2月22日、元WJBL選手の神事真規子さんにお会いしました。 神事さんは宮城県の小中学校で定期的にバスケットクリニックを開催され、子どもたちとふれあう経験をお持ちの方です。 今回のプロジェクト実施に際し、わたしたちのメンバーの中には初めて東北を訪れる人、初めてバスケクリニックに参加する人もいるので、神事さんから事前に様々なお話をお伺いできたことは、とても参考になり、貴重な時間でした。 わたしは初めてお会いしましたが、神事さんはとっても明るくて気さくな方で、バスケットを通じて子どもの成長を見られることが楽しい、と笑っていらしたのが印象的でした。 わたしも子どもが大好きですが、最近ではめっきり触れ合える機会がなかったので12日が楽しみです。神事さん、どうもありがとうございました! (よこ)
応援してくださっているすべてのみなさまへ まずはこの場をお借りして深くお礼申し上げます。 “バスケットボールを通じて東北の子ども達に異文化体験を”という内容から、ご支援くださった方々にはそれぞれの想いがおありのことと思います。 また、このプロジェクトのメンバーは、スポーツ(バスケットボール)が得意で英語が話せる人ばかりだろうと思われているかもしれません。もちろん、そのようなメンバーが多くいますが、実はわたしはそのどちらでもありません。 わたしは今、映画会社で働いています。 たった2時間ほどで、人を楽しませ、勇気づけ、励まし、深く考えるきっかけを残すことができ、人の心に寄り添う力を持っている映画がわたしは大好きです。 みなさんにもきっと、とても大切で、空気のように必要としているものがあると思います。 3月11日のそのとき、東京にいたわたしでさえ、いつもの暮らしが突然様変わりしたことを受け入れるのに時間がかかり、戸惑いました。そしてテレビに映る東北の風景を見ながら、多くの目に見える物だけでなく、ひとりひとりにとって特別な「あたりまえ」が失われているであろうことに苦しくなりました。それはもしかしたら、時間や機会や何かを思う気持ちかもしれません。 そう考えると、祈る、控える、まわりの人と話し合う、そうしたことだけでなく何か東北に向けて動きたいと思うものの、自分になにができるのか一層わかりませんでした。 わたしはしばらくチャリティイベントや募金活動、支援物資集めなどをしたり、被災されたご自宅の片づけなどのボランティアをしました。そうしながらも、もっと心の安らぎに近づけるようなことができないだろうかともやもやした気持ちを抱えていました。 その手段がわたしにとってはエンターテインメントだと思っていましたが、そんなときにこのプロジェクトのメンバーに声をかけてもらい、スポーツを通じて同じように行動を起こそうとしている姿に感銘を受けました。そこに自分の思いも重なり、一緒にこのプロジェクトを進めることとなりました。 震災直後は、衣食住にかかわる支援が何より急務とされ、スポーツや映画といったエンターテインメントの側面を持つものは二の次でした。これらが生活必需品ではないからという理由はもっともです。たしかに、人が今日も明日も息をしていくことには必要ないかもしれません。でもわたしは、人が今日も明日も楽しく逞しく生きていくためには必要不可欠だと思っています。 日常から生活必需品でないものがすべて消えてしまったら、わたしたちの日々の暮らしはどれだけ味気ないものになるでしょう。 このプロジェクトを通じて、楽しい時間を子どもたちと共有することができたらとても嬉しいです。 ~ご支援いただきましたみなさまへ~ ご支援くださったみなさまのメッセージを1通1通拝見し、そのあたたかい気持ちと託してくださった想いに、胸が熱くなるとともにこのプロジェクトを必ずいいものにしなければと身が引き締まる気持ちです。 現在、心をこめて準備に取り組んでいるところです。 当日の様子はあらためて、この活動報告のページでお伝えさせていただきますので楽しみにしていてくださいね。 引き続きみなさまのあたたかいご声援を、どうぞよろしくお願いいたします。
<東北のみなさんの温かさに触れて>2月24日(金)、25日(土)に私達の活動を受け入れてくれる先生との打合せとアスリートへの協力のお願いのために宮城県にいってきました。具体的な受け入れ先や、どの様なアスリートが協力してくれそうかは、正式に発表できるようになるまでもう少しお待ち下さい。先生と「一瞬一瞬を一生懸命、ホンキでプレーすることの大事さ」や「常に高いレベルを目指して頑張ることの大事さ」「そういった積み重ねが、スポーツ以外に繋がっていく」というお話頂き、ものすごく心が熱くなりました。東北に行って思うこと、それは逆に元気をもらってしまうことです。元気でだけでなく、モノまでもらってしまうこともあります。コーヒーを出していただいたり、名物をわざわざ僕らのためにたくさん買ってきていただいたり。いつも東京から持っていったお土産以上にたくさんのモノをもらって帰ってきます。支援するつもりが励まされて、そんなことの繰り返しです。もしかしたら、心の奥底では励まされたくて、人と人の繋がりの温かさを感じたくて、すごく自己中心な深層心理で東北に行っているのかもしれないと最近感じるようになりました。東北のみなさん、本当に、本当にいつもありがとうございます。<今回の旅で痛感した、ホンキになることのパワー、支えてくれる人の大事さ>さて、今回は一人で宮城県に行ったのですが、かなり久しぶりにレンタカーを借りて車に乗りました。昔、友人から借りた車をぶつけてしまい、その友人に迷惑をかけただけでなく修理代も10万円近くかかり、一生懸命働いたアルバイトのお金も一瞬で無くなってしまいました。そのときから僕は完全に運転に対する自信をなくし、今まで一人で運転をすることを出来る限り避けてきました。先生に日程調整でお電話して「線路が津波の影響で破損してしまって、車以外来る手段がないよ」そう言われて僕は青ざめました。メンバーで一緒に行ってくれる人を必死に探しましたが、全員、金曜日は有給が取れないという回答でした。「このタイミングで行かないと先生と企画の前にお会いできない」僕は一人の運転にトライする決意をしました。実際に乗ってみると、そんなに恐怖感は無く、比較的にスムーズに乗れました。食わず嫌いのように、必要以上に運転を怖がっていたようです。予定した時間通りに移動もでき、24日の終わりは僕の勤める会社のボランティアグループが松島にいるということで話を聞きに行き、松島の近くで宿泊することにしました。夜遅くで松島が見えなかったので、早朝に松島を見ることを楽しみにお布団に入りました。朝、目覚めてみると、景色が真っ白で全く松島が見えないではありませんか。寝る前は全く雪が降っていなかったのに、深夜に大雪が降ったのです。現地の方に話を聞くと、雪の松島なんかそうそう見れたもんじゃないからラッキーだね、そうおっしゃるのですが、それどころではありません。大雪の中、久しぶりの運転。僕は事故無しで帰れるか本当に不安でした。また、真っ青になりました。結論からすると一切事故はなかったのですが、何度も危ない場面が実際ありました。けれど、運転していて思ったのです。僕が明らかに初心者であることに周りの車が気が付いていて、大きく車間距離をとってくれたり、曲がろうとしている僕にものすごくスペースを空けてくれたり、明らかに僕に気を遣って下さっているのです。きっと雪国に暮らす皆さんは、凍結した路面を走る経験が無い運転手を見分けることができるのでしょう。過度に萎縮していたら、急にハンドルを切ってしまったりして、かえって事故を起こす可能性が高くなってしまいます。けれど僕は、車の中で東北の方々に守られている気がして、少し不安と緊張は解け、なんだか分からないけれど無事帰れるような気がしました。車を運転しているだけで、人の優しさや温かさを感じるなんて思っても見なかったことです。今思うと、あまりにも無謀でした。これが東京の大雪だったら、僕はほぼ確実に事故を起こしていたことでしょう。この企画を子供の笑顔につなげたい、その一心でいたら、少し乱暴なやり方ですが僕は車に乗ることができるようになりました。雪国で車を運転するつもりはしばらくありませんし、できるとも思いませんが、都内の普通の天候で安全運転する限りは事故を起こすことは恐らく無いでしょう。先生がおっしゃっていた、ホンキでプレーすれば色々なことに繋がっていく、それを話を伺った次の日に実感すると共に、挑戦するときには回りに見守ってくれる人がいること、その大切さを痛感した旅でもありました。 このイベントを通じて、ホンキになるってすごく楽しいんだってことを子供達に伝えられたらいいなと思いますし、こんなにも想って下さる先生が近くにいるんだよ、そんなことも子供達に気付いてもらえたらいいなと思っています。 直接・間接を問わず、支えて下さっている皆さんへの感謝を胸に、ひたむきに企画の準備を進めていきたいと思っていますのでどうぞ宜しくお願いします。ヒロ(田中 裕之)
支援して下さっている皆さんに、これから支援くださる皆さんに僕がなぜこのプロジェクトを立ち上げたいと思ったのか、これから実行をしていく上でその想いを共有させて頂ければと思い、そのきっかけや経緯について書かせて頂こうと思います。大好きなコトにホンキで挑戦する人が応援され、励まされ、走りぬいた後に後ろを振り返ってみたら、いつの間にか大切な仲間と笑顔で溢れている、そんな社会になってほしい。こんな想いをこめてこのプロジェクトに携わっています。これだけ書くと意味がわからない人もいるかもしれません。東北との繋がりも見えてこないかもしれません。このプロジェクトを深く知りたいと思ってくださる方に向けて、その経緯や僕の想いについて書きます。僕の生い立ちにも入り込むことなので少し長くなりますが、興味を持ってくださった方はどうかお付き合い下さい。---------------------------------------------------------------------------------------【NBAへのあこがれと中学・高校時代】僕はNBAを初めてじっくり見始めた中学時代、その興奮からずっとNBAに憧れ、いつかNBA選手になりたいと思っていました。自分の選手としての限界や現実が見えてくるなかで、NBAを生で見たい、いつかNBAで働きたい、そして高校の頃でしょうか、いつかこう思うようになりました。「NBAと日本のバスケットの架け橋になりたい」高校時代の最後は利き腕の左肩を大怪我し、ベンチで右手でスコアブックをつける、そんな引退の仕方をした僕は、ずっと選手としての自分に何かふっきれないまま、大学に進学しました。【大切なバスケの仲間との出会い、そして夢のNBAインターンへ】大学では体育会に入るもののすぐに退部、その後はバスケサークルに入り2年生のときにキャプテンを務めることになります。全国大会とは全く無縁の僕でしたが、1つ下の後輩達は全国ベスト8のスタメンもいるような強者ぞろい。でも彼らは本当にバスケットが大好きで、上手いか下手かで人を見るのではなく、コートにいる瞬間にホンキでバスケットをプレーするかどうかを大切にすることのできる仲間でした。コートの上では手を抜かない彼らに、何度もコテンパンにされましたし、またそれが僕の喜びでもありました。高校のときに描いた夢、その夢を追いに大学時代に1年間アメリカのシアトルに留学しました。その留学プログラムでは約半年間の授業の後に、インターンシップにチャレンジをします。 僕の中で選択肢は一つでした。NBAのチーム、シアトルスーパーソニックスのインターン。このチャレンジ以外の選択肢は僕にはありえませんでした。 今回も日本に来ることとなる当時の上司Wyjuanaと面接をし、その数日後NBAで働きたいという僕の夢は現実になることとなります。 「あなたをインターンとして迎え入れられることを幸せに思います」そのメールの文面を見たとき、僕は今まで感じたことも無い達成感に包まれましたが、その後にすぐに寂しさが全身を襲ったのを覚えています。 バスケサークルの仲間達がそこにはいないこと。この喜びをまっさきに伝えたい大切な人がすぐ隣にいないこと。そのとき僕は初めて気が付いたのです。夢を達成すること、それ自体が僕にとって大事だったのではなく、僕が夢を達成したときに自分のことのように喜んでくれる仲間がいて、その温かさを感じられること、それが僕にとって本当に大事なことだったということに。【新しい夢・消え去った夢】僕はそれから帰国までの期間、毎日ジムに通い、トレーニングを始めます。大きな大きな夢ができたからです。帰国してから卒業まで残された1年間、大切な仲間と一緒にホンキのバスケを全力でやりぬき、「バスケ選手としての自分の一生を納得して終える」という夢です。結果がどうあれ、この最高の仲間達と一緒なら、大学を最後にホンキのバスケに胸を張ってサヨナラできると思っていました。 3月に帰国、4月末には就職活動も終わり、いよいよこの夢にむかって全力で歩む環境が整って心が弾んでいた5月の始まりのことです。 新入生歓迎の練習で新入生と交差して左膝の前十時靭帯を断裂し、僕のホンキのバスケは思わぬ形で終止符を打つことになりました。医師から1年間はプレーは不可能だと言われたとき、僕はその言葉を受け入れることができませんでした。ただただ涙を流すばかりで、苦しくて、辛くて、仲間達のどんな声も情けをかけられているように聞こえてしまい、心が安らぐことはありませんでした。誰が悪いでもないのに交差した新入生を恨んだり、元キャプテンにも関わらずそんなことを思ってしまう自分を責めたり、気を遣わせていることがたまらなく辛くなったり。ぶつけようの無い想いに心が行く先を無くしていました。そして自分の暗い雰囲気でみんなまで暗くなってしまっているような気がして・・・。僕はそのとき本気で思っていました。「今の自分には生きている意味なんかないんじゃないか」そんな自分をサークルの仲間達は卒業後もずっと支えてくれ、僕の愚痴をただずっと聞いてくれていました。情けをかけられるのは嫌だ、と優しさを歪んで捉えていた僕の心も少しずつ変わり始め、彼らが喜んでくれるように僕も前に踏み出したいという気持ちに変わっていきました。暗いトンネルをぬけるまで相当の時間がかかりましたが、バスケットボールの存在を越えて大切なもの、愛するものがたくさん自分の周りにあると気が付いたとき、そこに小さな光が見えたのです。【夢を追う中で得た大切なもの】夢が叶うこともあれば、夢に破れることもある。たいした夢では無いかもしれませんが、叶ったことも破れたことも両方を経験する中で僕が気が付くことができたのは、どっちの結果になったとしてもホンキで夢を追う過程でめぐり合えた大切な仲間の存在こそが、自分の生きる意味になり得るということです。大好きな何かに巡り合い夢を追う決意をするその時に、全力で夢を追うことの環境が整っていること、夢を追うことを心の底から応援してくれる人がいること。人が人らしく生きるために必要なその風土が、日本にはもっともっとあってもいいと思うのです。バスケットボールという夢にめぐり合い、けれども苦しんでいる人と今も数多く出会います。そのたびに、僕は医師から夢の終わりを告げられたあのときを思い出し、胸が締め付けられるような気持ちになります。バスケットに出会ったことで苦しい思いをしている人を見るたびに僕はあのやり場のない苦しみを思い出すのだと思います。大好きなコトにホンキで挑戦する人が応援され、励まされ、走りぬいた後に後ろを振り返ってみたら、いつの間にか大切な仲間と笑顔で溢れている、そんな社会。それを実現するのが今の僕の願いであり、そして夢です。【大震災とバスケットボール、そして新たな出会い】大震災の後、僕は自分が愛してきたバスケットを通じて何か出来ないかずっと考えていました。そんなとき、元WJBLの選手の神事さんが声をかけて下さり、東北を訪問することとなったのです。プロジェクト概要にも書いたとおり、震災は多くの体育館という空間を奪い、バスケットボールをプレーする環境を東北から奪い去りました。僕の怪我なんか比較にならないほど、子供達は苦しかったはずです。それにも関わらず、数時間の間バスケットと共にあった子供たちの眩しいくらいの笑顔、また来てねと言ってくれた無邪気な子供たちの呼び声。心の底からありがとうと言ってくださった顧問の先生の感謝の言葉。あの子たち、子供たちを想う先生、そして、あの喜びにもう一度会いに行けたら。その感動を色々な人と共有することで、少しでも東北の子供たちがバスケットを楽しむ環境が良くなることに繋がったら。僕の夢を叶えてくれたWyjuanaとFredrickに、東北を支えたいというホンキの気持を共有できる大切な仲間達に、あの時東北に確かにあったその笑顔を見せられたら。そんな想いをこめて、僕はまた、東北に行きます。【寄付をしてくださった皆様へ】寄付を頂いた方の想いはそれぞれに違う想いかもしれません。けれども、僕の想いと皆さんの想いが少しでも重なることがあることを心の底から願っていますし、寄付をしてくださった方の想いが少しでも多く叶うよう、僕はプロジェクトをひたむきに推進していきたいと考えております。どうか引き続き、皆さんの温かいご声援を宜しくお願い致します。代表 田中 裕之(ヒロ)
皆様のあたたかいご支援のおかげで、本日無事サクセスいたしました! パトロンになってくださった皆様、 twitter 、 facebook などで告知にご協力いただいた皆様、応援してくださる皆様に、まずはこの場を借りて、 sport solution メンバー一同深くお礼申しあげます。 本当にどうもありがとうございました! リターンにもありますお礼メールに関しては、おひとりおひとりに、これからお送りさせていただきます。 このたびの皆様のご支援に感動し、励まされ、絶対にこのプロジェクトを成功させようと燃えております。 これからこの活動報告の場で、準備段階のこと、わたしたちのこと、活動の目指すところなどお知らせさせていただきますので報告を楽しみにしていて下さい! ご意見、ご質問がありましたら、お気軽にお申し付けくださいませ。(担当:よこ) それでは引き続き、よろしくお願いいたします!