしかないと知った。当時、社会福祉士はまだ新しい資格だった。

その最先端にあると思ったのが、日本福祉大学だった。

「ここに行きたい」

親に話した。

反対された。理由は明確だった。学費を払えない。

分かっていた。それでも諦められなかった。受験科目を懸命に勉強し、せめて受験だけでもさせてほしいと頼んだ。

そして、奇跡的に合格した。

合格通知を手にしても、入学手続きはできなかった。入学金が払えなかった。

母は「申し訳ない」と、初めて僕に頭を下げた。

責めることはできなかった。さらに頼むこともできなかった。

努力すれば夢はかなう。

大人は子どもにそう言う。けれど、本人に意欲があり、合格する力があっても、家庭の経済状況によって進路は閉ざされる。

それでも諦められず、学費を払える方法を一人で調べた。十八歳の未成年が、自分だけで借金や奨学金を利用することは難しかった。

そこで見つけたのが新聞奨学金だった。

朝と夕方に新聞を配る代わりに、学費を肩代わりしてもらう。卒業まで新聞販売店の寮に住み込み、決して高くない給料で働き続ける制度だった。

四年間をやり通す自信はなかった。二年間なら何とかなるかもしれない。

僕は東京の専門学校を受験し、進学した。

そこから、地獄が始まった。



第十一章 腹が減ったら寝るにかぎる

大都会・東京で、僕はいきなりその裏側を見せられた。

寮の水道から出る水は赤茶色だった。共同トイレはいつも汚れていた。風呂はなく、海水浴場にあるような簡易シャワー室を配達員同士で奪い合うように使った。

中学時代のぼろぼろの二軒長屋より、過酷な環境だった。

新聞を毎日、約三百軒に配った。タワーマンションでは建物の中を一軒ずつ回った。大企業へは、肩が抜けそうなほど重い新聞の束を持って行った。

購読料は手集金だった。配達時間以外に、一軒ずつチャイムを押して回った。居留守を使う人、払えないという人、配達が遅いと怒る人、記事の内容に文句を言う人。中には、新聞配達という仕事そのものを蔑む人もいた。

一緒に働く仲間は、だいたい同じような境遇の学生だった。みんな仲がよく、先輩も優しかった。

でも、みんな貧乏だった。

「腹が減ったら、寝るにかぎる」

そう言った先輩がいた。確かに、その通りだった。


ある日、腹が減りすぎて、共同冷蔵庫にあったまんじゅうへ手を伸ばした。先輩が慌てて止めた。

「お前、よく見ろ。カビ生えてるぞ。賞味期限も一年前に切れてるやつだぞ」

見かねた先輩が、夕飯をおごってくれた。

ところが次の日、その先輩は顔を腫らし、あざだらけで出勤してきた。自分を捨てた父親が突然、金を貸せと訪ねてきたらしい。断ると、ぼこぼこに殴られたという。

その先輩はいつも、寒い朝にコーヒーをおごってくれていた。

その日だけは、僕が聞いた。

「ジョージアのテイスティでいいですか?」

2本買った。

自分にも余裕はなかった。それでも、温かい缶コーヒー一本なら誰かに渡すことができた。

学業と勤労の両立は、並大抵ではなかった。仲間の多くが留年し、卒業できなかった。

僕は何とか卒業単位を取った。しかし、肝心の社会福祉士国家試験を受けなかった。心が折れていた。合格率の低さもあり、将来を諦めかけた。

それでも、「保父」という憧れだけは残っていた。

わずかな貯金を元手に、教員養成所へ通った。新聞配達は二度としたくなかったので、あらゆるアルバイトをした。

ファーストフード、コンビニ、宴会場のボーイ、家庭教師の営業、携帯電話会社の受付。短期も長期も、さまざまな仕事をした。

学校で実習があると、アルバイトができない。収入が減ると、支払いができない。

まず止まるのは電気。次にガス。最後に水道。

生きる上で必要なものが、どの順番で止められるのかを身をもって学んだ。

財布に十一円しかないまま、二週間過ごしたこともある。

腹が減ったら、寝るにかぎる。

友達の家へ行き、「何か食わせて」と頼むことにも慣れた。

当然、学校へ行かなくなった。毎日アルバイトに明け暮れ、将来への希望もなく、その日を生きるだけで精いっぱいだった。

僕は、貧困の連鎖のどつぼにはまっていた。


次回

第12章 逃げるように都会を去った

第13章 父になる

第14章 菓子パン一つの兄弟

へ続く。

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