
第十二章 逃げるように都会を去った
結局、教員養成所は中退した。
友達も、あまり相手にしてくれなくなった。夜中までアルバイトをし、仕事が終わると二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。おかわり自由のコーヒーを飲み、女性の店員と話すのが楽しかった。
街へ繰り出し、見知らぬ女性に声をかけて回ることもあった。
それに、何の意味もなかった。
完全に負け犬だった。
一人で生きていくことに限界を感じていた。
そんなとき、母から手紙が届いた。僕が家を出てから、継父が母に暴力を振るうようになったと書かれていた。
腹が立った。
稼ぎもない甲斐性なしが、女性に手を上げる。
そう思った。
けれど、それは自分の生活を変えるための口実でもあった。
周りの友達は学校を卒業し、地元へ帰って就職すると話していた。僕はそれにかこつけて、「俺も地元で就職先が決まった」とうそぶいた。
実際には、何も決まっていなかった。
逃げるように都会を去った。
実家へ帰ると、かわいがっていたJ.Jがいなかった。
僕が家を出てしばらくして、亡くなったという。当時は携帯電話もない時代だった。それでも、そのことを教えてくれる方法はあったはずだ。誰も知らせてくれなかった。
寂しかった。
J.Jは、少年時代の唯一の友達だった。
僕がいなくなった後、寂しさから命を落としたのではないかと思った。寂しさで死ぬこともあるのかと知った。
ハローワークへ通い、就職活動を始めた。就職氷河期の真っただ中だったが、福祉業界は活気づき始めていた。特に医療機関の介護需要は増えていた。
新規開設予定の老人保健施設から内定をもらった。新しい施設で働けることを楽しみにしていた。
しかし、また母に反対された。
「明日からでも働いてもらわないと困る」
それは、そうだった。
新規開設の施設だったため、実際に働き始めるまでにはまだ時間があった。けれど、実家には僕を無収入のまま置いておく余裕はなかった。帰ってきた以上、すぐに家へ金を入れることを求められた。
「家に置いてもらえるだけ、ありがたいと思って」
母にそう言われた。
僕は内定していた老人保健施設を断り、車で片道四十分かかる医療機関の介護職として働き始めた。
基本給は少なかった。それでも夜勤があり、毎月決まった給料が入った。
正社員という立場と、衣食住がそろう生活。
それだけで、僕は貧困から抜け出すことができた。
母は結局、継父と離婚した。しかし、二人の関係はその後も続いていた。
そのこともあって、妹は地元の大学へ通うことができた。
僕のような貧乏生活を経験しなくてよかった。心から、そう思った。
第十三章 父になる
地元へ戻り、職場で今の妻と出会った。結婚し、子どもが生まれた。
生まれた子どもには、ダウン症があった。
親として、それなりに苦労した。制度の分かりにくさ、相談先の少なさ、家族だけで抱えることの限界。支援する側を目指していた僕が、支援を必要とする側に立った。
その経験から、「レスパイトサービスあるたす」を始めた。
子どもや家族が、すべてを家庭だけで背負わなくてよい仕組みをつくりたかった。困ったときに少し休める場所。相談できる人。家族以外にも、その子を気にかける大人がいる環境。
あるたすを設立した物語だけでも、一冊になるほどの出来事があるが、ここでは詳しく書かない。
ここで書きたいのは、あるたすを運営する中で、僕が「子どもの貧困」と出会い直したことだからだ。
ある日、新聞記者になった高校の先輩から電話がかかってきた。
「あるたすに、貧困の子どもっている?」
「何を言っているんですか」
僕は最初、笑った。
先輩は宮崎日日新聞で、「誰も知らないみやざき子どもの貧困」という特集記事を任され、取材先を探していた。
当時の僕にとって、貧困とはもっと分かりやすく、特別な状態だった。家がなく、食べるものもなく、誰が見ても困っていると分かる家庭。そういうものを想像していた。
自分の子ども時代が「貧困」だったとは、まだ考えていなかった。
第十四章 菓子パン一つの兄妹
当時のあるたすでは、利用する子どもたちに弁当を持参してもらっていた。
ちょうどキャラ弁が流行していた。料理が得意な保護者の中には、毎日、驚くほど豪華な弁当を持たせる人もいた。
預かっていた子どもの中に、母親が離婚したばかりの兄妹がいた。
昼食の時間、その兄妹は豪華なキャラ弁の隣で、菓子パンを一つずつ食べていた。
その光景を見たとき、僕は初めて「子どもの貧困」に気づいた。
菓子パンを食べる兄妹と、茶色い弁当を食べていた中学生の僕が重なった。
これは、自分のことだ。
子どもの頃の、自分のことだった。
僕は、あるたすに給食の仕組みを導入することにした。
弁当屋を回り、「幼児用の弁当を作ってください」と頼んだ。子どもたち全員に給食を出し、給食費は保護者から取らなかった。
誰が困っているのかを周囲に分からせる必要はない。みんなが同じ弁当を食べればよい。
今思い返せば、この取り組みは子ども食堂のはしりだったのかもしれない。
その後、全国で子ども食堂が注目され始めた。子どもの貧困対策として紹介される内容は、自分があるたすで始めたことと重なっていた。
延岡でも子ども食堂をやろう。
そう考えていると、同じような思いを持つ人たちと出会った。
次回
第15章「行きづらい」
第16章 待ってちゃダメだ
第17章 こっちが、すみません
へ続く。



