延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

もうすぐ
終了

現在の支援総額

935,500

37%

目標金額は2,500,000円

支援者数

144

募集終了まで残り

6

延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

もうすぐ
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現在の支援総額

935,500

37%達成

あと 6

目標金額2,500,000

支援者数144

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

第十二章 逃げるように都会を去った

結局、教員養成所は中退した。

友達も、あまり相手にしてくれなくなった。夜中までアルバイトをし、仕事が終わると二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。おかわり自由のコーヒーを飲み、女性の店員と話すのが楽しかった。

街へ繰り出し、見知らぬ女性に声をかけて回ることもあった。

それに、何の意味もなかった。

完全に負け犬だった。

一人で生きていくことに限界を感じていた。

そんなとき、母から手紙が届いた。僕が家を出てから、継父が母に暴力を振るうようになったと書かれていた。

腹が立った。

稼ぎもない甲斐性なしが、女性に手を上げる。

そう思った。

けれど、それは自分の生活を変えるための口実でもあった。

周りの友達は学校を卒業し、地元へ帰って就職すると話していた。僕はそれにかこつけて、「俺も地元で就職先が決まった」とうそぶいた。

実際には、何も決まっていなかった。

逃げるように都会を去った。

実家へ帰ると、かわいがっていたJ.Jがいなかった。

僕が家を出てしばらくして、亡くなったという。当時は携帯電話もない時代だった。それでも、そのことを教えてくれる方法はあったはずだ。誰も知らせてくれなかった。

寂しかった。

J.Jは、少年時代の唯一の友達だった。

僕がいなくなった後、寂しさから命を落としたのではないかと思った。寂しさで死ぬこともあるのかと知った。

ハローワークへ通い、就職活動を始めた。就職氷河期の真っただ中だったが、福祉業界は活気づき始めていた。特に医療機関の介護需要は増えていた。

新規開設予定の老人保健施設から内定をもらった。新しい施設で働けることを楽しみにしていた。

しかし、また母に反対された。

「明日からでも働いてもらわないと困る」

それは、そうだった。

新規開設の施設だったため、実際に働き始めるまでにはまだ時間があった。けれど、実家には僕を無収入のまま置いておく余裕はなかった。帰ってきた以上、すぐに家へ金を入れることを求められた。

「家に置いてもらえるだけ、ありがたいと思って」

母にそう言われた。

僕は内定していた老人保健施設を断り、車で片道四十分かかる医療機関の介護職として働き始めた。

基本給は少なかった。それでも夜勤があり、毎月決まった給料が入った。

正社員という立場と、衣食住がそろう生活。

それだけで、僕は貧困から抜け出すことができた。

母は結局、継父と離婚した。しかし、二人の関係はその後も続いていた。

そのこともあって、妹は地元の大学へ通うことができた。

僕のような貧乏生活を経験しなくてよかった。心から、そう思った。



第十三章 父になる

地元へ戻り、職場で今の妻と出会った。結婚し、子どもが生まれた。

生まれた子どもには、ダウン症があった。

親として、それなりに苦労した。制度の分かりにくさ、相談先の少なさ、家族だけで抱えることの限界。支援する側を目指していた僕が、支援を必要とする側に立った。

その経験から、「レスパイトサービスあるたす」を始めた。

子どもや家族が、すべてを家庭だけで背負わなくてよい仕組みをつくりたかった。困ったときに少し休める場所。相談できる人。家族以外にも、その子を気にかける大人がいる環境。

あるたすを設立した物語だけでも、一冊になるほどの出来事があるが、ここでは詳しく書かない。

ここで書きたいのは、あるたすを運営する中で、僕が「子どもの貧困」と出会い直したことだからだ。


ある日、新聞記者になった高校の先輩から電話がかかってきた。

「あるたすに、貧困の子どもっている?」

「何を言っているんですか」

僕は最初、笑った。

先輩は宮崎日日新聞で、「誰も知らないみやざき子どもの貧困」という特集記事を任され、取材先を探していた。

当時の僕にとって、貧困とはもっと分かりやすく、特別な状態だった。家がなく、食べるものもなく、誰が見ても困っていると分かる家庭。そういうものを想像していた。

自分の子ども時代が「貧困」だったとは、まだ考えていなかった。



第十四章 菓子パン一つの兄妹

当時のあるたすでは、利用する子どもたちに弁当を持参してもらっていた。

ちょうどキャラ弁が流行していた。料理が得意な保護者の中には、毎日、驚くほど豪華な弁当を持たせる人もいた。

預かっていた子どもの中に、母親が離婚したばかりの兄妹がいた。

昼食の時間、その兄妹は豪華なキャラ弁の隣で、菓子パンを一つずつ食べていた。

その光景を見たとき、僕は初めて「子どもの貧困」に気づいた。

菓子パンを食べる兄妹と、茶色い弁当を食べていた中学生の僕が重なった。

これは、自分のことだ。

子どもの頃の、自分のことだった。


僕は、あるたすに給食の仕組みを導入することにした。

弁当屋を回り、「幼児用の弁当を作ってください」と頼んだ。子どもたち全員に給食を出し、給食費は保護者から取らなかった。

誰が困っているのかを周囲に分からせる必要はない。みんなが同じ弁当を食べればよい。

今思い返せば、この取り組みは子ども食堂のはしりだったのかもしれない。

その後、全国で子ども食堂が注目され始めた。子どもの貧困対策として紹介される内容は、自分があるたすで始めたことと重なっていた。

延岡でも子ども食堂をやろう。

そう考えていると、同じような思いを持つ人たちと出会った。


次回

第15章「行きづらい」

第16章 待ってちゃダメだ

第17章 こっちが、すみません

へ続く。

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