島を好きになって暮らしている人たちとの出会い再び、もめです。わたしは岡山で立ち上げた宿、「あわくら温泉 元湯」と、豊島を往来して、準備をしています。ゴールデンウィーク期間は、青空カフェ実施のために、豊島に滞在していました。 豊島にいると、この島が好きになって「移住したい/移住したんだ」という方に度々出会います。特に女性が多い印象を受けます。「ここで暮らしたい」「じゃあ何を生業にしようかな」という順番。豊島は、大型店舗など便利なものは一切なく、穏やかな島。 「理由はわからないけれど、出会ってしまって好きになってしまった」 その姿は、生まれ育った神戸の街を出て、岡山の田舎町で暮らし始めた9年ほど前の自分と重なるところがあります。 街育ちの私が、田舎に暮らし始めた9年前。 私にとって田舎暮らしはじまりの土地は、岡山県のある田舎町。70年代の古着で身を固めた神戸のシティーガールが、ほぼ無人の駅に、ベージュのローファーで踏み入れた時の驚き。とっても静かで、のどかで、何もない。水路は蓋がされていなくて、水の流るる先が見えること、夜空には星が瞬いていることを知りました。豊島に居ると、何もないその町での暮らしの全てが愛おしかった、そんな瑞々しい記憶がよみがえります。 タイトなスカートから、もんぺに履き替え、田畑を耕し、古い民家の自宅に友人知人をたくさん招き、その町のファンを増やすことが喜びでした。田舎暮らしへの予備知識は何もなかったけれど、身体がその土地土地に慣らされ、あらゆることを経験しました。 初めて暮らした田舎町で田んぼをする私 三年暮らしたあと、また奥深い棚田だらけの集落に行って、山仕事をしたり、古民家の改修の手伝いをしたり、鹿を捌いて食べたり、自宅で子を産んだりしました。さらに三年あとには、森林に囲まれた地域に行き、薪でお風呂を沸かしたり、温泉宿を営んだりしました。さらに三年たった今、離島でも宿をはじめることとなりました。 2箇所目の暮らしの場で鹿を解体する私 薪を焚べる私 岡山で宿を始めた頃の私 いつでも帰れる場所があれば、生きていける 色々な土地でいろいろな出会いを繰り返し、どんな場所でもそれなりに適応できるタフさを手に入れてきたけれど、折に触れて思い出し、心の支えとなっているのは、はじめて暮らした町でお世話になったHさん。Hさんは、わたしのことを本当の娘のように大切にしてくださりました。神戸から出てきて、寂しくて心細かった時、寂しい時にはいつもHさんの家に駆け込んできました。同世代の友達もいなかったので、40くらい離れたHさんの友達グループに混ぜてもらって自転車でお茶しに行ったり、晩御飯を食べたりしました。Hさんの畑で採れた野菜は、私にとって、農法とかを超えて、何より美味しくて元気になる特別な存在です。今でもこの野菜を食べること以上に、心身が満たされていくことはありません。Hさんのいる町を離れた後も、節目節目で会いに行き、「もめちゃんが決めたこと。応援するわよ。」と声をかけてもらって安心して前に進んでいます。 田舎で暮らすことは、美しいことだけではありません。よそ者に限らず、若者に限らず、色々あります。色々とある中で、日々の暮らしを淡々と営み、出ていく人を見守り、来る人を迎え入れる。そこに帰れば、その人がいて、どんな自分も受け入れてもらえると思えば、安心して生きていける。わたし個人では到底及びそうにもないけれど、mammaという場が、そうなるといいな。誰かにとってmammaが、私にとってのHさんみたいな存在に。 そんな想いが改めて心に浮かんだゴールデンウィークでした。
「ありのまんまでいる」って、難しいようで簡単なことなのかもしれない。 まりやがmammaに対する思いを書いてくれたので、僕も思い、というか生き様というか、そんなことを”ありのまんま”で綴りたいと思います。あまりにいろんなことが26年という人生において起こっているので長くなりますが、最後まで読んでいただけると幸いです。 僕は、元乳児院であるmammaが、「ありのまんま」でいられるのと同時に「失敗しても生きていればやり直せる」「いつでも帰ってこれる」そんな場になって欲しいと願っています。神愛館で働いていた保育士さんも言っていましたが「この世に生まれてきたからには幸せに生きる権利がある」と思うからです。 僕は13歳の時に不意な事故によって20段ぐらいの階段からダイレクトに落下し、左脚のアキレス腱が切れ、骨が複雑に折れる粉砕骨折を経験しました。激痛の後、左足が変な方向に曲がっており救急車で運ばれました。全治1年ぐらいの大怪我で、このことが人生の大きなターニングポイントになりました。マジョリティ(多数派)と呼ばれる枠から、この時にポンっとマイノリティ(少数派)へと、見事にはみ出ました。 いじめは風邪のように次から次へと伝染していくと思うのですが、僕のクラスでもいじめが大流行していました。半年間の長い入院期間を経て中学校に戻ると、松葉杖をついた弱々しい姿をした僕は格好のいじめのターゲットになったのです。松葉杖がなくなって片足でケンケンで家まで帰ったことや、給食で残ったであろう牛乳を学生バックの中で開封されて全て教科書が使用できなくなるようなこともありました。このようないじめの毎日は約2ヶ月間続き、地獄のような毎日でした。 いじめが終わると自分の居場所を非行の場に求めるようになりました。悪い人たちとつるむことによって自己承認欲求を満たそうとしていたのだと思います。自分を悪く見せることによっていじめをされないように演じていたのだ、とも思います。ある日、友人たちと警察が出動するぐらいの大喧嘩をしてしまったことがありました。迎えに来たお母さんが涙ながらに「あんたは何も悪くない、私が悪かった」と、僕に謝ってきたことがキッカケとなり、悪い道から手を引くことを決めました。 学校の先生からは「おまえはクズだ。クズが生きている価値があるのか。」と、さえ言われたこともあります。今でも僕の心に突き刺さっている言葉です。僕は、生きていてはいけないんだ、と思っていた時期もあり、軽い引きこもりになっていたこともありました。 中学校を卒業したら、すぐに塗装職人として働くことを両親に伝えましたが、猛反対され、通信制普通科の高校に進むことになりました。通信制ですが毎日通うフリースクールのような高校では、野球と勉強に励みましたが「普通になろう」と思えば思うほど、学歴などが邪魔をして前に出ることができませんでした。 「肩書きなどのバックグラウンドもすべてを降ろせるような」mammaがそんな場になって欲しいとも心から願っています。 高校2年生の時、数学の問題が解けたことをキッカケに猛勉強。大学に進学することを決めます。せっかく学校長推薦をいただいた大学には修学旅行で喧嘩をして窓ガラスを割ってしまい推薦が取り消しになりました。その後、なんとか教育心理学系の大学に進学しました。大学生活では、バックパック1つで旅するバックパッカーに明け暮れました。日中は学校に通い、夕方からはバイトを繰り返し、長期休みには旅に出る、これの繰り返しでした。日本を出るたびに「自分の悩みの小ささに、自分が生きてきた場所の小ささに、実は人々は優しいんだ」ということに気づかされました。「神様の正体は、もしかすると見返りの求めない愛なのかもしれない。」そんな悟りのようなことも考えていた時期もありました。 大学3年生の時に、自宅に帰ると母親が心筋梗塞によって倒れていて、そのまま帰らぬ人となりました。「明日がないと思ったら、今の自分はどう生きるのか」をテーマに、休学をして世界一周の旅に出ることにしました。バックパック1つ、自分の目で見て、肌で感じることのできた旅でした。あまりにも大きいものがありました。 ストリートチルドレンを見て「いじめにあっていたことは学校に行けていたし、いじめられても帰る家や迎え入れてくる両親がいたことは幸せなことだったんだ」と過去を肯定できるようになりました。地雷で左足がない子どもを見て、話をし、左足が粉砕骨折で済んだことに感謝したりするようにもなりました。 シリアの子どもと出会い、その笑顔に「生きること以外、何もいらないんじゃないか」と思ったこともありました。「幸せは、いつも自分の心が決める。」そう、思いました。大学時代は、複数のシリア難民支援のNGO団体でボランティア活動などもしていました。 ヒッチハイクで旅をしていたアメリカのグランドキャニオンの雄大さに震え、自分の小ささを知りました。グランドキャニオンに行くまでの道中、野宿をしているとギャングのおじさんに「アメリカで自分の意見を言わないということは、死を意味することと一緒だ。」と言われたのも印象的でした。 ヨーロッパでは、生まれて初めて英語を喋れないアジア人というだけで人種差別を受けたこともありました。逆に英語を勉強する動機になりましたが、当時は、とても悔しかったです。 mammaでは国籍・宗教・人種・言葉を問わず、みんながリラックスできる場を作りたいです。 アフリカでは、生まれるということと死ぬことを学びました。 福島の第二原発とチェルノブイリの第一原発を訪れ、不都合な真実を知りました。mammaでは、普段タブーとされているような会話ができる場にもなればいいな、と思っています。 帰国後、就職活動を行いましたが同じスーツを着て、同じことを模範解答のように返答することに嫌気が差し、新卒でJICA青年海外協力隊に参加しました。公用旅券で向かったアフリカでは先進国の人々が行っていることの異様さと、現地の人たちの力強さや本当の意味での豊かさを目の当たりにしました。日本で考えていた固定概念を剥がせば剝がすほどに、アフリカに住む人たちと仲良くなれたような気がします。生まれてから「ありのまんま」で生きていたはずなのに、いつの間にか失敗を繰り返し、子どものような心に蓋をしてありのまんまでいられなくなっているのではないか、と気づかされたのもアフリカでした。 しかしここでも1年も経たずに交通事故にあって右腕の神経を切ってしまい、任期を短縮して帰国することになりました。 帰国後に、恩師でもある学生時代にインターンしていた会社の社長の紹介で井筒耕平さんと出会い、母親のお墓が近くにあったご縁で、あわくら温泉元湯を訪れ、こんな場所を将来作りたいと思うようになり、そのままの勢いで現在の会社に就職しました。 気がつくと80カ国以上の国を47都道府県の各地を訪れていました。世界や日本を回っていて感じた1つの大きなことは、肩書きや国籍、宗教、肌の色、すべてを取っ払ったら、みんな同じ人なんじゃないか、ということでした。人は生きていればいいはずなのに、いつしか上下関係を築き、資本主義の世界では”何者”であるかが重要視されてしまいがちで本来の姿を忘れてしまっているのではないか、と感じることが多くあります。僕は10代の頃から、建前と本音を使い分ける大人の社会に圧倒的な違和感がありました。mammaには、僕の様な過去を”今”経験しているヒトに遊びに泊まりに来て欲しいです。みんなが帰れる場所に、リセットできる場所に、したい、と心から思っています。今でもその思いは変わっていません。僕は、今もバックパッカーのような働き方でいろいろな場所を転々としているので、毎日いるわけではないけれど、そんな想いの方から連絡をもらったら、必ずmammaで待っていたいと思っています。中学生の時の僕が、僕のことを「クズ」と呼んだ教師が、今の自分を見たらどう思うのでしょうか。僕の心には過去に自分が経験したことを経験している人たちを救いたい、という気持ちが心の根底にあります。 こんな記事を書いていたら、生きてさえいればどこかで報われるときがくるのだ、と誰かに伝えたくなりました。 長文失礼いたしました。 こんな僕の気持ちや思いに共感してくださる方がいらっしゃいましたら、ご支援、ご協力いただけばと思います。よろしくお願い致します。 ゆうさい
豊島に漂着するまで こんにちは。今日はわたし、まりやの話しをします。お付き合いいただけると嬉しいです。 私はこれまで、看護師をしていました。 私は小児の専門病院に勤めていました。希望の病棟に配属になって、でもそこは長い闘病の末に亡くなっていくこどもも多い部署でした。 こどもたちはみんな小さなからだで毎日頑張っていて、そしてなにより可愛くて可愛くて、こちらが反対に元気をもらえる瞬間ばかりでした。 でも、こどもたちやそのご家族の頑張りが必ずしも回復につながるとは限らず、その現実にぶつかるたびに、他人の私でさえバランスを保つのが難しいほどでした。 どうしようもなく涙してしまうことも多くて、こんなにも『生きている』『生かされている』ということを感じられる、感謝できる環境にいるのに、多くのこどもたちとの永いお別れをするたびに、「自分なんかが生きている」ということに疑問を持ってしまう自分がいました。 「もう一回おうちに帰りたい」と純粋に願い頑張るこどもたちや 「あと数日、数時間だけでもいいから一緒に居たい」と心底願っているご家族を前に、 そんな自分勝手な感情を抱いている自分をどうしても許せなかった。 でもどうしても強くなりきれなかった私は、少しずつ、自分の心のいろいろな声や感情の動きにできるだけ気づかないように、蓋をするようになりました。 でもそれは一時しのぎで何の解決にもなっていなくて、結局なにも変われず弱い私はどうしようもなくなって、数年の年月勤めたのち、その現場から『逃げる』ということを選択しました。 逃げた先はアフリカでした。ちょうど退職を決めたタイミングで 青年海外協力隊 という存在を知り、そこに飛び込んでみようと決めました。 合格通知で初めて聞いたそのアフリカの小さな国は、『ベナン共和国』という国でした。 ベナンでのまいにち ベナンは、ベナンで出会えたベナンのひとたちは、私のいままでの感覚をひっくり返してくれました。そして、蓋をしていた自分の感情が少しずつ出せるようになったのは、ベナンのひとたちとの関わりが大きいです。 全身でお喋りをするように、喜怒哀楽をはっきりと表現するベナンのひとたちが、私にはとてもまぶしく映りました。こんなふうに、自分の感情に素直にいたい、それを共有したいと、そう思うようになりました。 ベナンの小さな村での生活 そのなかで、私が仲良くなった女性は、ナデージュといいます。 西アフリカのベナンの、ウェボという街のはずれにあるドワという村に住んでいます。 大体のひとが暦を気にして生活をしていないので、自分の年齢を良く知りません。 彼女はおそらく20歳そこそこで、2人のこどもを持ち、旦那さんの2人目の奥さん。 彼女とどうして仲良くなったのかあまり覚えていないけれど、笑顔が素敵だったのと、いつも白人の私たちが言われる「お金ちょうだい」「なにか物をちょうだい」ということをなぜか一切言わず、現地語で屈託なく話しかけてくれました。 彼女と、その家族とたくさんの一緒の時間を過ごしたいと思い、私は徐々にその家で寝泊まりするようになります。1畳ほどのゴザを、彼女と、5歳くらいと3歳くらいの少年2人と私とで横たわり眠る、きゅうきゅうな日々。 電気や水道の通っていないその村の生活はとても豊かなものでした。 たくさんの情報は入ってこないけれど、その分目の前の家族や集落のひととの繋がりがなによりも強く、そしてあらゆる知恵が溢れている。 日が昇ると起き、暑いときは木陰で休み、食べるものは自分で育てたり木に生っているものを収穫し、こどもは周りの集落みんなで育て、暗くなると眠る生活。 月明かりが明るくて、満月近くなると私たちは月明かりでお喋りをするのが楽しみでした。 日本という国がすごく遠いところにあって、そことベナンには時差があるということを説明するために、地球が丸い、ということを伝える必要がありました。 「この地面は丸くない!」と信じていなかったけど。 そして日本へ。 日本に帰ってきて、いろんなことの違和感を感じました。 夜も明るくて24時間眠らないお店があって、年中同じものが食べられる生活。 舗装されていて、靴が汚れない生活。 どこにいても電波というもので誰かと繋がっていられて、でも休日なんかは、誰とも会話しなくても買い物をして食事をして、生きて行けてしまう生活。 たくさんの物や情報が溢れ、豊かなようで、でもなにか満たされない感覚を、常に抱くようになりました。 そして、再びの単身ベナン。 やっぱりもう一度だいすきなベナンに行きたくて、ナデージュやその家族に会いたくて、ひとりでベナンに行きました。 丸いらしい地球の遠いところから飛行機に乗ってきた私を、ナデージュも家族も、村のひとたちもとても喜んで迎えてくれました。 そして、まさかのマラリアに罹患。 薬草を持ってきてくれたり祈祷師さんが来てくれたりしたけれど、やはり限度があるもので、あんなに「先進医療」というものへの疑問を感じていたのに、ぼろぼろの車で高熱のなか首都まで行き、白人の先生の居る病院に行き、薬を処方してもらいました。 命がかかるなんてそんな大したものではなかったけれど、食欲がよみがえったあの瞬間は、身体が生きようとしているのだと嬉しくて、自分の生命のエネルギーを感じた瞬間だった。 逃げる、ということ いろいろなものから逃げて、いろいろなところへ行ってみたけれど、大切なのは結局は『自分自身』なのだなと思います。 場所を変えたって自分が変わらなければなにも変わらないし、反対に、自分次第でどうとでも変えられるのではないかと、そんなふうに思っています。 そしていまでは、『逃げる』ということは必ずしも悪いことではないと思っています。 我慢して頑張ることはもちろん大切だけど、踏ん張れるところまで踏ん張ったら、心のバランスが崩れる前に、元気で居られるように、『逃げる』ということは時として前向きな選択なのかもしれないと、そう思います。 「いまからでもなんにでもなれる。」 そんなふうに思って、わくわくするほうに進んだら、いまは豊島の、mammaに行きつきました。 看護師という仕事もすきだけれど、いまは少し離れてみて、でもこれからもまた違うかたちでなにかしら、関わっていけたらと思っています。 わからないこと慣れないことばかりでメンバーみんなの足を引っ張りまくっているけれど、新人社会人はこれから頑張っていきます。 私の原動力は『わくわく』。この気持ちがあれば、この先も大丈夫だと思います。 ありのまんま の私。 心の声を無視したり感情に蓋をするクセがついてしまった私には、正直、自分の『ありのまんま』というのがなんなのか、いまでもわからなくなる時があります。 でもいろいろな『ありのまんま』があっていいのかなと思っています。 旅先で出会ったひととしか話せないこと、そんな話をしている『ありのまんまの自分』そんな姿でもいいのかもしれないと思っています。 自分なりの、ありのまんまの姿で居られる場所 そんなmammaをつくっていきたいと思っています。 まりや
生まれ変わる、ということ 観光の方とともに、豊島にお住いの方や、大型連休中のため豊島に帰省してこられた方など、たくさんの方に足を運んでいただいています。 ゲストハウスに生まれ変わるために工事をしている内部をみて驚かれたり、 なかには、ずっと豊島に住んでいたけれどもはじめて中に入った、なんて方も足を運んでくださり、ご案内させていただいたりしています。 私たちが知らない、神愛館の姿やエピソードをお話しいただくたびに、 「そのような場であった、ということをこれからも伝えていきたい」という想いや 「その想いを受け継ぎながら、かたちは変化していくけれどもまた新しい姿になっていけたらいいな」と そんなふうに感じます。 「ここが生まれ変わるのね」「楽しみにしているよ」 そんなお声やお気持ちをいただきながら、mammaという場を良い空間にすることで、少しずつお返しをしていきたいなと思っています。 『青空mammaカフェ』という『出会いの場』 ゲストハウスという場所は旅人の出会いの場のひとつであるけれども、 それだけではなく、お客様として来てくださった島の方同士がこの青空カフェで出会ってお話しをされている場面も多くあって こんなふうに、旅人だけではなく、地域の方々にとってもひとつの出会いの場であるような そんな空間にmammaがなっていきたいな、なっていけるのではないかと、そんなふうに感じています。 さて、ゴールデンウィークも折り返し。 明日からも『出会いの場』、青空mammaカフェ 元気にオープンします!
きっかけは岡山の山村の廃業した温泉施設の復活から 今回は、メンバーの一人である、もめの想いを綴ります。このプロジェクトのプロフィール写真でいうと水色のつなぎをきているのがわたし。チビふたりが子どもたちです。 わたしにとって、人生2度目のゲストハウスづくりです。わたし自身のことを言うとゲストハウス自体にはほとんど興味はなく、ゲストハウスをつくっている、という意識はほぼないです。それでもやることになった理由は、誰かが場の再生を望んでいるからです。 スタートは、岡山の小さな村にある廃業した温泉施設、あわくら温泉元湯を手がけたことからでした。再開を望まれていたタイミングに出くわし、ゲストハウスとして再生することに。改装当時、2歳と0歳の子を育てている真っ最中だったので、子育て当事者の自分が欲しい場所をこだわり抜いてつくりました。超大変でしたが、火事場の馬鹿力のようなもので切り抜いてきました。コンセプトは「子どもの笑顔が真ん中にある大きな家。」子どもからじいちゃんばあちゃんまで混ざり合った、まさにみんなの家みたいな場所に育っていて、「実家みたいな場所だなあ」と言われることがよくあります。 (その辺りのプロセスや葛藤はこちらの本に書きました 「まちのゲストハウス考」) 「みんなの家」のようなゲストハウス そして変容する「家」の概念元湯をつくり、四季が二周回り、豊島のmammaをつくりはじめ、「家族」や「家」の概念がもっと多様で柔軟な存在になればなあと思うようになりました。わたし自身のことを語れば、生活の大半が元湯にあり、マジョリティの中にある”定型”の生活の像とは異なる日々を重ねてきました。1日の大半の時間を、元湯の運営スタッフ、インターンシップに来る学生さん、お客様、近所の人たちと共にします。必然的に、わたしから産まれた子どもたちも同じように、多様な存在との出会いの日々の中で、尊い個性が伸びやかに育まれてきました。その過程で、「自宅」には帰らず、ゲストハウスに住まうことになったり、元湯を共に立ち上げた社長でもある配偶者とは夫婦関係を解く巡り合わせになったり、わたしの中で、「家」という概念はどんどん変容してきました。 乳児院だった建物を残す意義 多様な人生のストーリーとの出会いの場になることそんな背景の中、もともと乳児院だった場を、ゲストハウスとして生まれ変わらせるというミッションとの出会い。「幸せを育む”家”の形は、こうあるべき」という世に根強い価値観を、もっともっとぐらつかせたいなあと思うようになりました。この乳児院では、マジョリティが指す「家」とは異なる環境で、幾多の命が育まれたわけです。人生のストーリーはそれぞれ異なり、”定型”に収まっていることが幸せの尺度とイコールでは決してないはずです。 mammaと名付けた新しい場をつくる過程で、その時代を知らない我々が、乳児院時代の語り部との出会います。そのストーリーと触れ合うことで、多様な人生のストーリーに想像を巡らせることができます。このハコを残し、ゲストハウスの姿を借りて存在し続けることの意義は、ひとつ、そこにあると思っています。 多様な生き様のメンバーで日本の僻地に2箇所目の場をつくっていきます。 応援いただけたらとても嬉しいです。 (元湯とmammaのメンバー↓)