最終日。ここでの挑戦は今日で最後。 この1か月間、温かいご声援、そしてたくさんのご支援 本当に本当にありがとうございます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー *以下、過去リンクとメンバーの想いの記事まとめです* ●mammaクラウドファンディング(トップ画面)● https://camp-fire.jp/projects/view/22666#menu ★1、看護師をしててアフリカに逃げたまりや https://camp-fire.jp/updates/view/29334#main ★2、イジメや波乱万丈人生乗り越えてきたゆうさい https://camp-fire.jp/updates/view/29410#main ★3、シティガールから田舎暮らし&女将&子育てに飛び込んだもめ https://camp-fire.jp/updates/view/29457#main ★4、京大生でブラック企業・婚約解消・うつ・引きこもりを乗り越えてきたもてき https://camp-fire.jp/updates/view/29904#main ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『まだ出会っていないあなたの、遊びに行くよ宣言を励みにしよう!』 そうして始めた、今回のクラウドファンディング。 「出会いの窓口を広げよう」とひとつの手段として、このような形をとりました。 できたばかりの未完成なチーム。クラウドファンディングなんてやったことがない。 オープン日に急かされ、急造で立ち上げたプロジェクト。 はじめはなかなかうまくいかず、伸び悩みました。 「目標200万円はさすがに無謀だったかな…」後悔したり、 私たちも素直に「お願いします」 と言えず、 「自分から支援してくれる人だけでいいんじゃないか」 そんな風に、自分のなかで折りあいをつけようとした部分もあったかもしれません。 でもそんななか、日を追うにつれて少しずつ、少しずつ、 想いに共鳴し、支援くださる方が現れてくれました。 まだオープンもしていないのに、まだ何も私たちから提供できていないのに 「応援しているよ」「遊びにいくよ」 みなさんからの声が、私たちのもとに届きました。 シェアしてとお願いさせてもらってないのに 厚意で自分の言葉を添えて、お友達に広めようとしてくださる方もいました。 久しく連絡できていない友人から 「がんばってるんだね。勇気をもらいました。応援しています」と言葉ももらいました。 そんなみなさんに勇気をもらい、励まされ、 ぼくたちも、恥をしのんで、迷惑だと思われるかなと怖がりながら 知り合いにSNSでのシェアや支援をお願いさせていただきはじめました。 「この場所を、少しでも多くの方に届けしたい」 知ってもらいたい。みんなに応援してもらいたい!! そして今、想像を超える190名もの方々と このmammaでつながるご縁をいただきつつあります。 つい少しまえには30万円だったのに。 150万円に辿り着くまで、誰が想像できたでしょう。 こんなに応援していただけるなんて、ぼくら自身も思いませんでした。 本当に本当にありがとうございます!! すべてはご紹介できませんが、こうして170件以上の方々が支援してくださるのが ぼくらの視点ではこう見えて、感じています。しっかりと。 mammaを楽しみにしてくださる方 豊島の新しい試みを応援してくださる方 mammaにボランティアで足を運ばれ、お力添えくださった方 西粟倉の元湯ファンの方、西粟倉のみなさま 豊島のみなさま メンバーそれぞれがこれまでお世話になってきた方々。 元気玉のように、本当にたくさんの方々の応援があり、私たちは今日を迎えています。 感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。 本当はなくなるはずだった場所を、再び 神愛館は、長きにわたって、愛に溢れる場所でした。 たくさんのひとたちの、たくさんの思い出が詰まっている場所。 ここで育ち、いわば「ふるさと」のような愛着を持っている方もたくさんおられ 「私はここで育ったのよ」 「うちの子どもが通っていました」 「ここで働いていました」 「行事の時はいつもここに来ていました」 そんなお声を本当にたくさんうかがいます。 でも、2年前に乳児院が坂出に移転し役目を終え 本来は取り壊される予定の場所でした。 「想いの詰まったこの場所を、どうにかして残したい。」 そう想い、行動してくださったおひとりおひとりの想いが バトンのようにつながった末に いまこうして『mamma』として、新たな物語がはじまることになりました。 『ありのまんま』で居られる場所。 かつての神愛館のように、愛が溢れる場所。 この場所にあったたくさんの思い出を大切に受け継いで これから”mamma”として、新しい物語を 紡いでいきたい。 私たちは、みなさんひとりひとりとの出会いとご縁でここまで来ることが出来ました。 この先も、様々な方の出会いがこの場所で交わって、 少しずつ『mamma』がつくられていくのではないかと思います。 『ありのまんまで居られる場所』 愛を持ったスタッフで、そんな場所をつくりながら、 みなさまといつか出会える日を、心から楽しみにしています。 \\挑戦は本日23:59まで!// ご支援くださる方、どんなご支援でも、SNSのシェアでも 心の中での「応援してるよ」でも、いただけるもの全てが私たちのパワーにになります。 応援、どうぞ宜しくお願いします!! ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー *過去リンクとメンバーの想いの記事です* ●mammaクラウドファンディング(トップ画面)● https://camp-fire.jp/projects/view/22666#menu ★1、看護師をしててアフリカに逃げたまりや https://camp-fire.jp/updates/view/29334#main ★2、イジメや波乱万丈人生乗り越えてきたゆうさい https://camp-fire.jp/updates/view/29410#main ★3、シティガールから田舎暮らし&女将&子育てに飛び込んだもめ https://camp-fire.jp/updates/view/29457#main ★4、京大生でブラック企業・婚約解消・うつ・引きこもりを乗り越えてきたもてき https://camp-fire.jp/updates/view/29904#main ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー mamma
いろいろあったけれど、今ぼくはここにいます。 茂木(もてき)です。 みんながありのまんまの生き様を書いてくれたので ぼくも書かせていただきます。 ------------------------------- 【活動報告過去記事】 ★メインページ https://camp-fire.jp/projects/view/22666#menu ★1、看護師をしててアフリカに逃げたまりやhttps://camp-fire.jp/updates/view/29334#main ★2、イジメや波乱万丈人生乗り越えてきたゆうさいhttps://camp-fire.jp/updates/view/29410#main ★3、シティガールから田舎暮らしまで。想い担当もめhttps://camp-fire.jp/updates/view/29457#main 【最新の記事】最終日 https://camp-fire.jp/updates/view/29931#main------------------------------- 「不良」と言われたゆうさい と「優等生」と言われた もてき。対照的なこの2人がいま、一緒にmammaをつくっています。 「ありのまんまな自分を知ってほしい」 そう思う反面、自分をさらけ出すことに抵抗があります。 「恥ずかしい」 「嫌われたり見下されたりしたらどうしよう」 そう思う自分がいる。 ここ数日、どうしても文章がまとまりませんでした。 でも「飾った自分」ばかりを演じ続けるのって疲れる。 そうじゃないところだって沢山あるよ。 でも「弱さ」や「失敗」って、人には見せられない。 一度「弱い」ってレッテルを貼られたら、おしまい な気がしてしまう。 けれど、勇気を出して表現していたら受け容れてくれるひとがいる。 「自分らしさ」を知ってもらえて、肩の力が抜ける。 「ありのまんまな自分」でもそばにいてくれる。 そんな友達が見つかった方が、ずっとずっと嬉しい。楽しい。 それに、弱さを認め合え、支え合える社会の方が、やさしい。 願わくば、社会をその方に進めたい。 だから、不器用ながらに書いてみました。 お涙頂戴でもなく、誰かのためでもなく、ぼく自身が「ありのまんま」であるために。 まとまらないので読みづらいかもしれません。 よければしばし、お付き合いいただけたら嬉しいです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ぼくのコンプレックスと成長過程 1986年。茂木邦夫は群馬県松井田町、妙義山の麓の自然豊かな田舎町に生まれ育ちました。兄と二人兄弟でした。 「邦夫」という名前は、両祖父の「邦次」と「武夫」から1字ずつ取り、名付けられました。笑いや冗談の少ない、真面目な家でした。 父は物事をはっきり言うし勉強熱心だけれど言葉遣いがあまりよくなくドアを締める音も、話す声もいちいち大きい。母は心配性でおせっかいなひとでした。そして、あまり掃除がされていない家だったのが恥ずかしくて「友達を家に呼んで遊ぶ」という経験を、あまりしたことがありませんでした。 いつもひとの家に遊びに行ってたのは、来てほしくないから。 家を見られたくないから。貧しい、と思われたくないから。 ぼくは粗雑な家柄のなかで「丁寧で繊細」な性格に育ち裕福でなく、雑な自分の家を「恥ずかしい」と思い、隠しながら成長してきました。こうして「悩みや弱みをひとに見せない」というぼくの性格にもなっている気がします。 1986年はバブル崩壊前。その頃はまだ電気屋も稼げていた時代でした。けれど小学生の頃にバブルがはじけた影響か、家電量販店ができ始めた影響か、両親の間でお金のことでの口喧嘩が多くなりました。 両親の諍いが多い家庭で育つと、「子供は両親両方の気持ちをわかろうとする」という子供らしくない「気持を察する力」が発達し、「共感性」が高くなるそうです。なので、ぼくは涙もろく、「人の気持ちを自分事のように感じる感性」が育ったのかもしれません。(その繊細さは諸刃の剣で、「ネガティブな感情の影響も受けやすく、感情的にぶれやすい」という側面もあります。) 父は町議会議員と電気屋の2足のわらじでした。選挙に落選したり電気屋が苦しくなったのもあり「2人は大学には行かせられない」となりました。 大学に行きたかったはずの兄は、ぼくに譲り、就職しました。 ぼくは中学の頃はいわゆる優等生。成績もすべて5(体育と美術 以外)生徒会長をやったり内申もよかったので学校推薦をもらって、県内一の進学校に進むことになりました。 高校では吹奏楽部に入り、勉強もせずにフルートに没頭。県内のコンクールで金賞をもらえるようにもなりました。3年生で部活を引退したあと、猛勉強するも、京大には不合格。親に浪人させてもらい再度受験し、合格点ぎりぎりですべりこみました。当時暗い話題が続いたうちの両親にとっては、久々の嬉しい話題だったようです。 ぼくの夢 幼いときから「困っているひとの役に立ちたい」というのがぼくの夢でした。 困っているひとを助けたいのか、過去のぼく自身を助けたい思いがあるからなのかわかりませんが「自分ではどうにもできない状況から抜け出す手伝いをしたい」と思っていました。また、灰谷健次郎の「天の瞳」という本で「こどもに寄り添う」という考え方にも感銘を受け 「ひとがそれぞれ持つ宝石のような可能性を磨くお手伝いをしたい」と思うようにもなりました。 その後も想いは変遷をたどり、「小学校や保育園の先生になって、多感な時期の子どもの成長をいろんな側面から手伝いたい」「ゆとり教育なんてものをやってるのはなんでなんだろう。文科省に入って上流から変えなければ」「なんで生まれながらに境遇の違いがあるのだろう。国連の難民教育基金に入って難民問題の貧困の連鎖を断ち切りたい」と移り変わっていったものの、最終的には「人のための前に、まずは自分がやりたいことを全力でやってみよう」と思い至りました。 オーケストラに捧げた大学時代 「京大に入ったら面白い人たちがいるだろう」そう期待して入った大学は、想像していたものと違い、ほとんど授業にいかなくなりました。 それよりも、本気で音楽に取り組む交響楽団のひとたちに心を動かされ、音楽に傾倒。下手の横好きで200人の楽団でフルートを5年吹き、学生指揮者を1年やらせていただいたりしました。 楽器も上手くて多様で個性もこだわりもアクも強いメンバーが、 ときに衝突を繰り返しながら、成長しながら、 「音楽」を通して「ひとつ」になっていく過程は、ぼくにとって充実した時間でした。 ぼくはカリスマ的なやリーダーシップは持っていなかったし 団員ひとりひとりとコミュニケーションを取りながらサポートしていくような いやむしろサポートしてもらってるような指揮者でした。 もっとも、輝かしい側面だけではなくて、実際はとても大変でした。自身の力不足のためにみんなの力になれないことも多く「もっとぼくが○○であれば」と悩むこともありました。 貴重な経験であったと同時に、引退してからは音楽から距離をおきマーラーの9番をもう一度聴くまでに5年かかりました。 卒業し、社会人に。「事業再生コンサルタント」 「本気で働いている大人っていないな」と就職活動にも嫌気がさし、第一志望のJICAにも落ちた頃、 たまたま出会った会社の説明会で凄い方がいて、その人に惹かれたのもあり収入よりも、「働きがい」や「貢献」を重視しながらも「コンサルタント」という肩書きに憧れて ベンチャー企業に入りました。 仕事は旅館の再生。廃業予定だった旅館を3年で再生するプロジェクトに入りました。 アクセスのよくない「陸の孤島」のような施設を、ハードリノベーションせずに、ソフトのおもてなしと営業の力だけで再生する手法。現場の接客から、掃除、営業、経理、マネジメントまで、幅広く携わり、支配人として尽力しました。 厨房さんにも若いスタッフにも恵まれて、どんなに疲れていてもお互いを気遣ったり、 チームワークがすごく良かったおかげもあり、徐々に宿としてかつての賑わいが取り戻されました。 そこで教わったことはとても多く、現場はとても楽しかったのですが、悲しいこともありました。学歴で劣等感を持つ上司からは成果の出にくいところでがんばらされたり、当て馬採用(高学歴のひとと競争させて成果を出させ、学歴劣等感を解消する手法)だったことを知らされたり「京大のくせに大したことないな」と言われたりもしました。 ぼくという人間を見ていないような人に採用されて、自分の愚かさを痛感しました。そういう人に「お前はこの程度だ」と限界を決めつけられ、評価されながら働くのは苦痛でした。 耳障りの良いことを言ってモチベーションを上げ、マネジメントする手法で、いわゆる「やりがい搾取」。繁忙期には月411時間働いた月もありました。 会社はそういう職場を改善することよりも売上を重視し、ぼくもスタッフに負担を強いなければならない立場で、精神的にもつらいものがありました。けれど、友達や同僚には相談できませんでした。 そうして気づいたのは「会社と上司はぼくの幸せのことなんか考えていない」ということ。 ここにいては、ぼくはダメになってしまう。 「会社に依存せず、自分で責任を持てる人生を送ろう」と、人生の舵を切ることにしました。 自分らしいライフスタイルを求めて そのときに偶然他の宿に泊まってみようと口コミのいいところを探し出会ったのが倉敷のゲストハウス「くるま座 有鄰庵」。当時じゃらんの口コミ評価が総合5.0という高得点で、口コミも5点しか入らない。どうしてなんだろうと不思議に思って訪問すると、美観地区の持つ特別な雰囲気と、笑顔の素敵なスタッフさんたちが迎えてくれました。 数回目の訪問で当時庵主で現アースキューブジャパンの中村さんに会うことができました。 そこで教えていただいたのは大原三代から続く倉敷の文化的・歴史的な背景、そして「経済的な豊かさを超える、心の豊かさ」をコンセプトにしているということでした。どうしたらこんな場所がつくれるのだろうと思いました。 そういえば昔から、ずっと引っかかっていたことがありました。学校教育のなかで、順位をつけ、優劣を競い合う。できることは良いこと。できないことは悪いこと。完璧を目指すこと。言うことを聞けるのが「いい子」いい大学に入って、いい会社に入って、たくさんお金が稼げて、高い地位についてお金をたくさん持っているのが「幸せ」。結婚しているのが「幸せ」綺麗な家が「幸せ」。綺麗な服が「幸せ」。 じゃあ、汚れている服や、安い服を着てるひとは不幸なの?小さい家に住んでるひとは不幸なの?結婚してないひとは不幸なの?できないひとは劣っているの?言うことを聞けないのは良くない子なの? 「経済的な豊かさ」「心の豊かさ」というのが、ぼくにとってキーワードになりました。 そうしてアースキューブジャパンの「ゲストハウス開業合宿」に参加。 そこでは、ゲストハウスの開業ノウハウを教えていただいた部分もありますがそれ以上に、心に響く話、そして素敵な人柄のひとたちに出会い「やはりぼくが進んでいく方角はこっちだ」と確信したのでした。 それから前職を退職することになりました。 プレイベートでは当時婚約していた彼女とは婚約解消することになりました。 「幸せ」の定義はひとそれぞれ。 私は「心の豊かさ」を重視しており、 彼女は「金銭的・物質的な豊かさ」や「安定」を重視していました。 女性不信になりかけながら、そのなかで「価値観やライフスタイルが共感できることが大切」だとこのとき気づかせてもらったのでした。 生きているうちで、ひとの出会いはたくさんあります。けれど、「心が繋がるような、共鳴できる出会いをするためにはどうしたらいいか」 と考えるようになりました。 退職し、全国各地を旅するなかで気づいたことは「自分の心のままに好きなところへ行くと、好きなひとに出会える」ということでした。そして「好きな場所を、ここではないどこかに探し求めるのではなく、自分でもつくれないだろうか」と思い至るようになりました。 ぼくにとってゲストハウスはあくまで手段。「心つながるゲストハウス」というコンセプトで事業計画書を作成し大家さんにご提案させていただいたこともありました。 入るなり最初は「そういうのはお断りだ。帰ってくれ」と言われ門前払いでした。そこから1時間話も聞いてくださり、「記念にこの資料はもらっておくよ」と言っていただけるところまで話を聞いていただきました。けれどあいにく、ご縁はありませんでした。 そうしたなか、全国各地でリノベーションスクールというまちづくりに参加したり、各地のゲストハウスに泊まったりたくさんの出会いがありました。 山口県の百姓庵さんで古民家改修に取り組んだり、塩や野菜の作り方を教えていただいたりもしました。 「いろんな生き方がある」ということを少しずつ知りました。 リノベーションスクール仙台ではかっこいい生き方をしている先輩たちにも出会いました。 いろんな方に勇気をいただくにつれて 「じゃあ自分は一体ナニモノなんだ」と思うようになりました。 ぼくは何を大切にして、生きたいのだろう。 そんなとき、旅の出逢いからご縁があり、佐賀県の有田町へ行くことになりました。まちづくりのしごとです。うつわ男子としてPRしたり、カフェの複合施設の新規立ち上げを手伝ったりしました。 仕事だけでなく、有田では素敵な出会いに沢山めぐまれました。地元のお祭りにも参加させてもらい、 焼き物屋さんも窯元さんも有田に住む人はみんな一緒になって お酒を飲み仲良くなり、踊り歩きました。 けれど、信頼していたひとに裏切られ、どうしても立ち直ることができず引きこもりになったのでした。 【挫折。ひとの優しさ】 2016年10月、あなたは何をしていましたか。 ぼくは暗い部屋のなかで、布団にくるまって、疲れ切っていました。たぶん、心療内科で診てもらったら「うつ病」と診断されていたと思います。 「裏切られる」という言葉の意味をはじめて知り、心がすり切れ、もう何も力が湧かない。 何もしたくない。 何も話したくない。 誰も信じられない。 あれだけひとと話すことが、ひとが好きだったのにひとを信じるということを、もうできなくなっていた。 暗い部屋の布団のなかで、12時間以上眠り、「つらい」とつぶやく日々。憎しみに囚われたくなくて、人にも迷惑をかけたくなくて、自分のなかでなんとか消化しようとがんばって涸れるまで涙を流し、嗚咽する日々と抜け殻のように過ごす日々でした。 そんななか、立ち直るきっかけをくださったのも、またひとのおかげでした。 心配してくれたひとたちがわざわざ家に押しかけて忘年会を開いてくれ、 餞別に有田焼や曲をいただいたりしました。 「何があっても、俺はもてっちゃん味方だから」「もてきがおらんくなったら寂しいわ」 電話をかけてきたり、食事に誘ってくれたりしました。 会社の社長たちも心配して、何度も足を運んでくれました。 正月もひとりぼっちでいたら、「お節をたべにきんしゃい」と誘ってもらいました。 ひとのやさしさが沁みて、涙もろくなりました。 ひとりだったらきっと、あの暗闇からは立ち直れていなかったと思います。 お世話になってばっかりで、有田にはまだ何も恩返しができないない。 「有田でもう一度がんばろう」という気持ちを奮い立たせようとしたのですが 回復と不調を繰り返すなかで、どうしても体調が戻らないので 「海外にでゆっくりリフレッシュでもしてこようか」 と、「第二のふるさと有田」を離れ、実家の群馬に帰ることにしました。 有田駅で大手を振って見送ってもらい、 餞別に贈ってもらった曲を聞き、 感謝と不甲斐ない自分を情けないと思いながら、旅立ったのでした。 【帰省。そして奇跡のようなタイミング】 どうしても力が出ない。そんな群馬に帰ったちょうどまさに1月20日。 その夜に、井筒もめさんのfacebookの記事を偶然、見つけたのでした。 実は、もめさんとは前年に、 アースキューブジャパンの中村さんの西粟倉村視察に同行させていただいたことがあり、 そのとき元湯に宿泊してお会いしていました。 「子どもを真ん中にした大きなお家」という素敵なコンセプトのファンになり、「こどもとお母さんが笑顔な社会が幸せな社会だと思う」という考えに共鳴し、その後もfacebookは拝見しておりました。 そのもめさんが、新しくつくるゲストハウス。しかも「誰もがありのまんまになれる場」というぼくが求めていたようなコンセプトしかも募集してるのは「経営感覚があり、マネジメント能力のある方。」 「場所のコンセプトに共感し、集まったスタッフのリーダーとなれる愛ある人」 まさにぼくが求めていたような内容。そしてタイミング。 こんなことってあるんだろうか。何かがあと押ししてくれてるのだろうか。 「愛あるリーダーになる資格、ぼくにあるのだろうか。」 「でも、もしできるなら、なりたい」 このときだけは何故か心と身体が動き、その日の晩に、メールで応募。 そこからすぐに履歴書を送り、ゆうさいくん、もめさん、社長と面接になりました。 ぼくにとっては本命の、大切なチャンス。 事前にインターネットに載ってるもめさんやゆうさいくんや会社の文章を ほぼすべて調べ、少しでもみなさんが大切にしてる価値観を知ろうと努力し、 同じ言葉を使ったり、より共鳴しやすい状態になろうとできる限り準備しました。 やれるだけやって、後悔したくない。 でも正直まだ睡眠時間も12時間眠りこむような体調ですから、 「よし」と気合をいれてようやくひきつった笑顔が出せるような状態が本当の姿。 「ありのまんまを大切にしたいと言ってくれてるひとに ぼくが無理して飾った状態で会おうとしていいのだろうか」 「今は元気がないけれど、それもありのまんまに、話してみよう。ダメならご縁がなかったということだ。」 そのままの状態で面接にのぞむことにしたのです。 そうして面接が終わった日、もめさんはこんなメールをくれました。 「私自身は、京大生とか正直そんな点で期待とかはしてないです。もっと感性の部分。人となりの部分に共感しています。 茂木さんが自己開示してくださったうちの直近の心の傷とかそういったものも包み込めるような場にしていきたいからスタッフ自体が多様で、人の心に寄り添えるような人がいいなと思っています。 素や弱みを出しすぎたと恐縮されていたけど、全然こんなくらい平気ですよ。むしろ弱さを知っている人の方が、人の弱さに寄り添えますもん。」 そうして今、ぼくはここにいます。 【今思うこと】 旅館で働いていなかったら有鄰庵に出会うこともなかったし 有鄰庵で中村さんに出会わなければもめさんに出会うこともなかったしもめさんに出会わなければ豊島に来ることはなかったと思います。 自分の心が惹かれるままに、感性を大切に動いていたら昔には想像もしなかった場所にたどり着きました。 繋がっていないようでいてぼくから見たら、いろんな経験や出会いはつながっているから不思議。 つらいこともたくさんあったけれど、そこも含めてのぼく。その分、人の優しさに感謝するようになり、人の悲しみに寄り添えるようになったかもしれない。 「ここは違う」と思ったら逃げてもいいし、失敗したっていい。いろんな選択肢や生き方や考え方があるってことぼく自身まだまだ知りたいですし、まだ知らない方には知ってほしいと思っています。 【最後に】 mammaはいろんなひとに来てもらいたいと思っています。そして、いろんな話をしたいです。 ぼくは今から80カ国バックパッカーになることはできないし、看護師になってアフリカにいくこともできません。それはあなただけが持っているストーリーだからそれを聞かせてください。他愛ない話でも、なんでも。 この場所では、生まれも、年齢も、学歴も、肩書きも、性別も、国籍も、関係ありません。名前だけあれば、あなたという存在だけあれば、それだけでいい。かつて乳児院だったこの場所だから、溢れる愛もあるし、離島だし、少しまじめな話をするのにちょうどいい口実だってあるから。 いろんなひとがいて、いろんな生き方がある。多様性を知ることで、認めあうことで、前より少しやさしくなって自分らしさを取り戻せたらいい。そうしたらほんの少し、社会の幸せの総量があがっているのかも。 それがぼくがつくりたい「ありのまんま」になれる場所。です。それがうまくいくかどうかは、まだこれからの話。 ぼくもこの場所で時を過ごしていくなかで愛ある人になっていけたらなと思っています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上です。長文おつきあいいただきありがとうございます。 ひとは、ひとりでは生きるのが大変なときもあるけれど ふたり以上なら、ずっと楽しい道のりになりますね。 ご覧いただきありがとうございました。読むの大変でしたね。 ぼくも書くのが大変でした。笑 いつかまた、お会いできるのを楽しみにしています。 もてき
たくさんのご支援、本当にありがとうございます! 多くの方が応援くださり、なんと100名を超える方がこのプロジェクトを応援してくださっています。 本当に感謝の気持ちでいっぱいです!どうもありがとうございます。 あと3日。粘り強く、頑張っていきます。 豊島福音学校のごはん さて、今日はごはんのお話しです。 豊島には、1927年、神愛館を設立した賀川豊彦も関わって、農民福音学校が設立されました。 そこでは、循環型である『立体農業』に着目した当時としては画期的な手法を学ぶ場であったのに加え、 農業だけではなく、『生活を豊かに楽しむ』ということを目指す場でした。 福音学校は1982年に閉校を迎えましたが、現在豊島では、 いまだからこそ、その歴史や考え方をもういちど学ぼうと、 福音学校の『土曜クラス』というものが不定期で開かれています。 福音学校で共同生活を送っていたとき、出されていた当時のレシピがいまも引き継がれていて、 土曜クラスでは、その料理も一緒に調理しながら、いろいろなお話しを伺うことが出来ました。 特製レシピのスコッチエッグや、枇杷の葉で発酵させた納豆! 当時からある、ロシア式薪釜で焼かれたパンまで。 時代は食糧も豊かでなかった当時だとは思いますが 農業のかたちも食卓も工夫しながら、生活が営まれていました。 まだまだいろいろなレシピがあるので、島のおかあさんたちに学ばせていただきながら 様々なストーリーとともにこんな料理も出せていけたらいいなぁと そんなことを考えた、学び多き時間でした。 mamma
たくさんのひとの手で、いのちが吹き込まれています 乳児院が移転したあと、2年間、この建物は使われていませんでした。 建物はひとが居ないとどんどんと朽ちていくとはよく言われることですが、 この神愛館も、とてもひっそりとしていました。 ふと、工事が始まる前の神愛館の写真をみて、いまの様子との違いに驚きました。 私たちが豊島に来たばかりのころの神愛館。 そこから、毎日私たちがこの場所で活動を始め、 そして手すりのペンキを塗りなおしたり、ご厚意で壁に高圧洗浄をかけていただいたり。 手をかけることで、ひとの息吹で、いまではこんなに明るい印象へと変わりました。 地域の方々のあたたかな見守りと、 たくさんのボランティアの方々を始め、力を貸しに立ち寄ってくれた友人知人、安倍アトリエのスタッフさん、、 多くの方のおかげで、ここまで進んで来ることが出来ました。 そして建物もやっぱり、生きているのだなぁ。 これからも、お力添えをいただきながら、私たちも一層、頑張っていきます。 再び、活気を。 乳児院のころの神愛館は、こどもの声で溢れていただけではなく、 地域の行事をこの場所で行なったりと、島のひとたちの憩いの場になっていて その活気が、地域を盛り上げていたようです。 この場所に再びいのちを吹き込み、 ここに来てくれるひとたちと、地域のひとたちと、 たくさんのたくさんの力で、生き生きとした場にしていきたい。 改めて、そう思っています。 たくさんの応援、本当にありがとうございます! みなさまのおかげで、CAMPFIREのトップページにも取り上げていただいています! 90名にも及ぶ方々がご支援くださり、心から、嬉しいです。 たくさんの感謝とともに、この勢いで、頑張っていきます。 さぁ、あと4日! mamma
GW限定青空カフェ、無事に終了しました こんにちは、mammaです! 先日のゴールデンウィーク、豊島は多くの観光の方々で賑わっていました。 「原宿はこんな感じなのかしら?」 と、地元のおばあさんが一緒にお話ししているときに冗談半分で言っていたけれど 港は船を待つひとで行列ができ、 初めて豊島で迎える大型連休、ひとの流れの変化に驚きました。 島の方々のなかには、インターネットに親しみのあまりない方もおられるので、 新聞の折り込みでお知らせをしたり 自治会長さんや観光協会の方々にご挨拶をしに行ったり 島内放送でみなさんに呼びかけをしたり 様々な準備をし、その日を迎えました。 そして、ゴールデンウィーク。 お天気にも恵まれ、青空mammaカフェにもたくさんの方々に足をお運びいただきました! ここを待ち合わせ場所として島のお母さん同士がコーヒーを飲みながらゆっくりと過ごされていたり、 帰省したお子さんやお孫さんをお連れになって3回も来てくださるおばあさんがいたり、 隣りにある特別養護老人ホームの方々が、気分転換にと職員の方とともに車いすで連日来てくださったり、 神愛館で働かれていて、この場所がどのように生まれ変わるのか、気になって見に来てくださる方がいたり。 人生相談をして帰っていった大学生や、 お話しをしているなかで、豊島の産廃などの歴史を初めて知ったと興味深く耳を傾けてくださる方々がいたり 海外からのお客様で、乳児院に興味を持って施設の見学もしていかれる方々がいたり。 この場所だからこその、色とりどりな出会いが様々にあります。 たくさんの交流が生まれ、 mammaが始まった後、来てくれる方々が混ざり合ってここがどのような場になっていくのか、 いまからとても楽しみです。 そして、宿泊の予約をしたい!という方々にも、本当に多く足をお運びいただきました! 「同窓会をやりたいけど大人数の宿泊が出来る?」「食事の要望には応えてくれる?」 などなど、たくさんのお問合せをいただきました。 いまからその日を楽しみにさせてくださるみなさまに、とても感謝です! 「オープンしたらまた来ます!」「楽しみにしています」 「お風呂入りに来ます」「頑張ってね」 たくさんのお声もいただき、 一層がんばっていこう!と、決意を新たにしています。 応援してくださる方が70名を超えました!! たくさんの応援を本当にどうもありがとうございます! ここでの挑戦も、残りわずかになりました。 mammaでのこれからのたくさんの出会いを楽しみにしています! いろんなひとが混ざり合うこんな空間に、ぜひとも加わってほしいなと思います。 どうぞよろしくお願いします! mamma