『新実力主義』の本に関するご報告をいたします。ご報告が遅くなりまして、大変失礼いたしました。1月上旬からの発送を予定しておりました『新実力主義』の本ですが、校正や諸々の諸作業に時間がかかり、年末年始でスケジュールの調整に影響がでたこともあり、昨日原稿の入稿ができた段階となっております。皆様のもとにリターン品とともに本を発送できるのは、印刷会社様との調整により2月上旬となる見込みです。状況によっては、さらに製本が遅くなる可能性もありますが、その際にはまた、こちらの活動報告にてご報告させていただきます。最新の状況については『新実力主義』のTwitterにて随時投稿しておりますので、活動報告とあわせてご覧いただければ幸いです。盛田昭夫『新実力主義』復刊公式Twitterhttps://twitter.com/morita_book2諸事情で入稿が遅れましたが、その分良い形に仕上がったかと思いますので、楽しみにお待ちいただければと思います。あらためまして、活動報告でのご報告が遅くなりましたこと、大変失礼いたしました。ご不便をおかけしておりますが、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
クラウドファンディング リターン発送に関するご報告をいたします。『新実力主義』の中に書かれた印象的な文章をピックアップし、その文章を元に 、現在各方面で活躍されている現役のイラストレーターの方々にイラストを書き下ろしていただいた「盛田昭夫「新実力主義」語録 ポストカード」が無事に納品されました!通常のポストカード(100×148mm)より大きめのB6サイズ(128mm×182mm)。規格外のポストカードであり、色味や文字校正なども問題がないか、仕上がりを見るまでかなりドキドキしていましたが、どれも素敵に仕上がっており、ほっとしました。クラウドファンディングに支援してくださった方々に品物が揃い次第、お送りしていきますので楽しみにお待ちいただければと思います。
2021年11月14日(日)、クラウドファンディングのリターン品の一つ、愛知県常滑市小鈴谷にある「盛田昭夫塾」 「盛田 味の館」などを巡る ”盛田昭夫氏のルーツを探る特別ツアー” を開催いたしました。活動報告として、以下に当日の様子をお伝えいたします。ー※ー※ー※ー名鉄常滑駅にて参加者の皆様と合流、駅から車で約20分。今回のツアー開催地の小鈴谷にて、まずはじめに、盛田昭夫氏の御長女で「盛田昭夫塾」の館長盛田直子様に御挨拶をし、参加者全員で盛田家の菩提寺(寳珠院)にてお墓参りをさせていただきました。---その後、普段一般公開はされていない「盛田家本家」を見学し、盛田昭夫氏の幼少期のエピソードなどを含めた、盛田家11代当主 盛田久左衛門命祺(めいき)翁が小鈴谷の地に建てた学校「鈴渓義塾」にまつわるお話をまとめた映像を鑑賞しました。(盛田昭夫氏は盛田家15代当主になります)盛田本家を見学「鈴渓義塾」は現在の小学5年から中学2年にあたる子供たちを対象に、現在の高校学校に匹敵する内容の国文、漢文、英語、数学、理科、簿記などを教育課程に加え、さらに当時ではほとんど普及されていなかった野球を体育のカリキュラムに含めるなど、当時の日本においては、特に進取の気性に富んだ、当時の最先端の教育、極めて高度な教育内容を積極的に採り入れていた学校でした。卒業生の中には、トヨタ "中興の祖"・石田退三氏、敷島製パンの創業者・盛田善平氏をはじめとする多くの偉人を輩出した私塾として知られています。盛田昭夫氏は「鈴渓義塾」の卒業生ではないものの、「鈴渓義塾」の精神に大きく影響を受け世界へ羽ばたいた一人でした。---次に「盛田 味の館」に移動し、参加者全員で歓談しながら昼食を食べ、併設された常設展「十五代当主 盛田昭夫」を見学。「盛田 味の館」は江戸時代の醸造蔵を改装し、館内には杉樽が並べられ当時の雰囲気を肌に感じられる施設として、中では酒、みそ、たまり、しょうゆの製造工程をビデオで紹介。隣接する工場で造られたばかりのお酒や食品を味わえる施設です。館内では常設展「十五代当主 盛田昭夫」が設置され、盛田昭夫氏ゆかりの品々を見ることができます。常設展では、盛田直子様直々に展示品について詳しく解説していただきました ---「盛田 味の館」から、中部国際空港 セントレアを眺望できる伊勢湾沿いを歩いて約5分。盛田命祺翁の陶像の置かれた小鈴谷白山神社を通り、昨年開館した「盛田昭夫塾」へ。盛田味の館、命祺翁の陶像、盛田昭夫塾は徒歩圏内 盛田家の15代当主でもありソニー創業者の一人でもある盛田昭夫氏とその妻良子氏の「人となり」を紹介する記念館として開館した「盛田昭夫塾」館内では、監修された盛田直子館長により各コーナーを詳しく解説していただきました。この日は、「盛田昭夫生誕100年記念企画」としてスポーツに関連する品が置かれていました ---盛田家本家を挟んで隣接する「鈴渓資料館」に移動。天災などから守るために倉自体を建築物の中に納めるという特殊なつくりの「鈴渓資料館」は、江戸時代初期から続く盛田家の歴史や「鈴渓義塾」の創設などにまつわる膨大な資料などを保存管理されている施設です。今回は「鈴渓資料館」館長の新宅弘国様に館内の資料について詳しく解説していただきました。盛田昭夫生誕100年記念企画として、こちらではゴルフ関連の品が飾られていました。 ---最後にもう一度盛田本家に移動し、参加者の皆様とお茶休憩をしながら歓談をし、今回の特別ツアー終了となりました。ー※ー※ー※ー今回の特別ツアーでは、盛田昭夫塾の盛田直子館長をはじめ、盛田味の館の畑中英孝館長、鈴渓資料館の新宅弘国館長、そして各施設のスタッフの方々のご厚意で、とても素晴らしいツアーとなりました。この場をお借りして皆様に改めて感謝をお伝えしたいと思います。ツアーに参加してくださった支援者の皆様も初対面ながら、おもしろい御縁を感じる方ばかりで、御関係をつなげることができたのも本当に良かったです。ツアーは無事終了いたしましたが、まだこれから『新実力主義』の本はもちろんのことポストカードなど、さまざまな活動報告を続けていきますので、引き続きお楽しみいただければと思います♪
株式会社ライブドアホールディングスの代表取締役前社長、弥生株式会社の代表取締役前会長などを歴任され、現在は小僧com会長であられる平松庚三様は、1973年から1986年までの13年間、ソニーに在籍しておられました。盛田昭夫氏とは主に「ウォークマン」事業において直接話し合い、時に言い合いをする間柄となり、ソニー退社の際には盛田氏に様々な手で引き止められるほどであった平松様による、盛田氏との様々な面白エピソードを日本外国特派員協会(外国人記者クラブ)※1にて伺ってきました。今回、平松様より許可をいただき、その中のいくつかをご紹介させていただきます。木原盛田さんとの直接の出会いはいつ頃になりますか?平松ソニーに入るきっかけは「「出るクイを」求む!」の広告を見て※2だったんだけど、盛田さんと多く話すようになったのはウォークマンの海外広報担当だった時からですね。ウォークマンのネーミングの件で、すごい剣幕で怒られたエピソードがあります。(注:盛田さんは、社内でも録音機能のついてない機械は売れないと反対の声が大きかった「ウォークマン」販売を決断し、自らプロモートされました。1979年当時、盛田さんは58歳、平松さんは33歳)木原一体なにがあったんですか?盛田さんは穏やかなイメージがあるので、すごい剣幕で怒るっていうのが意外な感じです。平松僕も盛田さんがあんなに怒るのを見たのはあの時だけでしたね。”こいつがアメリカとかとの交渉を全部やってるな” というのをわかっていたから、お前から言え!となったんだと思います。当時、ウォークマン発売に際して、アメリカとインドは「Soundabout(サウンドアバウト)」、イギリスは「Stowaway(ストアアウェイ)」、オーストラリアなどでは「Freestyle(フリースタイル)」っていうので、テレビコマーシャルをやりはじめていました。でも盛田さんは、ネーミングをすべて「Walkman(ウォークマン)」に統一したかった。ウォークマンのネーミングについて、アメリカの広報とイギリスの広報に対して、僕がこっち(本社)側になって、盛田さんとの板挟みになって大変だったんです。毎日盛田さんから電話がかかってくるわけですよ。僕はソニー本社の海外広報担当として、海外の担当に盛田さんの希望を伝えたものの、「アメリカもイギリスも違う名前でもうコマーシャルを出しちゃってて変えられませんよ」って言われて、そのことを盛田さんに伝えに行ったんです。あまりに板挟みでこのやりとりが続くもんだから、盛田さんの所に行って「盛田さんは ”マーケットグローバリー、コミュニケートローカリー” っていつも言ってるけど、これは(名前の統一を指示するのは)違うんじゃないですか?」って言ったんですよ。木原ずいぶん思い切った意見を盛田さんに言いましたね!平松そうしたら盛田さんが「ばかもーん!!この商品はソニーにとってはじめてのグローバルプロダクトなんだ!ソニーのはじめての本当の1つの製品なんだ!」って怒りはじめて。僕は全然理解できなかった、最初のうちはね。「グローバルプロダクトって、トリニトロンだってスカイセンサーだって世界中行ったんじゃないんですか?」って返すと、盛田さんは「行ってないんだよ実は!あれは違うトリニトロンなんだよ!」って言うわけね。テレビもラジオもグローバルプロダクトじゃないわけですよ。チューナーを取り換えなくちゃならないわけです。「あー、なるほどね!」と。「だけど、アメリカでウォークマンっていうのは英語じゃないし、あんまりニュアンスが良くないって向こうは言ってますよ」って言ったんですね。そしたら盛田さん、「当たり前だよ!ウォークマンは英語じゃないんだから!俺が作ったんだから!ソニー語なんだよ!」って。それで僕がまた海外の担当に「Morita said …」って伝えて。それでもまだ向こうからああだこうだっていうのが続いて。そしたら盛田さんが僕が見た限りでは初めて ”伝家の宝刀” を抜いたのね。伝家の宝刀を使ったのを見たのもあの時だけです。「ただいまより、世界中すべてのウォークマンのマーケティングを中止せよ!」…だってもう、テレビコマーシャル作っちゃったのよ。それを盛田さんが、ぜーんぶストップ!やめ! バシッと「すべて中止!!!」と。もう広告とか全てスタートして作り始めちゃっていたのに、盛田さんの一声で「中止」ですよ。それはなぜかというと、盛田流の一流の考えがあって「one and only(唯一無二)のグローバル計画」であるから。ウォークマンはわざわざラジオを付けなかった。ラジオをつけると、一つのモデルで世界中にいけないわけです。周波数が違うから。それで電気もなくてACパワーもなかったから、何ボルトとかも関係ない。テレビとかラジオとかって一つのモデルで世界中にはいかないけれど、ウォークマンは単三電池2個だけで世界中どこでも動く。だから、これがソニーにとってはじめてのグローバルプロダクトであり、ネーミングを統一することに意味があると。木原なるほど。だからネーミングをすべて「Walkman(ウォークマン)」に統一することにこだわったんですね。平松海外の広報からは、ネーミングに関して「ニュアンスが良くない」の他にも、いろいろといわれました。「ウェブスター辞典に載ってないから」と言われた時には、盛田さんは「将来載るんだよ!」とはねのけていましたね。ウォークマン10周年の時の盛田さん(1989年) 木原盛田さんは若い頃からずっとそういう発想をお持ちなんですね。1955年(盛田さん34歳の時)に、10万台のOEM契約を蹴って「お前の名前はたいしたことないのに」と言われた際に、盛田さんが「50年後には名前が残っているから」と言い放った逸話と同じ感じです。本当にそうなってしまうわけなのですが、まだそうなる前からの自信がすごい。ところで、そんな勢いのある盛田さんがいらっしゃるソニーから1986年になぜ離れようとされたのですか?盛田さんに引き止められたそうですが。平松半年くらい、あらゆる手で引き止められたよ。まずは人事副社長。ちょっと盛田会長と話してくれない?と言われて、「いやです」と。そしたらいろんな人が次から次へと電話攻勢でかかってきたわけ。盛田さんの命を受けて。でもなぜか盛田さんから直接そのことで電話がかかってくることはなかった。他のことではしょちゅう電話してくるのに(笑なぜソニーから離れたかっていうと、先が見えちゃって面白くなくなっちゃったんだよね。盛田さんからは「普通の人は先が見えて安心するのに面白いやつだな」と言っていたけれど(笑でもね、盛田さんから離れて外資系に行ってみたくなったんだけど、結局全く離れられなかった。転職して行った先は「アメリカンエクスプレス」だったんだけれども、そこは実は盛田さん、社外取締役だったの(笑それに正直、アメリカの外資系どこに行っても盛田さんの手の上にいるようなものだったんだ。僕はソニーのあと外資系4つ行ってるわけですよ。どこへ行ってもCEOが「お前ソニーにいたんだって?」「盛田さんのこと知ってる?」僕が「もちろん!」というと、興味津々で「どんな人なの!教えて教えて!!」木原すごい(笑。盛田さん、アメリカで大人気だったんですね。どんな風に魅力があったんでしょう?平松まずコミュニケーション能力だろうな。ただ言うだけじゃなくて、世界初のだとかをバンバン出していたじゃないですか。だから「SONY」を創った「Morita」がどんな人物なのか、興味があったんだろうね。僕が人間 盛田昭夫を話したら、外資系のCEO達、みんな凄い喜んだよ。教えて喜ばれた盛田さんのエピソードの一つに、”経営者はネアカでいろ” っていうのがあります。※3 ある時、車の中で盛田さんがスピーチの練習をしていて「経営者はネアカな奴がやらないとダメ」だなんとかいうのを聴いていて、僕が「そんなこといってもいつもネアカってしんどいですよね」って言ったら、「そういう時はネアカのふりをするんだよ」っていうのを言われたの。しかめ面からは何も生まれない、笑顔を振りまいてクライアントも社員もハッピーにすれば自分もハッピーになる。人もそうだし、会社も工場も一歩入った時の「印象」「空気」でうまくいってるかそうじゃないかってすぐわかるので、笑顔を振りまいて明るい空気にすることがとても大事なんだということを教わったんです。僕はわかるようになるのに10年かかりましたけどね。そんな話をするとみんな大喜びしていました。木原なるほど。つらい時にそのままつらい雰囲気を振りまくよりも、フリでもいいから、いつでも明るい雰囲気で笑顔でいたほうが空気感がいいですよね。私もネアカ、心がけます!経営者だけではなく、個人でも役に立ちそうな素敵なエピソードをありがとうございます。平松ソニーを辞めて、アメリカンエクスプレスの日本支社に入った際には、盛田さんが「今度アメリカ行った時に話しておくよ」というので、なんのことかなと思っていたら、なんとアメリカンエクスプレスのトップであるジム・ロビンソンに僕の事を話しちゃってて、それでトップから直々に日本支社の社長に「今度平松ってのがそちらに入るらしいんだけど、よろしく頼むよ」と伝えたらしく、僕が会社に行ったらもう大変!一体平松ってどんなやつなんだってね(笑居づらいったらありゃしなかった。そんなことされてプレッシャーハンパないけど、いい面もたくさんあって。盛田さんには感謝しているよ。木原辞めていく方にもそうやって気をかけて、先方のトップに話をされるって盛田さんって本当にすごい方ですね。平松あの2人(盛田さんとジム・ロビンソン)はすごく仲がよかったからね。お互いの家に泊まったりするんだから。一つ「たられば」の話になっちゃうんだけれども、盛田さんが経団連の次期会長になるという頃、ジム・ロビンソンがアメリカの駐日大使候補で、盛田さんが日本の駐米大使候補で、話が進みかけていたんだよね。日米貿易摩擦なんかもあったし、もしあの2人が同時期に大使になっていたらどうなっていただろうなって思うね。木原そうだったんですね。盛田さんが志半ばで倒れられたのは本当に残念です。経団連会長や駐米大使として世の中を動かす姿を拝見してみたかったです。ところで、私が平松さんを知ったのは「SOBAの会」という、ソニーを辞めて活躍しているOB/OGの会の代表者でいらしたことだったのですが、この会はお一人で立ち上げられたんでしょうか?平松数人の仲間と立ち上げました。一時期は二百何十人いたけれど、(会員の基準は)「自分の意志で辞めた」というのがあって、「今でも現役」と、それから「いまでもソニーをこよなく愛している」というこの3つがあるんです。でも2番目がもうなくなった。みんな平均が70後半になってきたから。僕はベンチャーを含め、今6社の社外役員と百姓をやっているんだけど、でもこんな風にやってる人はほとんどいないですよね。そうすると昔はよかった、孫の話とか膝が痛いとかそんな話になってきて、最近やらなくなっていたわけです。でも、大賀さんも来たし、出井さんは2,3回来てるし、盛田さんは何回も来るって言っていたの。「これおもしれーなー」と。でも盛田さんは病気になっちゃったんで来られなかった。木原平松さんがソニーを辞められた後も、盛田さんとずっと濃い関係を続けられていたのがよくわかりました。お話を伺っていて、盛田さんは多少言い返すくらい自分の意見を持った”強烈な個性”を持った若者が大好きだったんだなと感じます。最後に、今回『新実力主義』を復刊するにあたって何か一言いただけますでしょうか。平松『新実力主義』は今回、大ボス盛田昭夫さんの生誕100年を記念して復刊されるということで。この本は国内の保守的な社会に正面から物申していて、個人の自由や生きがい、働きがいこそが人生で最も重要であることを説いてて、盛田さんらしさがつまった「ネアカのふり」のバイブルだね(笑当時のソニーがどんな風に企業努力を重ねて数々の「世界初」を生み出してきたのかが、盛田さんが実際のビジネスの場で実行した事例をもとに語られているし、停滞する日本の今の時代にこそ必要な経営ガイドブックだと思う。この機会に今一度 盛田さんの力を借りて、終身雇用、学歴主義、年功序列、学卒一斉入社など国内に蔓延する昭和的経営を駆逐する必要があると強く思うし、本書はマネージメント層だけでなく、今の日本を憂う全ての人に読んで欲しいと思います。木原ありがとうございます!この度は色々とお忙しいところ※4、お時間いただきまして、まことにありがとうございました。ー※ー※ー※ー※1日本外国特派員協会とは、話題になった日本国内外の政治家、経済人、著名な評論家、音楽家、作家などの記者会見がおこなわれる場所です。盛田昭夫氏も指揮者のカラヤン氏と共に過去に記者会見をおこなっており、写真が残されておりました。日本外国特派員協会に飾られていた盛田氏とカラヤン氏の写真※2「「出るクイ」を求む!」については、今回復刊する『新実力主義』にて盛田氏が語っており、ここに一部を引用します。--- 積極的に何かをやろうとする人は「やりすぎる」と叩かれたり、足をひっぱられたりする風潮があります。 たいへん残念なことです。 いいアイデアを育てる人はなかなかいません。反対に、ダメだダメだとリクツをつけて、それをこわす人はたくさんいます。 しかし、私たちは、ソニーをつくったときから、逆にそういう”出るクイ”を集めてやってきました。 ソニーがつねに他に先駆けて個性的な新製品を出し、わずかここ十年間に「SONY」を世界でもっとも有名なブランドの一つにすることができたのも、ひとつにはそのような強烈な個性をもった社員を集めその人たちの創造性を促進してきたからだと思います。---『新実力主義』より※3平松さんより、日経の「経営者はネアカであれ」の記事の写真をいただきましたので、こちらに掲載します。『NIKKEI BUSINESS DAILY(日経産業新聞) 』より※4お会いした日は、ちょうど 平松さんの畑で稲刈りと出荷作業でお忙しい時期で、慌ただしいなか時間を割いて東京までいらしてくださいました。お土産に収穫したての新米(ランクA、評価:極上!!社業だけではなく、農業も極められています)をいただきました。美味しくいただきました!
2021/8/27〜10/15まで実施しておりました” 世界ブランド「ソニー」を創った盛田昭夫氏の幻の経営書『新実力主義』を今に伝えたい ” 復刊クラウドファンディング10/15(金)23:59をもちまして、無事に終了いたしました!ご支援いただいた皆様、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。50日間の挑戦、120名の方にご支援いただき総額¥1,608,000となりました。『新実力主義』が書かれた時代は「日本が産業力で世界第2位、経済成長率世界1位」の頃で、盛田さんはソニーが世界を代表する力ある会社になれた理由を本書の中で自信を持って述べています。そのため、かつての自信を失いつつある現代日本に生きる人達の中には「当時は良かったけれどさ…」と読んだ時に感じてしまうかもしれません。しかし、盛田さんはもっと時代を超えた内容を語っていると私達は感じています。入社したての社員達には「もっと自分らしい会社はどこかと常に考え、自分に合った生き方・働き方をしなさい」と説き、成人式を迎えた若者達には「自由について考えなさい、責任をもって自由に生きなさい」と応援しています。「もっと自由に、自分らしく生きていいんだよ」という盛田さんの問いかけはいつの時代でも響く内容だと思います。もちろん生き方論だけではなく、他にもマーケティングや経営についてもたっぷり持論を述べておられます。この本をいまの世にこそお届けしたいという想いから、クラウドファンディングを立ち上げました。クラウドファンディングの魅力は、金額をご支援していただくことはもちろん、何よりこういった挑戦、想いに対して応援のメッセージをいただけることです。毎日のように届く、支援者の方々、応援してくださる方々のコメントを読むことが本当に嬉しく、ありがたかったですし、これからの活動でもずっと励みになり続けます。今回は、クリエイターさん達とのコラボや、SNSのRTキャンペーン、ツアー計画、有料広告配信など、新しい挑戦・慣れない挑戦がとても多く、学ぶことが多かったです。人とのつながり、熟練した方々に頼ることの重要性に今まで以上に気づかされました。縁がつながって一気に拡散するという、時の運のような経験もさせていただきました。今回、お世話になった方々、何かのご縁で活動を知ってくださった方々に、ひきつづき喜んでいただけるような企画をこれからも考えていきたいと思います。改めまして、この度は復刊プロジェクトへのご支援と応援、誠に有難うございました。また随時活動報告をさせていただきますので、リターン品の到着を含め、楽しみにお待ちいただければと思います。2020.10.15株式会社フィールドアーカイヴクラウドファンディング運営チーム一同