島に残る自然井戸の中でも、アマガーと呼ばれる井戸は最も原初的な形態を残している。漢字で書けば天川。役場から北西にすこし行ったところにある辻の一角に草が生えている空き地があり、その一部が凹んでいてちいさな穴が開いている。そこがアマガーの洞穴の入口だ。かつては桶を持った女性たちが列をつくって順番を待っているような賑わいのある場所だったに違いないが、今は使われていないので一種の遺跡でもある。井戸のそばにある大岩は島の古い神さまを祀る場所であり、岩の足元には石の香炉が置かれている。 アマガーの洞穴の断面の形状はまるで蟻の巣のようだ。地表から三メートルほど下った小さな窪地に洞穴の開口部があり、そこから斜めに下っていく狭い洞穴の斜度は、平均すれば二五度ないし三〇度くらいだろうか。地表からの深さはおよそ十四、五メートルで、入口から斜距離にして二五メートルほど下った最奥部に湧水がある。 (略) アマガーの前を何度か行き来しては思いあぐねていた。だが結局、洞穴の入口を眺めながら逡巡したあとで、窪地を下りていった。草の間から地盤を粗く削ってつくった石段が認められたので、足で探りながら進んでいった。 洞穴の入口で立ち止まって内部をうかがうと、穴はひとがひとり入るのがやっとの狭さであり、内部は暗いが、傾斜は想像していたよりも緩やかに思われた。足元には岩肌を荒々しく階段状に刻んであって、その先は闇の中に消えている。 手を合わせて井戸の神さまに許しを乞い、深呼吸してから洞穴を降りていった。
『多良間幻視行』の目次です。 プロローグ第一章 島の散歩 多良間島へ 聖なる井戸 史跡と神々 不思議な小道 一周道路に沿って第二章 スツウプナカの祭祀 五月の旅 夜の祈り 歓待 神々を送る朝 祭祀の背景第三章 八月踊り スクム 仲筋正日《しょうにつ》 組踊『忠臣仲宗根豊見親組』 塩川正日《しょうにつ》、そして分かれ 八月踊りの背景第四章 多良間の生と死 「すでぃる」のこと スラブ祝いとオトーリ 高校のない島 多良間の死 選挙のこと タラマフツ(多良間方言)のこと第五章 歴史の中の多良間旅のあとで長いあとがき 変更はあると思いますがこんなかんじです。
日本にはたくさんの離島があり、離島経済新聞サイトによれば、沖縄だけでも49の有人離島があるということです。その中でなぜ多良間島なのか。わたしが最初に多良間島を知ったのは、淡水レンズということばによってでした。多良間島は隆起サンゴ礁の島で、琉球石灰岩からなっています。そのために水の確保に苦労してきました。しかし近年、地中に大量の淡水が隠れていることがわかってきたのです。岩の割れ目にしみ込んで存在する淡水は、凸レンズのような断面を持っているので「淡水レンズ」と呼ばれ、この貴重な淡水資源をいかにうまく汲み上げて利用するかが研究されています。わたしが多良間島を知ったのは、淡水レンズのある島としてなのでした。 それから風水集落です。琉球王国の時代に、風水の影響を受けて形成された集落が沖縄には残っていますが、多良間の集落はその代表的なもののひとつと言っていいと思います。集落の構造じたいが歴史的な遺産なのです。さらにいくつもの伝統的な祭祀の存在があります。「八月踊り」が有名ですが、その他にもいくつもの祭祀が伝承されています。そのほとんどが観光化されていません。多良間島を描くにあたっては、この島をテーマとする本を探しましたが、発見することはできませんでした。ネットで調べてみても情報はわずか。旅行したひとたちのブログを読むと、「この島にはなにもない」「なにもないのが魅力」というような表現が目立ちます。しかし、わたしはそうは思いませんでした。事前にちょっと調べてみただけで、今述べたような興味深い事実がわかってきたからです。この島はおもしろいに違いない。そう思って、まずは図書館通いからはじめましたが、予感は当たっていました。いろんな資料や文献を読むだけで、1年半が過ぎていきました。・・・
『多良間幻視行』がスタートしたのは2012年のことでした。沖縄の離島、多良間島(たらまじま)に興味を持って調べはじめました。それからおよそ1年半を事前の調査に費やし、実際に多良間島を訪れたのは2014年のことです。… 自転車のような身軽さで滑走路上を走って一番端に到着すると一八〇度転回し、そのまま躊躇することなく滑走をはじめた機体はあっという間に離陸すると、急角度で高度を上げて巡航高度三〇〇〇フィートに達した。 低空を飛ぶ小型プロペラ機特有のふわふわした飛行感覚を味わいながら窓に額を押しつけるようにして下界を眺めていると、墜落してもなんとかなるだろうと思えるくらい海が近くて、波頭のひとつひとつまで見えている。この日は北風が強かったせいか、小さな機体はよく揺れた。 宮古島からの飛行時間はおよそ十五分。島の北の沖合から進入した機体が旋回しながら空港に向けて高度を下げていくと、島を取り巻く広いサンゴ礁の縁《へり》で砕ける白い波が見え、その内部にひろがる明るい青色の浅い海が見え、島を縁《ふち》どっているくっきりと白い浜が見え、それらを飛び越えるとすぐに滑走路が現れる。軽々と着陸した機体がターミナルビルの直前に到着するとプロペラが回転を止め、一瞬だけ静寂が訪れる。…ですが、原稿がある程度まとまってきても出版の機会はなかなかめぐってきませんでした。一方で、時間が経過する中で島の出身者との交流が深まって行き、島について考える時間が与えられたのも事実で、いまとなってはなかなか本にできなかったことが幸いだったという気もしています。こうした経過をたどったために、書籍にするための文字原稿や、掲載する写真はほぼ準備ができています。文字原稿はおよそ18万字、写真は50点程度。書籍のサイズは四六判、並製(表紙が硬くないタイプ)をイメージしています。原稿レベルでは、まだいくつか越えなければいけないハードルがありますが、そのことについては次項以降でご報告します。