
唐津の海に夜が降りてくると、世界は深い藍色の静寂に包まれる。
開け放たれた窓からは、絶え間なく波の砕ける音が聞こえてくる。
それは地球の呼吸のように規則正しく、僕たちの焦燥を少しずつ削り取っていくようだ。
遠く海と空の境界線は曖昧に溶け合い、漁火の小さな光だけが、そこが物理的な空間であることを辛うじて証明していた。
空気はどこまでも澄み渡り、冬の星々が触れ合えば冷たい硝子の音がしそうなほどに、張り詰めている。
僕たちはホテルを出て、ほど近い場所に小さな部屋を借りた。
この地に定住するつもりでいた。東京に未練の無い僕たちの判断は早かった。
東京の狭いアパートとは違う、間取りに少しだけ余白のある部屋。
そこで僕たちは、小さなテーブルを挟んで向き合い、ノートパソコンの淡い光を浴びながら、新しい会社の事業計画書を練っていた。
この地に、僕たちは「なぎ」の物語を正しく伝え、彼女の存在を得家のものにするための会社を作ろうとしていた。
なぎの記憶に背中を押されるようにして始まったこの道は、険しい。
けれど、歩みを進めるたびに、物語は確かな重みを持って形になりつつあった。
僕となぎの物語を語るために。
彼女を「最高のヒロイン」としてこの世に再誕させるために。
出版社に持ち込んで、ありきたりな「お涙頂戴」として消費されることだけは、どうしても避けたかった。
それでは、あの真っ直ぐな瞳をしたなぎは絶対に納得しないだろう。
だから僕と栞は、自分たちで出版社という船を創ることにしたのだ。
あまりに無謀で、滑稽な試みかもしれない。
けれど、一度は絶望の淵で息絶えかけた僕たちが、今こうして呼吸をしているのは、間違いなく彼女という存在が光を照らしてくれたからだ。
「資金繰りの計算は、これでだいたい片付いたね」
栞が眼鏡のブリッジを指で押し上げ、ふうっと小さく息を吐いた。
決断してからの栞の行動には目を見張った。あっという間に準備をすすめ、起業に必要な手続きの段取りを済ませてきた。仕事に疲れて、暗い部屋にひとりで泣いていた彼女の面影すら思い出せないほどに、いま僕の前にいるのは強く、どこまでも強く行動的なレディだった。
デスクライトに縁取られた彼女の横顔は、夜の闇に溶けそうなほど儚く、それでいて、そこに確かに存在しているという温かな実感を伴っていた。
「ああ。あとは、登記の書類を揃えるだけだ。……スケジュールはどうする?」
僕は彼女に尋ねた。
目標が「予定」へと変わる瞬間、僕の胸には静かな、しかし確かな高揚が波紋のように広がっていた。
それはきっと、彼女が僕に寄り添い、献身的に支えてくれたおかげだ。僕は心から、彼女に感謝していた。
「そうね」
栞は頷き、手元のカレンダーに視線を落とす。
「——には、市役所に行ってくるわ」
僕の手が止まる。 一瞬、僕の耳が、彼女の言葉をうまく拾えなかったのかと思った。
「……ごめん、いつ行くって?」
「だから、——には、市役所に行ってくる」
聞き間違いではない。栞の唇は間違いなく「あした」と動いたのだ。
しかし、その三文字が発せられた瞬間、彼女の喉から出るはずの音が、空気が、完全にミュートされてしまった。
まるで、世界という巨大なシステムの管理者が、彼女のその音声データだけを、悪意を持って削除したかのように。
僕はパソコンの画面をそっと閉じ、目の前に座る彼女の輪郭を確かめるように見据えた。
「栞」
「……どうしたの?」
「少しだけ、記憶のすり合わせをさせてくれ。昨日、僕たちは何を食べた?」
「昨日? カレーだけど……」
栞は怪訝そうに眉をひそめ、探るように僕の目を見つめた。
「急にどうしたの。自分の記憶に自信がなくなった?」
「なら、今は何時だ。君が認識している、現在の正確な時間は?」
「夜の十一時」
淀みはない。
過去という確定済みの事象も、現在という観測点も、彼女の口からは極めて滑らかに、自然な音として紡がれる。
彼女の意識は、過去から今この瞬間に至るまで、完璧な連続性を保って機能している。
「じゃあ……」
僕の心臓が、ひどく嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
「この書類、いつ提出するって?」
栞は少し呆れたように、ふっと笑う。
そして、口を開いた。
「だから、——」
音が消えた。
僕の鼓膜には、窓の外から流れ込む波の音と、微かな夜風の音しか届かない。栞自身も、自分の声が途切れたことに気づいたようだった
。彼女は戸惑ったように何度か瞬きをし、もう一度、慎重に口を動かす。
「……——」 「……——の、来週には」 「……——、来年の春には」
駄目だった。
何度試しても、「明日」「来週」「未来」という、これから先の時間を指し示す言葉だけが、彼女の世界から綺麗に切り抜かれていた。
彼女は自分の喉に手を当て、ひどく傷ついたような、そしてすべてを悟ったような瞳で僕を見つめた。
「……そっか」
栞は静かに微笑んだ。
その笑顔は、かつてなぎが「私はもうすぐ死ぬんだよ」と告げた時の、あのどこか透明で、諦観に満ちた表情と、残酷なまでに重なっていた。
「私、もう、この世界で未来を語る資格がないみたい」
その言葉を聞いた瞬間、僕の奥底で、冷たくて固い何かが弾けた。
世界は、物理法則や時間の概念を使って、静かに栞を排除しようとしている。
なぎの未来を暴力的に奪い去ったこの世界は、今度は栞の未来を、こんなにも静かに、システマチックに消去しようとしているのだ。
「冗談じゃない」
僕は椅子を蹴るようにして立ち上がり、テーブル越しに栞の両手を強く握りしめた。彼女の掌は氷のように冷たかったが、それでも微かな脈動が、確かにそこにあった。
「あなたには、未来がないわけじゃない。
世界が勝手にバグを起こして、君から言葉を奪っているだけだ。そんなふざけたルール、僕が絶対に認めない」
「でも……」
「君が言えないなら、僕が言う」
僕は彼女の冷たい手を、祈るように自分の頬に押し当てた。
窓の外では、夜の海が圧倒的な質量を持ってうねり、静かな怒りをたたえているようだった。
「明日は、一緒に市役所へ行く。来週は、ギャラリーの壁を二人で塗る。来月は、あいつの墓前に報告に行く。来年も、再来年も、君はずっと僕の隣で笑ってる。君が未来を発音できないなら、僕が君の未来を全部、何度でも口にしてやる」
栞の大きな瞳から、涙が一粒、音もなくこぼれ落ちた。
それはデスクライトの光を反射して、この世界のどんな宝石よりも美しく、残酷に輝いていた。
なぎを奪われ、暗闇の迷宮でうずくまっていただけの僕は、もういない。
世界が彼女を消去しようとするなら、僕は言葉を武器にして、この不条理な因果律と全力で戦い抜く。 これは、残酷で美しい世界に対する、僕のたったひとりの叛逆であり、栞をこの世界に繋ぎ止めるための、
果てしない冒険の始まりだった。



